160kmのストレート
幼馴染の二人の初めてのデート。不器用な二人の会話はかみ合わない。でも翔の高校二年生の時のスタンドをうならせた剛速球が私の胸に。
駅まで続く長い坂道、陽射しは明るく、前を行く人の傘も無い。めいっぱいオシャレした私は数学の教師に見えなかったでしょう。
レストランのテーブルを挟んで向かい合った彼は、仕事モードの時とは違う、少し砕けた空気をしていました。
私は翔君、翔先輩いいや翔のこと大好きだけど、祥は私を女の子と見てるの?それより会社とかで今付き合ってる人、恋人いるの?
(ねぇ、翔先輩ってモテるから会社とかで付き合ってる人いるかしら?そりゃいるよね?)
(ああいるよ、総務の子で可愛んだ・・・うんでもどうしてそんなこと聞くの?君には 数学があるだろ?)
(ううん、翔先輩が結婚だなんてなったら、結婚式とかでご祝儀いるじゃない?私学の貧乏教師だから今から積み立てておこうと・・・)
(ばかだな、結婚式に女友達呼ぶわけないだろ!)
(ああやっぱり結婚考えている人いるんだ。へへへそうだね呼ばれるわけないよね。せいいぱいふざけた口調で笑う私が惨め)
そんな自問自答しながら豪華なランチの私・・・
「なんかお前、食べる時はそんなに黙食なんだ、腹減ってたのか」
そんな砕けた先輩を見て、
(今しかない。この変数のない数式を、今こそ解くんだ)
私は、時限爆弾の赤いコードをペンチで切り落とすような、絶望的なまでの勇気を振り絞りました。
「……ねぇ、先輩。会社に、恋人とか、いるの?」
心臓の鼓動が、耳元で早鐘のように打ち鳴らされました。フォークを持つ手がわずかに震え、高級な真鯛のポワレが、急に砂のような味に変わります。
翔先輩は、ワイングラスを口に運ぼうとした動きを止め、少しだけ意外そうに眉を上げました。その数秒の沈黙が、私には永遠の断絶のように感じられました。
「なんだよ藪から棒に。……いないよ、そんな奴」
さらりと言ってのけた言葉に、私は安堵するよりも先に、反射的な自衛本能が働いてしまいました。さっきまでの脳内シミュレーションが、最悪の方向へ私を突き動かします。
「うそ。先輩、昔からモテるじゃないですか。会社の総務の子とかに、可愛い子くらいいっぱいいるでしょ? 実はもう、結婚を前提に付き合ってる人がいたりして」
わざと、おどけたような、軽薄な口調。
「私学の貧乏教師だからさ、もし結婚式なんてことになったら、今からご祝儀代を積み立てておかないといけないなって思って」
笑え。笑うんだ、私。
そう自分に言い聞かせるほど、顔の筋肉が引き攣っていくのがわかります。もしここで彼が「ああ、実はいるんだ」と頷いたら、私はこの豪華なランチを完食する自信も、笑顔で店を出る自信もありません。
翔先輩は、呆れたようにため息をつき、グラスをテーブルに置きました。
「バカか。結婚式に女友達を呼ぶわけないだろ。そもそも、仕事と野球のコーチで手一杯なんだよ、
今は」
その言葉は、私を「女友達」の枠に明確に閉じ込める宣告のようにも聞こえました。やっぱり、彼にとって私は「数学を教えてくれる便利な後輩」でしかないんだ。惨めさが、喉の奥までせり上がってきます。
けれど、先輩は私の歪んだ笑顔をじっと見つめると、不意に視線を逸らして頭をかきました。
「……それにさ」
「え?」
「お前に教わってる時間が、一番頭使うんだよ。仕事の設計も、ラグランジェなんちゃらも……あー、とにかく。他の女の機嫌取ってる余裕なんて、今の俺にはねえよ」
彼は少し乱暴に、付け合わせの野菜を口に放り込みました。耳の付け根が、微かに赤い。その様子を見て、私の心の中にあった「変数」が、一気に書き換えられていくのを感じました。
解けないと思っていた数式に、たった一つの、熱を持った代入値が入り込む。
「余裕がないって……それ、私との時間が忙しいからってことですか?」
「……うるせえ。大先生は黙って食えよ」
今度は、私が彼を見つめる番でした。 かつて、マウンドの彼を遠くから見つめていたあの頃とは違う。分厚い教科書の向こう側から、彼に届かない溜息をついていたあの頃とも違う。
目の前の彼は、かつての棘を脱ぎ捨て、泥臭い努力の味を知り、そして今、私の前で格好のつかない
顔をしている。
「先輩」
「なんだよ」
「私、ご祝儀の積み立て、やめます」
確信を持ってそう告げると、彼は毒気を抜かれたように私を見ました。私は、自分でも驚くほど穏やかな手つきでナイフを動かしました。
「その代わり……次の『お礼』は、私がお店を決めてもいいですか?」
窓の外には、どこまでも続く茜色の空。坂道を上る時にはあんなに不安だった未来が、今は数学の解答集をめくった時のような、絶対的な明快さを持って目の前に広がっていました。
翔先輩は、少しだけ照れくさそうに、でも力強く「……ああ、勝手にしろよ」と笑いました。二人の間に流れる空気は、もう冷房の音にかき消されるような細いものではありません。
真夏のグラウンドで聞いたあのサイレンよりもずっと熱く、それでいて心地よく。 私たちの「二回戦」のプレイボールは、今、このテーブルの上で鳴り響いたのでした。
翔先輩は、パスタを口に運ぼうとした手を止め、心底理解できないというような顔をしました。
「え?」
「え、じゃなくて……」
「……何言ってんだよ。だってお前が、俺の恋人だろ」
真っ白。視界から色彩が消え、脳内の演算回路が完全にショートしました。あまりの衝撃に、私は椅子から転げ落ちそうになるのを必死で耐え、意識を繋ぎ止めました。
「な、……いつから、そんな話に……っ!」
「覚えてないのか? 小学校三年のとき、神社の裏で『大きくなったらお前をもらう』って言ったじゃん」
「……は?」
10年以上前の、泥だらけの記憶。そんな子供の戯言を、この男は「初期設定」として人生の数式に
組み込んでいたというのでしょうか。
「覚えてないよ! 卑怯者、そんなの作り話に決まってる!」
顔から火が出るほど赤くなった私は、そう怒鳴るのが精一杯でした。 窓の外、夜の街並みが放物線を描く光の粒となって流れていきます。
「実は俺は会社から海外留学に出される。建機の研究でアメリカの会社に行く。だから一緒に来てくれ!」
「え!?まだ付き合ってもないのに」
「付き合ってきたもののようだ。」
私は完全に固まっていた。この人の160kmのストレートに目がくらんだ。
早すぎるプロポーズに私はくらくらした。バットを振ろうとしたときにキャッチャーのミットでボールは寝ていたみたく。




