第一節 ― 白い足跡の先
ラウ=マリカを離れて半日もすると、潮の匂いが消えた。
代わりに鼻へ入ってくるのは、濡れた土と樹液、それから陽に蒸された葉の青臭さだった。
ルマリア水系へ入った船は、朝まで乗っていた帆船とは比べものにならないほど小さい。
大河までは荷船でも進めるが、その先の支流には浅瀬と水没した根が多い。そこで二人は途中の船着き場から、《根舟》と呼ばれる浅底の小舟へ乗り換えていた。
細長い船体には簡素な短帆が一枚。船頭は川底を探るように長い竹竿を差し込み、水面へ突き出した根を器用に避けながら舟を進めていく。
リオは船首近くに座り、岸を見ていた。
正確には、泥を見ている。
白い獣が残した痕跡は、ラウ=マリカの外れから途切れながらも内陸へ続いていた。
昨夜見つけたものは蹄跡だった。
ところが河口近くの湿地では、それとはまったく違う跡が混じった。大きな肉食獣が泥へ前脚を沈めたような、深い足跡。爪らしき筋まで残っている。
同じ場所を別の獣が通った可能性もある。
普通なら、そう考える。
だが二種類の跡は、不自然なほど同じ方向へ続いていた。
「先生」
後ろからマヤの声がした。
「見てます?」
「見てる」
「違います。そっちじゃありません」
リオはようやく泥から目を離した。
マヤは舟の反対側へ身を乗り出していた。流れの先、水面に大きな影が滑っている。
影が舟の下へ潜った。
次の瞬間、水が盛り上がった。
「わっ」
マヤが身を引くのとほぼ同時に、巨大な魚が舟のすぐ横で水面を割った。
丸太ほどもある胴が陽光を弾く。青銀色の鱗が一瞬だけ虹色に光り、大きな尾が水を叩いた。跳ね上がった水がまともに舟へ降り注ぐ。
マヤは頭から濡れた。
リオは半身だけ濡れた。
船頭だけが、何事もなかったように竹竿を動かしていた。
マヤは顔へ張りついた髪を両手で払った。
「……今の、魚ですか?」
「たぶん」
「大きすぎません?」
「この辺じゃ、まだ小さい方らしい」
マヤの顔が輝いた。
「もっと大きいのがいるんですか?」
「そこで喜ぶのか」
「だって見たいじゃないですか」
「舟より大きいのが下から出てきても?」
少し考えてから、マヤは船縁を掴み直した。
「それは、舟の外から見たいです」
「賢明だな」
川幅は進むほど狭くなり、その代わり、森が高くなった。
いや、森が近づいてきた、と言った方がよかった。
両岸からせり出した巨大樹の根が水の中へ沈み、その隙間を小魚の群れが走る。太い幹には色鮮やかな花が寄生し、何本もの蔓が対岸へ橋のように垂れていた。
頭上で甲高い声がする。
見上げると、赤、青、黄色の羽を持つ鳥たちが一斉に枝から飛び立った。羽音と一緒に、花びらのような小さな羽毛が舞い落ちてくる。
そのさらに上には別の森があった。
大樹同士の枝が絡み、蔓と葉が重なって、地上とは別の緑の床を作っている。
マヤはすっかり上ばかり見ていた。
「落ちるぞ」
「落ちません」
「さっき魚に驚いて落ちかけた」
「あれは魚が悪いです」
「魚に聞いておく」
「お願いします」
真顔で返され、リオは一瞬だけ黙った。
その間にも、枝の上から何かが二人を追ってくる。
小柄な猿だった。
一頭、二頭と増え、気づけば五、六頭が舟と並走するように枝を渡っている。長い腕で蔓を掴み、器用に身体を投げ出して次の木へ移る。
マヤが手を振ると、一頭が止まった。
猿も手を上げた。
「先生。挨拶してくれました」
「たぶん違う」
猿は手に持っていた木の実を投げた。
リオの肩に当たった。
マヤが口元を押さえる。
「笑っていいぞ」
「まだ笑ってません」
「もう笑ってる」
「気のせいです」
猿たちは騒がしく鳴きながら、さらに木の実を投げ始めた。
船頭が慣れた手つきで短帆の向きを変え、舟を少し岸から離す。
マヤは落ちてきた木の実を一つ拾った。親指の先ほどの赤い実を、興味深そうに眺める。
「食べられます?」
「捨てろ」
「まだ何もしてません」
「今、食べようとした」
「匂いを嗅ごうとしただけです」
「口が開いてたぞ」
マヤは不服そうに実を舟の外へ放った。
それを待っていたように、水面から細長い魚が飛び出して実を呑み込む。
