第二節 ― 森へ逃げた子
サハ=ネの家々を抜けるまでに、リオは三度呼び止められた。
「先生、本当に森へ入るのか」
最初は、腰に鉈を下げた中年の男だった。
「トアはもう普通じゃない。昨日なんか、屋根から屋根へ飛び移ったんだ。あんなの、人間の子どもにできることじゃない」
「それで?」
リオが聞き返すと、男は一瞬言葉に詰まった。
「それでって……危ないだろ」
「誰かを襲いました?」
「いや。まだ、そこまでは」
まだ。
その一言だけ、リオは覚えておいた。
二人目は家畜小屋の前にいた老人だった。
「完全に獣になる前に捕まえろ。森へ入りきったら手遅れだ」
エナの肩が強張った。
「トアは家畜を襲ったりしてません」
「今はな」
「やめてください」
「エナ、お前だって治してほしいんだろう」
老人に悪意はなかった。それが余計に厄介だった。
ここは密林の外縁に作られた開拓集落だ。獣が畑へ入り、夜には森から聞いたこともない声が響く。人と森の境目を曖昧にしたくないという恐れは、暮らしている者にしか分からない。
それでもエナは唇を結び、老人から目を逸らさなかった。
「治してほしいです。でも、あの子を獣みたいに追い回していいとは言ってません」
老人は何か言いかけたが、リオが森へ歩き出すと、結局ついては来なかった。
三人目は、縄を抱えた若い男だった。
「必要なら使ってくれ」
「いりません」
「暴れたらどうする」
「その時に考えます」
「先に縛った方が安全だろ」
「誰にとって?」
答えは返ってこなかった。
リオはそれ以上待たず、集落の端を越えた。
すぐ後ろをマヤが歩き、そのさらに後ろからエナが続く。
人が切り拓いた道は、数十歩も進まないうちに森へ呑み込まれた。
足元には湿った落ち葉が幾重にも積もり、踏むたびに柔らかな音を立てる。大樹の根が地面を盛り上げ、ところどころで道そのものを持ち上げていた。頭上では幾種類もの鳥が鳴き交わし、遠くから水の落ちる低い音が響いている。
陽射しは強いのに、地面まで届く光は細い。
葉と葉の隙間から落ちた光が、濡れた苔や赤い茸を一瞬だけ鮮やかに照らしては消える。
「半年ほど前からです」
エナが言った。
息を整えるためか、一度言葉を切る。
「最初は、耳でした。少し尖ってきて……本人も気にして、髪で隠してました。その次に歯が伸びて。夜でも物が見えるって言い出して」
リオは地面を見ながら聞いていた。
細い足跡がある。
裸足ではない。履物を履いた子どもの跡だ。ただし踵の沈み方が浅く、前側へ体重が寄っている。
「身体が変わる前、トアは?」
「弱い子でした」
エナの声が少し小さくなった。
「小さい頃からよく咳をして。走るとすぐ息が苦しくなって、夜中に起きることもありました。森なんて嫌いだったんです。虫も怖いし、獣の声がすると眠れないし」
「変わり始めてから、咳以外に体調の変化は?」
エナは少し考えた。
「最近は、村にいると夕方になると身体が熱いって言うことがありました。高い熱ではないんです。朝には下がっていて……でも、身体が重いって横になったり、食事を残したりする日も増えて」
「息苦しさは?」
「昔みたいな咳はないんです。でも、ときどき家の中だと息が詰まるって。外へ出たがるようになりました」
リオは足跡へ視線を落としたまま、短く頷いた。
咳は減っている。
なのに、別の不調が出ている。
それだけでは、まだ何も決められない。
マヤが足元の根を跨ぎながら振り返る。
「今は森に逃げたんですよね」
「……ええ」
そこだけ、エナは困ったように笑った。
「変ですよね」
「変、でしょうか」
マヤは首を傾げた。
エナが彼女を見る。
「だって、前は怖がっていた場所なのに」
「怖くなくなったのかもしれません」
マヤはそれだけ言って、前へ向き直った。
エナは何か答えようとして、やめた。
