↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
16/41

第二節 ― 森へ逃げた子

 サハ=ネの家々を抜けるまでに、リオは三度呼び止められた。


「先生、本当に森へ入るのか」


 最初は、腰に鉈を下げた中年の男だった。


「トアはもう普通じゃない。昨日なんか、屋根から屋根へ飛び移ったんだ。あんなの、人間の子どもにできることじゃない」


「それで?」


 リオが聞き返すと、男は一瞬言葉に詰まった。


「それでって……危ないだろ」


「誰かを襲いました?」


「いや。まだ、そこまでは」


 まだ。


 その一言だけ、リオは覚えておいた。


 二人目は家畜小屋の前にいた老人だった。


「完全に獣になる前に捕まえろ。森へ入りきったら手遅れだ」


 エナの肩が強張った。


「トアは家畜を襲ったりしてません」


「今はな」


「やめてください」


「エナ、お前だって治してほしいんだろう」


 老人に悪意はなかった。それが余計に厄介だった。


 ここは密林の外縁に作られた開拓集落だ。獣が畑へ入り、夜には森から聞いたこともない声が響く。人と森の境目を曖昧にしたくないという恐れは、暮らしている者にしか分からない。


 それでもエナは唇を結び、老人から目を逸らさなかった。


「治してほしいです。でも、あの子を獣みたいに追い回していいとは言ってません」


 老人は何か言いかけたが、リオが森へ歩き出すと、結局ついては来なかった。


 三人目は、縄を抱えた若い男だった。


「必要なら使ってくれ」


「いりません」


「暴れたらどうする」


「その時に考えます」


「先に縛った方が安全だろ」


「誰にとって?」


 答えは返ってこなかった。


 リオはそれ以上待たず、集落の端を越えた。


 すぐ後ろをマヤが歩き、そのさらに後ろからエナが続く。


 人が切り拓いた道は、数十歩も進まないうちに森へ呑み込まれた。


 足元には湿った落ち葉が幾重にも積もり、踏むたびに柔らかな音を立てる。大樹の根が地面を盛り上げ、ところどころで道そのものを持ち上げていた。頭上では幾種類もの鳥が鳴き交わし、遠くから水の落ちる低い音が響いている。


 陽射しは強いのに、地面まで届く光は細い。


 葉と葉の隙間から落ちた光が、濡れた苔や赤い茸を一瞬だけ鮮やかに照らしては消える。


「半年ほど前からです」


 エナが言った。


 息を整えるためか、一度言葉を切る。


「最初は、耳でした。少し尖ってきて……本人も気にして、髪で隠してました。その次に歯が伸びて。夜でも物が見えるって言い出して」


 リオは地面を見ながら聞いていた。


 細い足跡がある。


 裸足ではない。履物を履いた子どもの跡だ。ただし踵の沈み方が浅く、前側へ体重が寄っている。


「身体が変わる前、トアは?」


「弱い子でした」


 エナの声が少し小さくなった。


「小さい頃からよく咳をして。走るとすぐ息が苦しくなって、夜中に起きることもありました。森なんて嫌いだったんです。虫も怖いし、獣の声がすると眠れないし」


「変わり始めてから、咳以外に体調の変化は?」


 エナは少し考えた。


「最近は、村にいると夕方になると身体が熱いって言うことがありました。高い熱ではないんです。朝には下がっていて……でも、身体が重いって横になったり、食事を残したりする日も増えて」


