プロポーズを振り遅れ
あれほど追いかけていた翔に突然プロポーズされた私。でも、プロポーズされたからこそ分かったこと。私の回りにはまだ捨てられないものがいっぱいだってことが。「待っています」それが私の答え。
翔とのたった2回目のデート。秋の気配がしている。
「……待っています」
速球のプロポーズを私は空振りした。そう言った私の声は、レストランの喧騒に消えてしまいそうなほど小さかったけれど、翔先輩の耳には真っ直ぐに届いたはずです。
彼は一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから「……そうか」と、短く、でも深く頷きました。
アメリカへの同行。それは、かつて彼を追いかけてばかりいた私にとって、夢のような招待状でした。
けれど、脳内の演算回路が冷え切った今、導き出された答えは一つ。
「先輩、私は日本に残ります」
デザートのシャーベットを口に運ぶと、冷たさが現実を教えてくれました。驚く先輩を制して、
私は続けます。
「今の居場所は、私が担任を受け持っているクラスの生徒たちだと思うんだ。」
「それにね、野球部の部員の子たちが、泥だらけで白球を追う姿をもう少し見ていたい」
「新米の数学の教師として、彼らの難問に寄り添いたい」
「先輩が野球を諦めて、進学からエンジニアという新しいマウンドに立ったように。私も、 今のグラウンドを去るわけにはいかないんです。顧問として、あの子たちと一緒に夢を見たいの」
私は一人でしゃべり続けた。
翔先輩は、少しだけ苦笑いして窓の外を見ました。
「お前……本当に変わったな。昔は俺の後ろを三歩下がってついてくるような奴だったのに。今は、俺よりずっと先を見てる」
「先輩に、いや翔に教わったんだよ。負けたくないなら、自分の足で立てって。だから、これは『お別れ』じゃなくて、お互いの実力を高めるための、長期合宿みたいなものです」
私はそう言って、わざといたずらっぽく笑いました。
会えない時間は、数式で言えば距離(d)を広げるかもしれません。けれど、その分、再会した時の
熱量(Q)は比例して大きくなるはず。
「翔にはアメリカで、建設ロボットの勉強しっかりしてきてきてください。その代わり、私が次に選ぶお店は……」
私は、バッグから一冊のノートを取り出しました。それは、数学の解法ではなく、野球部のスコアブック。
「先輩が帰ってきた時、最高に美味しいお酒が飲める、とっておきのお店です。その時までに、私は私学の『貧乏教師』を卒業して、先輩が驚くくらい立派な、日本一の野球部顧問になってみせますから」
「……ああ。約束だ」
翔先輩の手が、テーブルの上で私の手を包み込みました。分厚くて、少し硬い、働く男の手。
小学校三年の神社の裏、あの時の「初期設定」は、今ここで、互いの人生を尊重し合う「大人同士の契約」へとアップデートされました。
でもいくら考えても記憶が私にはありませんが・・・でも翔の作ってくれたとっても素敵なおとぎ話・・・
レストランを出ると、夜風は驚くほど爽やかでした。翔は私の家に初めて送ってくれます。小学校低学年の時以来だわ・
駅から家まで続く長い坂道を、今度は二人で並んで歩きます。
「ねぇ、先輩」
「なんだよ」
「ご祝儀の積み立ては、やっぱり『披露宴』じゃなくて『新居』のために回しておきますね」
「……気が早いんだよ、お前は」
赤くなった耳を隠すように歩く彼の背中は、これから向かう海の向こうを見据えているようでした。
私はその隣で、明日からの授業と部活のメニューを考えます。
放物線(Trajectory)。彼がアメリカへ投じる挑戦と、私が日本で育てる夢。二つの曲線が再び交わる
その日まで。
私たちの「二回戦」は、まだ始まったばかり。今度は私が、160kmのストレートを完璧に打ち返して、
ダイヤモンドを一周してみせるんだから。
翔はわかってくれて、彼の夢の建設ロボットも勉強に、新米教師の私はしばらく教え子と歩むことに。でもあの坂道で彼に追いつくことを確信しました。