リオも口を挟まなかった。
土の上へしゃがみ込む。
トアの足跡が、ここから変わっている。
「昨日、捕まえようとしたんですね」
エナが息を詰めた。
「……はい」
「誰が?」
「村の人たちです。私も、止めませんでした」
正直な答えだった。
リオは跡を指でなぞる。
「どうして急に?」
「昨日、トアが木に登っているところを大勢に見られました」
「木に?」
「家よりずっと高いところまで、あっという間に。降りてきた時には爪が……その、普通じゃなくて」
エナは自分の指先を見るように両手を握った。
「このまま進んだら、本当に戻れなくなるって言われて。今ならまだ治せるかもしれないって」
「誰に?」
「村の薬師です。聖獣医師を探した方がいい、とも」
「それで捕まえようとした」
「話しても、診てもらわないって言うから……」
その先は言いにくいらしい。
リオは責めなかった。
「何人で?」
「四人です。縄も持っていました」
「トアは?」
「逃げました」
リオは立ち上がった。
その場の足跡は乱れている。
深く抉れた泥。横滑りした履物の跡。細い枝が折れ、葉が一方向へ倒れている。
そこから二十歩。
三十歩。
森へ入るほど、乱れが消えていった。
「おかしい」
リオが呟く。
「何がですか?」
エナがすぐに尋ねた。
リオは答える代わりに、少し先の足跡へ移った。
幅。
歩調。
重心。
泥への沈み方。
最初は全力で逃げたはずだ。なのに途中から歩幅が揃い、踏み込みが軽くなっている。
疲れて速度を落とした足ではない。
むしろ逆だった。
「走ってる」
「え?」
「ここから先、かなり速い」
マヤが隣へしゃがむ。
「足跡、浅いですよ」
「ああ」
「軽くなってる?」
「身体の使い方が変わってる」
リオはさらに先を見る。
木の根元に泥がついていた。
地面ではない。
リオの腰ほどの高さだ。
その上。
さらに上。
爪で樹皮を掴んだような細い傷が続いている。
エナの顔から血の気が引いた。
「こんな……」
「以前から木には?」
「登れませんでした。子どもの頃に落ちてから、低い枝にも近づかなかったくらいで」
リオは樹皮の傷へ指を当てた。
新しい。
昨日か、今朝。
「咳は?」
「え?」
「変わり始めてから」
エナは目を瞬いた。
「……なくなりました」
「いつから?」
「耳が変わり始めた頃には、まだ少し。でも、この二、三か月はほとんど。走っても、夜も」
リオは黙った。
肺が楽になった。
走れるようになった。
木へ登れるようになった。
一方で、村では熱っぽさや倦怠感が出ていた。
獣化が進行している。
そのすべてを、同じ列へ並べて考える。
「先生?」
マヤが呼ぶ。
「いや。まだ分からない」
リオは立ち上がった。
「ただ、少なくとも森へ入ってから悪くなってるようには見えない」
もう一度、先へ続く足跡を見る。
「むしろ、こっちへ来てから身体が安定してる可能性がある」
エナが顔を上げた。
「森に入ったから……?」
「まだそう決めるには早いです」
リオは首を横へ振った。
「でも、村で出ていた不調と、ここでの動きは比べる必要がある」
「でも、変化は進んでます」
「それと体調が悪いことは、同じじゃない」
そこまで言って、リオは歩き出した。
断定するには早い。
そもそも何がトアの身体を変えているのかさえ、まだ診ていない。
森は深くなるほど、人の道を嫌うようだった。
まっすぐ歩ける場所がない。太い根を越え、蔓をくぐり、倒木の上を渡る。葉の裏には極彩色の虫が張りつき、触れた枝から小さな蜥蜴が何匹も飛び散った。
そのたびにエナは足を急がせる。
マヤは途中で一度、枝から垂れた青い実へ手を伸ばした。
「食べるなよ」
「触ろうとしただけです」
「さっきも聞いた」
「今回は本当です」
「今回は、って言ったな」
エナが一瞬だけ二人を見る。
ほんの少し、張り詰めていた口元が緩んだ。