二人でしばらく水面を見た。
魚は、そのまま泳いでいった。
「食べられるみたいです」
「魚にはな」
「先生は慎重すぎます」
「君が無警戒すぎる」
「旅先では食べ物、大事ですよ」
「食べ物だと確認してから言ってくれ」
さらに上流へ進むと、川面は緑の影に覆われた。
昼だというのに、森の中は薄暗い。
湿気が肌へまとわりつき、額に浮いた汗がなかなか乾かない。ときおり木々の隙間から光が差し込み、そこだけ水面が磨いた金属のように輝いた。
対岸の藪が揺れた。
リオは反射的にそちらを見る。
赤いものが、木々の間を歩いていた。
豹だった。
濃い赤褐色の毛並み。黒い斑紋。低い肩を滑らかに動かしながら、音もなく岸辺を進んでいる。
こちらを見ている。
琥珀色の目が、一瞬だけ舟を捉えた。
マヤも気づいたらしく、今度は声を上げなかった。
ただ、小さくリオの袖を引いた。
「……綺麗」
「ああ」
二人が見ている前で、赤豹は立ち止まった。
水辺へ顔を寄せるでもなく、威嚇するでもない。ただ舟を見送り、やがて木々の間へ身体を溶かした。
姿が消れても、マヤはしばらくそちらを見ていた。
「近くで見たかったです」
「近くで見ると向こうも君を見る」
「今も見てました」
「食べ物として」
マヤがすぐに振り返った。
「本当ですか?」
「たぶん」
「先生」
「何だ」
「そういう冗談、分かりにくいです」
「冗談だと分かったなら問題ない」
マヤは唇を尖らせたが、すぐ別のものに気を取られた。
今度は頭上だった。
大きな果実が枝からぶら下がっている。
本当に、人間の頭ほどある。
表面は深い橙色で、細かな突起に覆われていた。太い蔓から幾つも垂れ下がり、熟れたものから甘酸っぱい香りを漂わせている。
マヤの視線が吸いついた。
リオは嫌な予感がした。
「先生、あれ食べられます?」
「まず食べ物か」
「旅先では大事です」
「毒かもしれないぞ」
「先生がいます」
「毒味係じゃない」
「治せる人が隣にいると安心します」
「毒を食べる前提で安心するな」
船頭の肩がわずかに揺れた。
笑われている。
リオは気づかないふりをした。
マヤはそれにも気づいていないらしく、まだ巨大な果実を見上げている。
ラウ=マリカでは、彼女は死者に咲く花を見ていた。
病人を見ていた。
祈られる自分の身体を気にしていた。
港を出てから、初めて見るものの数だけ顔が変わっている。
巨大魚が跳ねれば驚き、鳥を見れば追い、猿に実を投げられて笑い、果実を見れば食べられるかと聞く。
その横顔を見ていると、リオは急ぐ理由を少しだけ忘れそうになった。
白い獣を追っている。
カルムの花を噛み、マヤの前へ痕跡を残し、港から森へ向かった何かを。
だが、その何かは今すぐ誰かを襲っているわけではない。
少なくとも、今のところは。
リオは腰の診療鞄へ触れたあと、手を離した。
「次の船着き場で、食べられる果物があったら買う」
マヤが振り返った。
「本当ですか?」
「一個だけ」
「二個」
「なぜ増える」
「先生の分です」
「俺はいらない」
「では二個ともわたしが食べます」
「一個に戻す」
「交渉って難しいですね」
「君が勝手に条件を変えてるだけだ」
川が大きく曲がった。
そこで船頭が帆を畳んだ。
流れが浅くなっている。水面から無数の根が突き出し、その間に白い砂と黒い泥の河岸が見えた。
リオは立ち上がった。
「止めてもらえますか」
舟が岸へ寄る。
リオは水へ半歩入って、泥の前へしゃがみ込んだ。
マヤも後ろから覗く。
「あります?」
「ああ」
河岸に、大きな足跡が残っていた。
これまでより鮮明だった。
ひとつは、大型獣の前脚に見える。幅が広く、泥へ深く沈み、先端には爪を引いたような筋がある。
その少し先。
細く割れた、蹄の跡。
マヤが二つを見比べた。
「……別々の獣じゃないんですか?」
「その方が普通だ」
「でも?」
リオは答えず、次の跡へ移った。
大型獣の跡。
蹄。
大型獣。
蹄。
間隔はほとんど変わらない。
同じ方向へ、同じ歩幅で続いている。
「二頭なら、ずいぶん仲がいいな」
「並んで歩いてる?」