「息苦しさは?」


「昔みたいな咳はないんです。でも、ときどき家の中だと息が詰まるって。外へ出たがるようになりました」


 リオは足跡へ視線を落としたまま、短く頷いた。


 咳は減っている。


 なのに、別の不調が出ている。


 それだけでは、まだ何も決められない。


 マヤが足元の根を跨ぎながら振り返る。


「今は森に逃げたんですよね」


「……ええ」


 そこだけ、エナは困ったように笑った。


「変ですよね」


「変、でしょうか」


 マヤは首を傾げた。


 エナが彼女を見る。


「だって、前は怖がっていた場所なのに」


「怖くなくなったのかもしれません」


 マヤはそれだけ言って、前へ向き直った。


 エナは何か答えようとして、やめた。


 リオも口を挟まなかった。


 土の上へしゃがみ込む。


 トアの足跡が、ここから変わっている。


「昨日、捕まえようとしたんですね」


 エナが息を詰めた。


「……はい」


「誰が?」


「村の人たちです。私も、止めませんでした」


 正直な答えだった。


 リオは跡を指でなぞる。


「どうして急に?」


「昨日、トアが木に登っているところを大勢に見られました」


「木に?」


「家よりずっと高いところまで、あっという間に。降りてきた時には爪が……その、普通じゃなくて」


 エナは自分の指先を見るように両手を握った。


「このまま進んだら、本当に戻れなくなるって言われて。今ならまだ治せるかもしれないって」


「誰に?」


「村の薬師です。聖獣医師を探した方がいい、とも」


「それで捕まえようとした」


「話しても、診てもらわないって言うから……」


 その先は言いにくいらしい。


 リオは責めなかった。


「何人で?」


「四人です。縄も持っていました」


「トアは?」


「逃げました」


 リオは立ち上がった。


 その場の足跡は乱れている。


 深く抉れた泥。横滑りした履物の跡。細い枝が折れ、葉が一方向へ倒れている。


 そこから二十歩。


 三十歩。


 森へ入るほど、乱れが消えていった。


「おかしい」


 リオが呟く。


「何がですか?」


 エナがすぐに尋ねた。


 リオは答える代わりに、少し先の足跡へ移った。


 幅。


 歩調。


 重心。


 泥への沈み方。


 最初は全力で逃げたはずだ。なのに途中から歩幅が揃い、踏み込みが軽くなっている。


 疲れて速度を落とした足ではない。


 むしろ逆だった。


「走ってる」


「え?」


「ここから先、かなり速い」


 マヤが隣へしゃがむ。


「足跡、浅いですよ」


「ああ」


「軽くなってる?」


「身体の使い方が変わってる」


 リオはさらに先を見る。


 木の根元に泥がついていた。


 地面ではない。


 リオの腰ほどの高さだ。


 その上。


 さらに上。


 爪で樹皮を掴んだような細い傷が続いている。


 エナの顔から血の気が引いた。


「こんな……」


「以前から木には?」


「登れませんでした。子どもの頃に落ちてから、低い枝にも近づかなかったくらいで」


 リオは樹皮の傷へ指を当てた。


 新しい。


 昨日か、今朝。


「咳は?」


「え?」


「変わり始めてから」


 エナは目を瞬いた。


「……なくなりました」


「いつから?」


「耳が変わり始めた頃には、まだ少し。でも、この二、三か月はほとんど。走っても、夜も」


 リオは黙った。


 肺が楽になった。


 走れるようになった。


 木へ登れるようになった。


 一方で、村では熱っぽさや倦怠感が出ていた。


 獣化が進行している。


 そのすべてを、同じ列へ並べて考える。


「先生?」


 マヤが呼ぶ。


「いや。まだ分からない」


 リオは立ち上がった。


「ただ、少なくとも森へ入ってから悪くなってるようには見えない」


 もう一度、先へ続く足跡を見る。


「むしろ、こっちへ来てから身体が安定してる可能性がある」


 エナが顔を上げた。


「森に入ったから……?」


「まだそう決めるには早いです」


 リオは首を横へ振った。


「でも、村で出ていた不調と、ここでの動きは比べる必要がある」


「でも、変化は進んでます」


「それと体調が悪いことは、同じじゃない」


 そこまで言って、リオは歩き出した。


 断定するには早い。


 そもそも何がトアの身体を変えているのかさえ、まだ診ていない。


 森は深くなるほど、人の道を嫌うようだった。