それだけでよかった。
やがて、リオが手を上げた。
「止まって」
三人とも足を止める。
何かがいる。
姿は見えない。
ただ、頭上で葉が擦れた。
鳥ではない。
もっと重い。
マヤがゆっくり顔を上げる。
大樹の枝が何段にも重なっている。
その一つ。
影が動いた。
人間ほどの大きさ。
だが、最初に見えた輪郭は人ではなかった。
幹へ張りつくように低く身を伏せ、片手――いや、前脚のように見えた腕で枝を掴んでいる。
葉の隙間で、二つの目が光った。
金色。
獣の目だった。
エナが息を呑む。
「トア……?」
影の頭部が動く。
髪の間から、耳が突き出していた。
人間より長く、先が鋭い。音を探すようにわずかに向きを変える。
口元には牙。
枝を掴んだ指には、硬く伸びた爪が食い込んでいる。
肩から背中へ、短い毛が生えていた。
一瞬だけ見れば、森に棲む若い獣だった。
「トア」
エナが一歩出る。
影が身を引いた。
「待って」
リオが腕を出して止める。
「でも」
「追い立てたら、もっと上へ行きます」
エナは足を止めた。
トアは母親を見ていた。
逃げない。
降りてもこない。
低い枝から三人を観察している。
その視線がマヤで止まった。
金色の瞳が細くなる。
マヤも見上げる。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
先に口を開いたのはトアだった。
「……誰?」
少年の声だった。
少しかすれている。
それでも、はっきりとした人の言葉だった。
エナが目を見開く。
マヤは一度瞬きをしてから、自分を指さした。
「わたし?」
「他に誰がいるんだよ」
「ちゃんと話すんですね」
「話すよ」
むっとした声が返ってきた。
マヤは少し考えてから頷く。
「それは失礼しました」
「何だよ、それ」
トアの眉が寄る。
表情も、声も、年相応の少年そのものだった。
リオはそのやり取りを見ながら、ゆっくり地面へ腰を下ろした。
大きな樹根の上。
トアからは数歩以上離れている。
「俺はリオ」
見上げる。
「聖獣医師だ」
トアの耳がぴくりと動いた。
「母さんが呼んだの?」
「そうだ」
「戻しに来た?」
その問いに、エナが何か言いかけた。
リオが先に答える。
「診に来た」
「同じだろ」
「診ないと、戻せるかどうかも分からない」
「戻すって決めてるじゃん」
棘がある。
当然だった。
昨日、縄を持った大人たちに追われたばかりなのだ。
リオは診療鞄を自分の膝の横へ置いた。
「じゃあ、決めてないことだけ言う」
「何」
「無理に木から下ろさない。縛らない。眠らせない」
トアは黙った。
「診せたくないなら、今は何もしない」
「母さんが怒る」
「怒るかもしれないな」
「先生」
エナが小さく抗議する。
「怒らないんですか?」
トアが聞いた。
「俺が?」
「逃げたから」
「患者が逃げる時は、だいたい理由がある」
「俺、まだ患者じゃないって言ったら?」
リオは少し考えた。
「それを調べるところからだな」
今度はトアが答えに詰まった。
枝の上で姿勢を変える。
その動きは滑らかだった。爪が樹皮を掴み、身体を支える。人間の少年が無理をして木に張りついているのではない。
この身体は、もう木の上で動く方法を知っている。
やがてトアが言った。
「……痛いことする?」
「一回だけ針を刺す」
「やっぱりするじゃん」
「嘘はつかない」
マヤが横から言った。
「先生の針、そんなに痛くないですよ」
トアが彼女を見る。
「刺されたことあるの?」
「たくさん」
「それ、信用していい話?」
マヤはリオを見た。
「どうでしょう」
「そこで迷うな」
トアの口元が、ほんの少し緩んだ。
エナがそれを見て、目を伏せる。
リオは急がなかった。
やがて枝が揺れた。
トアが一段下へ降りる。
さらに一段。