「そう見えるなら、まだ楽だった」
リオはさらに上流側へ進んだ。
そこで足跡が変わる。
爪でもない。
蹄でもない。
何本もの細いものが地面へ食い込み、重みを支えたような窪み。
まるで、大きな根を一瞬だけ土へ差し込んだ痕だった。
リオは指先で泥へ触れた。
湿っている。
古くはない。
「先生」
返事をする前に、マヤが一歩退いた。
ほんのわずかな動きだった。
だがリオは顔を上げる。
マヤは何でもないふうに背中へ手を回し、衣服の布を引き直していた。
「どうした」
「何がです?」
「背中」
「服が引っかかっただけです」
返事が少し早い。
いつもの「大丈夫」と同じ速さだった。
リオはしばらく彼女を見る。
マヤも見返した。
「……何ですか」
「いや」
問い詰めるのはやめた。
代わりに立ち上がり、手についた泥を水で流す。
「行こう」
「はい」
マヤが舟へ戻る。
その背中を追いながら、リオは見ていた。
肩甲骨の間、衣服の下。
彼女がさりげなく手を当てた場所には、花弁にも翼にも見える痕がある。
白い獣の痕跡へ近づくにつれ、それが反応している。
そう考える材料はあった。
だが、まだ材料だけだ。
本人も何も言わない。
なら、今はそれ以上踏み込まない。
舟は再び上流へ進んだ。
昼を少し過ぎた頃、森の中に人の暮らしの音が混ざり始めた。
斧が木を打つ音。
家畜の鳴き声。
鍋か何かを叩く金属音。
やがて木々の間から、丸太と土壁で作られた家々が見えてくる。川沿いの土地を切り拓いて作られた小さな集落だった。
サハ=ネ。
根舟が船着き場へ近づくにつれ、妙なことに気づいた。
騒がしい。
市場の日という様子ではない。
何人もの住民が集落の中央へ集まり、森の方を指さしている。男たちは鉈や縄を持ち、女たちは子どもを家の中へ入れようとしていた。
泣いている者もいる。
「何かあったみたいですね」
マヤの声から、さっきまでの軽さが消えた。
リオは頷く。
舟が岸へ着くより早く、一人の女がこちらへ走ってきた。
髪は乱れ、裾には泥がついている。何度も転んだのか、手のひらにも土がこびりついていた。
「森へ入るな!」
別の男が彼女を止めようとする。
「もう日が高い! 狩人を待て!」
「待っていられない!」
「今のあの子に近づいたら――」
「私の息子よ!」
女が叫んだ。
そこで根舟が桟橋へ触れた。
リオが先に降りる。
女の目がこちらを向いた。
旅装。
診療鞄。
そして胸元につけた聖獣医師章。
視線がそこへ止まった。
「あ……」
女は息を呑んだ。
次の瞬間には、リオの前へ駆け寄っていた。
「あなた、聖獣医師……?」
「そうです」
「お願いです」
女の両手が、リオの外衣を掴みかけて止まる。
触れていいのか迷ったらしい。
その手は震えていた。
「お願いです。息子を――」
声が詰まった。
森の奥から、鳥が一斉に飛び立った。
女はそちらを振り返り、唇を噛む。
それから、絞り出すように言った。
「息子を、人間に戻してください」
リオはすぐには答えなかった。
女を見る。
泥。
擦り傷。
赤く腫れた目。
必死で森を走り回った人間の姿だった。
「お名前は?」
「エナです」
「息子さんは?」
「トア。まだ子どもです。数日前から身体がおかしくなって……耳が、目が、歯まで……今朝、みんなに見られて、それで――」
言葉が崩れていく。
リオは遮らず聞いた。
その後ろで、マヤが診療鞄を持って舟から降りる。
エナはもう一度言った。
「治せますよね? 聖獣医師なら。元に……元のあの子に戻せますよね?」
リオは森を見た。
白い獣の痕跡は、ここまで続いている。
少し離れた湿った土にも、蹄とも爪ともつかない窪みが残っていた。
だが今、目の前にいるのは足跡ではない。
息子を探している母親だった。
「本人は?」
エナが目を瞬く。
「……森にいます」
リオは診療鞄へ手を伸ばした。
マヤは何も言わず、そのまま渡す。
「どちらへ行きました?」
エナが森の奥を指した。
リオは白い足跡から視線を外した。
「案内してください」
白い獣を追う旅は、そこでいったん脇へ置かれた。
森には、先に診なければならない患者がいる。