 まっすぐ歩ける場所がない。太い根を越え、蔓をくぐり、倒木の上を渡る。葉の裏には極彩色の虫が張りつき、触れた枝から小さな蜥蜴が何匹も飛び散った。


 そのたびにエナは足を急がせる。


 マヤは途中で一度、枝から垂れた青い実へ手を伸ばした。


「食べるなよ」


「触ろうとしただけです」


「さっきも聞いた」


「今回は本当です」


「今回は、って言ったな」


 エナが一瞬だけ二人を見る。


 ほんの少し、張り詰めていた口元が緩んだ。


 それだけでよかった。


 やがて、リオが手を上げた。


「止まって」


 三人とも足を止める。


 何かがいる。


 姿は見えない。


 ただ、頭上で葉が擦れた。


 鳥ではない。


 もっと重い。


 マヤがゆっくり顔を上げる。


 大樹の枝が何段にも重なっている。


 その一つ。


 影が動いた。


 人間ほどの大きさ。


 だが、最初に見えた輪郭は人ではなかった。


 幹へ張りつくように低く身を伏せ、片手――いや、前脚のように見えた腕で枝を掴んでいる。


 葉の隙間で、二つの目が光った。


 金色。


 獣の目だった。


 エナが息を呑む。


「トア……?」


 影の頭部が動く。


 髪の間から、耳が突き出していた。


 人間より長く、先が鋭い。音を探すようにわずかに向きを変える。


 口元には牙。


 枝を掴んだ指には、硬く伸びた爪が食い込んでいる。


 肩から背中へ、短い毛が生えていた。


 一瞬だけ見れば、森に棲む若い獣だった。


「トア」


 エナが一歩出る。


 影が身を引いた。


「待って」


 リオが腕を出して止める。


「でも」


「追い立てたら、もっと上へ行きます」


 エナは足を止めた。


 トアは母親を見ていた。


 逃げない。


 降りてもこない。


 低い枝から三人を観察している。


 その視線がマヤで止まった。


 金色の瞳が細くなる。


 マヤも見上げる。


 しばらく、どちらも何も言わなかった。


 先に口を開いたのはトアだった。


「……誰?」


 少年の声だった。


 少しかすれている。


 それでも、はっきりとした人の言葉だった。


 エナが目を見開く。


 マヤは一度瞬きをしてから、自分を指さした。


「わたし?」


「他に誰がいるんだよ」


「ちゃんと話すんですね」


「話すよ」


 むっとした声が返ってきた。


 マヤは少し考えてから頷く。


「それは失礼しました」


「何だよ、それ」


 トアの眉が寄る。


 表情も、声も、年相応の少年そのものだった。


 リオはそのやり取りを見ながら、ゆっくり地面へ腰を下ろした。


 大きな樹根の上。


 トアからは数歩以上離れている。


「俺はリオ」


 見上げる。


「聖獣医師だ」


 トアの耳がぴくりと動いた。


「母さんが呼んだの?」


「そうだ」


「戻しに来た?」


 その問いに、エナが何か言いかけた。


 リオが先に答える。


「診に来た」


「同じだろ」


「診ないと、戻せるかどうかも分からない」


「戻すって決めてるじゃん」


 棘がある。


 当然だった。


 昨日、縄を持った大人たちに追われたばかりなのだ。


 リオは診療鞄を自分の膝の横へ置いた。


「じゃあ、決めてないことだけ言う」


「何」


「無理に木から下ろさない。縛らない。眠らせない」


 トアは黙った。


「診せたくないなら、今は何もしない」


「母さんが怒る」


「怒るかもしれないな」


「先生」


 エナが小さく抗議する。


「怒らないんですか?」


 トアが聞いた。


「俺が?」


「逃げたから」


「患者が逃げる時は、だいたい理由がある」


「俺、まだ患者じゃないって言ったら?」


 リオは少し考えた。


「それを調べるところからだな」


 今度はトアが答えに詰まった。


 枝の上で姿勢を変える。


 その動きは滑らかだった。爪が樹皮を掴み、身体を支える。人間の少年が無理をして木に張りついているのではない。


 この身体は、もう木の上で動く方法を知っている。


 やがてトアが言った。


「……痛いことする?」


「一回だけ針を刺す」


「やっぱりするじゃん」


「嘘はつかない」


 マヤが横から言った。


「先生の針、そんなに痛くないですよ」


 トアが彼女を見る。


「刺されたことあるの?」


「たくさん」


「それ、信用していい話?」


 マヤはリオを見た。