最後まで地面には降りず、リオの頭より少し高い根上へ腰を下ろした。
「ここでいい?」
「十分」
リオは診療鞄を開く。
マヤはもう隣へ来ていた。
「血読針」
言い終わる前に、細い針が差し出される。
「どうぞ」
トアが二人を見る。
「ほんとに助手なんだ」
「たぶん」
「たぶん?」
「先生が給料を払ってくれないので、正式かどうか分かりません」
「食費は払ってる」
「食べたい果物を一個に減らされました」
「今その話をするな」
トアが笑った。
ほんの短い笑いだった。
その瞬間、リオは少年の呼吸を見た。
笑っても乱れない。
胸が自然に広がる。
咳もない。
「手、出せるか?」
トアは少し迷ってから、枝の上から右手を伸ばした。
爪は確かに変わっている。
半透明の硬い層が指先を覆い、人の爪より長く尖っていた。だが皮膚に炎症はない。爪床も安定している。
「刺すぞ」
「うん」
血読針で指先から一滴だけ血を採る。
血は赤い。
少し濃い。
針先に乗った滴へ光が触れると、内部に細い筋が広がった。
リオは目を細める。
濁りはない。
腐花に見られた死へ向かう流れも、祝福暴走に特有の乱れもない。
「熱は?」
「今はない」
「村にいた時は?」
トアが少し考えた。
「最近、夕方になると熱っぽい時あった。身体も重くて、飯いらないってなる」
エナが息子を見る。
「やっぱり、あれは……」
「今は?」
リオが続ける。
「腹減ってる」
「身体の重さは?」
「ない」
「息は?」
トアは大きく吸ってみせた。
「楽」
リオはその呼吸を見る。
深い。
咳も出ない。
「森へ入ってから?」
「うん。昨日からずっと平気」
リオは記録帳へまだ書かなかった。
今は一例だ。
母親の話とも合う。
足跡から見た動きとも。
それでも、まだ診断には早い。
「痛いところ」
「足。たまに」
「どこ?」
「膝とか、すね。あと背中」
「いつ」
「夜。伸びてるみたいに痛い」
リオは視線を上げた。
「実際、身長は?」
エナが答える。
「半年でかなり伸びました。服がすぐ合わなくなって」
「食欲」
「増えた」
トアが言う。
「すぐ腹減る」
「何を食べる?」
「何でも。最近は肉がうまい」
エナの顔がわずかに曇る。
トアはそれに気づいたらしく、口を閉じた。
リオは血読針をしまった。
「次、胸の音を聞く。服の上からでいい」
「ここから?」
「届かないな」
トアがため息をついた。
ようやく根から地面へ降りる。
着地音は軽かった。
十一歳の少年の身体が、ほとんど揺れない。
リオはその動きも見ていた。
「座って」
トアは母親ではなく、マヤの近くへ座った。
エナの指先がわずかに動く。
しかし何も言わなかった。
リオはトアの背後へ回り、呼吸の回数を確かめる。
「深く吸って」
トアが息を吸う。
肺が大きく膨らんだ。
吐く。
雑音はない。
もう一度。
速く。
遅く。
獣脈聴診へ切り替える。
人間の心音だけではない。
変異者には、身体がどちらへ向かっているのかを示す生命の揺れがある。
リオは左腕の包帯を少し解いた。
白い毛と、樹皮に似た皮膚が覗く。
トアの目がそこへ吸いついた。
「先生も?」
「何が」
「変わってる」
「まあな」
「治さないの?」
リオの指が一瞬だけ止まった。
「今は、お前の診察中だ」
「ずるい」
「そうかもな」
左手を、トアの背へ軽く添える。
《医脈》が開く。
淡い光が包帯の隙間を走り、指先から少年の身体へ触れた。
血。
骨。
筋肉。
呼吸。
心臓。
それらが別々の情報ではなく、一つの流れとして返ってくる。
リオの眉が少しずつ寄った。
肺が強い。
以前の病弱な状態を直接知っているわけではない。それでも今の肺には、呼吸器疾患を抱えていた形跡と、それを上書きするほどの構造変化がある。
空気を取り込む量が増えている。
血へ酸素を渡す効率も高い。
心拍は安定。