「どうでしょう」


「そこで迷うな」


 トアの口元が、ほんの少し緩んだ。


 エナがそれを見て、目を伏せる。


 リオは急がなかった。


 やがて枝が揺れた。


 トアが一段下へ降りる。


 さらに一段。


 最後まで地面には降りず、リオの頭より少し高い根上へ腰を下ろした。


「ここでいい?」


「十分」


 リオは診療鞄を開く。


 マヤはもう隣へ来ていた。


「血読針」


 言い終わる前に、細い針が差し出される。


「どうぞ」


 トアが二人を見る。


「ほんとに助手なんだ」


「たぶん」


「たぶん?」


「先生が給料を払ってくれないので、正式かどうか分かりません」


「食費は払ってる」


「食べたい果物を一個に減らされました」


「今その話をするな」


 トアが笑った。


 ほんの短い笑いだった。


 その瞬間、リオは少年の呼吸を見た。


 笑っても乱れない。


 胸が自然に広がる。


 咳もない。


「手、出せるか?」


 トアは少し迷ってから、枝の上から右手を伸ばした。


 爪は確かに変わっている。


 半透明の硬い層が指先を覆い、人の爪より長く尖っていた。だが皮膚に炎症はない。爪床も安定している。


「刺すぞ」


「うん」


 血読針で指先から一滴だけ血を採る。


 血は赤い。


 少し濃い。


 針先に乗った滴へ光が触れると、内部に細い筋が広がった。


 リオは目を細める。


 濁りはない。


 腐花に見られた死へ向かう流れも、祝福暴走に特有の乱れもない。


「熱は?」


「今はない」


「村にいた時は?」


 トアが少し考えた。


「最近、夕方になると熱っぽい時あった。身体も重くて、飯いらないってなる」


 エナが息子を見る。


「やっぱり、あれは……」


「今は?」


 リオが続ける。


「腹減ってる」


「身体の重さは?」


「ない」


「息は?」


 トアは大きく吸ってみせた。


「楽」


 リオはその呼吸を見る。


 深い。


 咳も出ない。


「森へ入ってから?」


「うん。昨日からずっと平気」


 リオは記録帳へまだ書かなかった。


 今は一例だ。


 母親の話とも合う。


 足跡から見た動きとも。


 それでも、まだ診断には早い。


「痛いところ」


「足。たまに」


「どこ?」


「膝とか、すね。あと背中」


「いつ」


「夜。伸びてるみたいに痛い」


 リオは視線を上げた。


「実際、身長は?」


 エナが答える。


「半年でかなり伸びました。服がすぐ合わなくなって」


「食欲」


「増えた」


 トアが言う。


「すぐ腹減る」


「何を食べる?」


「何でも。最近は肉がうまい」


 エナの顔がわずかに曇る。


 トアはそれに気づいたらしく、口を閉じた。


 リオは血読針をしまった。


「次、胸の音を聞く。服の上からでいい」


「ここから?」


「届かないな」


 トアがため息をついた。


 ようやく根から地面へ降りる。


 着地音は軽かった。


 十一歳の少年の身体が、ほとんど揺れない。


 リオはその動きも見ていた。


「座って」


 トアは母親ではなく、マヤの近くへ座った。


 エナの指先がわずかに動く。


 しかし何も言わなかった。


 リオはトアの背後へ回り、呼吸の回数を確かめる。


「深く吸って」


 トアが息を吸う。


 肺が大きく膨らんだ。


 吐く。


 雑音はない。


 もう一度。


 速く。


 遅く。


 獣脈聴診へ切り替える。


 人間の心音だけではない。


 変異者には、身体がどちらへ向かっているのかを示す生命の揺れがある。


 リオは左腕の包帯を少し解いた。


 白い毛と、樹皮に似た皮膚が覗く。


 トアの目がそこへ吸いついた。


「先生も?」


「何が」


「変わってる」


「まあな」


「治さないの?」


 リオの指が一瞬だけ止まった。


「今は、お前の診察中だ」


「ずるい」


「そうかもな」


 左手を、トアの背へ軽く添える。


 《医脈》が開く。


 淡い光が包帯の隙間を走り、指先から少年の身体へ触れた。


 血。


 骨。


 筋肉。


 呼吸。


 心臓。


 それらが別々の情報ではなく、一つの流れとして返ってくる。


 リオの眉が少しずつ寄った。


 肺が強い。


 以前の病弱な状態を直接知っているわけではない。それでも今の肺には、呼吸器疾患を抱えていた形跡と、それを上書きするほどの構造変化がある。


 空気を取り込む量が増えている。


 血へ酸素を渡す効率も高い。


 心拍は安定。


 筋肉も、木を登る身体へ適応し始めている。


 感染症らしい反応はない。


 理性を侵す神性寄生の兆候も、今のところ読めない。


 問題は別の場所にあった。


「トア。口、開けて」


「え」


「喉を見る」


 少年が口を開く。


 犬歯が長い。


 舌の動きは正常。


 だが喉の奥、発声に使う器官にも変化が始まっている。


「『あー』って言って」


「あー」


「もう一回。今度は低く」


「……あぁー」


 微かな掠れ。


 声変わりとは違う。


 リオは手を離した。


 膝の痛み。


 背中。


 急な身長の伸び。


 筋肉の付き方。


 骨だけが先に伸びている箇所と、それを追いかけるように組織が作り替わっている箇所がある。


 すべてが同じ速度ではない。


「先生?」


 エナが耐えきれずに声をかけた。


 リオはまだ答えず、トアの瞳を確認した。


「俺が誰か分かる?」


「リオ先生」


「この人は?」


 マヤを示す。


「名前聞いてない」


「あ」


 マヤが気づいた顔をした。


「マヤです」


「遅いよ」


「会ってすぐ診察になったので」


「母親は?」


 リオが尋ねる。


 トアの顔から少し表情が消えた。


「……母さん」


「昨日のことは覚えてる?」


「みんなが縄持ってきた」


「その前」


「朝飯食べて、薪運んで。母さんに爪隠しなさいって言われた」


 エナが息を止める。


「トア、私は――」


「今は診察」


 リオが静かに止めた。


 エナは唇を噛んだ。


 トアの記憶は保たれている。


 受け答えも自然。


 怒りも、警戒も、冗談への反応もある。


 少なくとも、村人たちが恐れていた「理性を失った獣」ではない。


 リオは診療鞄から記録帳を取り出し、短く書きつけた。


「先生」


 エナがまた呼ぶ。


「感染しますか?」


「今のところ、その所見はありません」


 エナの肩が少し落ちた。


「じゃあ……病気じゃない?」


「そこはまだ言い切れません」


「でも、この子は変わってます」


「変わってます」


 リオは否定しなかった。


 トアの耳が、その言葉へ反応するように少し伏せられた。


「ただ」


 リオは少年を見る。


「変わった結果、前より呼吸は安定してる。心臓もいい。筋力も上がってる」


「……良くなってる?」


 エナがかすれた声で聞く。


「少なくとも、身体の一部は」


 トアが自分の胸へ手を当てた。


「だから走っても苦しくないんだ」


「ああ」


「前は、ここまで走ったら絶対吐いてた」


 その言葉には、少しだけ嬉しさがあった。


 エナの顔が揺れた。


 息子が苦しまなくなったことを喜びたい母親と、その代わりに現れた姿を恐れている母親が、同じ顔の中にいた。


 リオは記録帳を閉じる。


「ただし、安心はできない」


 トアが顔を上げる。


「骨と筋肉の変化が揃ってない。代謝も高すぎる。今のまま同じ速度で進めば、身体が変化についていけなくなる可能性がある」


「死ぬの?」


「それも、まだ分からない」


 リオは率直に答えた。


「喉も変わり始めてる。声に影響が出るかもしれない。他にも、これから何が変わるかは診続けないと分からない」


 トアの手が、自分の喉へ触れた。


 その仕草を見て、エナが一歩近づく。


 今度はトアも逃げなかった。


 ただし、母親を見上げもしない。


 リオは二人の間へ答えを置かないように、慎重に言葉を選んだ。


「今の段階で言えるのは一つだけです」


 エナを見る。


 次に、トアを見る。


「病気というより、適応だ」


「適応……?」


 エナの視線が、息子の尖った耳へ向かう。


 爪へ。


 牙へ。


 金色の瞳へ。


「でも、この姿が?」


 リオは答えなかった。


 森で安定しているように見えること。


 村では熱や倦怠が出ていたこと。


 肺も筋肉も、ここで動くには都合のいい形へ変わっていること。


 線はつながり始めている。


 だが、まだ一日分の観察しかない。


 何へ適応しているのかまで決めるには、もう少し確かめる必要があった。


 森のどこかで、低い獣の声が響いた。


 トアの尖った耳が、その方向へ静かに向いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。