筋肉も、木を登る身体へ適応し始めている。
感染症らしい反応はない。
理性を侵す神性寄生の兆候も、今のところ読めない。
問題は別の場所にあった。
「トア。口、開けて」
「え」
「喉を見る」
少年が口を開く。
犬歯が長い。
舌の動きは正常。
だが喉の奥、発声に使う器官にも変化が始まっている。
「『あー』って言って」
「あー」
「もう一回。今度は低く」
「……あぁー」
微かな掠れ。
声変わりとは違う。
リオは手を離した。
膝の痛み。
背中。
急な身長の伸び。
筋肉の付き方。
骨だけが先に伸びている箇所と、それを追いかけるように組織が作り替わっている箇所がある。
すべてが同じ速度ではない。
「先生?」
エナが耐えきれずに声をかけた。
リオはまだ答えず、トアの瞳を確認した。
「俺が誰か分かる?」
「リオ先生」
「この人は?」
マヤを示す。
「名前聞いてない」
「あ」
マヤが気づいた顔をした。
「マヤです」
「遅いよ」
「会ってすぐ診察になったので」
「母親は?」
リオが尋ねる。
トアの顔から少し表情が消えた。
「……母さん」
「昨日のことは覚えてる?」
「みんなが縄持ってきた」
「その前」
「朝飯食べて、薪運んで。母さんに爪隠しなさいって言われた」
エナが息を止める。
「トア、私は――」
「今は診察」
リオが静かに止めた。
エナは唇を噛んだ。
トアの記憶は保たれている。
受け答えも自然。
怒りも、警戒も、冗談への反応もある。
少なくとも、村人たちが恐れていた「理性を失った獣」ではない。
リオは診療鞄から記録帳を取り出し、短く書きつけた。
「先生」
エナがまた呼ぶ。
「感染しますか?」
「今のところ、その所見はありません」
エナの肩が少し落ちた。
「じゃあ……病気じゃない?」
「そこはまだ言い切れません」
「でも、この子は変わってます」
「変わってます」
リオは否定しなかった。
トアの耳が、その言葉へ反応するように少し伏せられた。
「ただ」
リオは少年を見る。
「変わった結果、前より呼吸は安定してる。心臓もいい。筋力も上がってる」
「……良くなってる?」
エナがかすれた声で聞く。
「少なくとも、身体の一部は」
トアが自分の胸へ手を当てた。
「だから走っても苦しくないんだ」
「ああ」
「前は、ここまで走ったら絶対吐いてた」
その言葉には、少しだけ嬉しさがあった。
エナの顔が揺れた。
息子が苦しまなくなったことを喜びたい母親と、その代わりに現れた姿を恐れている母親が、同じ顔の中にいた。
リオは記録帳を閉じる。
「ただし、安心はできない」
トアが顔を上げる。
「骨と筋肉の変化が揃ってない。代謝も高すぎる。今のまま同じ速度で進めば、身体が変化についていけなくなる可能性がある」
「死ぬの?」
「それも、まだ分からない」
リオは率直に答えた。
「喉も変わり始めてる。声に影響が出るかもしれない。他にも、これから何が変わるかは診続けないと分からない」
トアの手が、自分の喉へ触れた。
その仕草を見て、エナが一歩近づく。
今度はトアも逃げなかった。
ただし、母親を見上げもしない。
リオは二人の間へ答えを置かないように、慎重に言葉を選んだ。
「今の段階で言えるのは一つだけです」
エナを見る。
次に、トアを見る。
「病気というより、適応だ」
「適応……?」
エナの視線が、息子の尖った耳へ向かう。
爪へ。
牙へ。
金色の瞳へ。
「でも、この姿が?」
リオは答えなかった。
森で安定しているように見えること。
村では熱や倦怠が出ていたこと。
肺も筋肉も、ここで動くには都合のいい形へ変わっていること。
線はつながり始めている。
だが、まだ一日分の観察しかない。
何へ適応しているのかまで決めるには、もう少し確かめる必要があった。
森のどこかで、低い獣の声が響いた。
トアの尖った耳が、その方向へ静かに向いた。




