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プレイボール!

 とうとう真夏の甲子園予選が始まります。私が高校1年の時応援動員されていやいや行った球場での日から7年たっていました。野球音痴の私が今は野球部副顧問・・・わからないものです(笑)

 でもその夏子供たちがいい夢を見させてくれました。そして私と翔もそろそろプレイボール!

「プレイボール!」

 審判の鋭い声が、焦げ付くような真夏の熱気に突き刺さりました。マウンドに立つ佐藤君。ベンチ裏のスタンドの最前列で身を乗り出す翔先輩。この数ヶ月、彼は自分の土日や休暇をとってグラウンドへ駆けつけ、持てる技術のすべてを佐藤君に叩き込んできました。その姿は、五年前のあの日、彼が置き去りにしてきた無念を、後輩の右腕に託して昇華させようとしているかのようでした。


 一回戦は楽勝。二回戦、佐藤君は県内の中堅校を相手に見事な完封勝利を収めました。学校側が掲げていたノルマ、ベスト16まで後一勝。

 しかし、次なる相手はシード校。周囲の予想を裏切り、佐藤君は一歩も引かない好投を見せました。スコアボードに並ぶ「0」の羅列。最後の一人を打ち取った瞬間、私は我を忘れて飛び上がっていました。

「やった……やったね、翔先輩!」

 接戦を制しベスト8に勝ちあがりました。五年前の冷めた私なら、絶対に上げなかった叫び。ベスト8進出。ふと、静かな職員室で数学教師に見せられた、あのセピア色の写真が脳裏をよぎりました。ここで満足してはいけない、まだ先がある。そう自分に言い聞かせても、震える高揚感は止まりませんでした。

 迎えた準々決勝。相手は、過去にプロ選手を何人も輩出している甲子園常連の超名門校でした。圧倒的な力の差。それでも、佐藤君は強打者たちを相手に5失点で踏ん張り、打線は最終回、意地の一点をもぎ取りました。

 試合終了のサイレンが響いたとき、選手たちは人目をはばからず泣きじゃくっていました。格上を相手に健闘した、なんて言葉はこの子たちには無意味でした。彼らは本気で、甲子園に行くつもりだったのだから。

 球場の外、バスの前で撮った集合写真。私は端っこの方で、顔がぐしょぐしょになるほど泣いていました。また数十年後、未来の後輩たちがこの「泣き虫先生」の写真を見て、伝説を語り継ぐのかもしれません。

 ふいに、頬に温かい感触がありました。

「いつまで泣いてんだよ、大先生」

 翔先輩が、優しく私の涙を拭っていました。その顔には、かつての棘など微塵もありません。 写真の中の彼は、佐藤君とがっしりと握手を交わしていました。その屈託のない笑顔を見たとき、ああ、この人の野球への未練は、今この瞬間の熱量によってようやく解き放たれたのだと確信しました。

・・・

 「今度は、お前が俺を手伝え」

 数週間後、翔先輩にそう命じられました。大会前、仕事をさぼってコーチに没頭していたツケが回り、会社で相当絞られたらしいのです。

 私は今、彼の勤める建設機械メーカーの設計エンジニアです。でも今では数学は私の方が得意、機械工学で使う道具としての数学の補習の先生です。

 「ほら、ここでラグランジェの偏微分方程式を使えば・・・」私も久々に高校の数学でなく卒論で選んだ偏微分方程式の出番です。

「ほら、ここでラグランジェの未定乗数法を使えば、制約条件の中での最適解が出るでしょ。大体、設計条件の詰めが甘いのよ」

 私がノートにさらさらと数式を書き込むと、翔先輩は「……あー、そうだったな」と、悔しそうに後頭部をかきました。かつてマウンドで打者をねじ伏せていた自信満々の面影はどこへやら、今の彼は完全に私の「教え子」です。


「なんだよ、そんなドヤ顔すんなよ。お前、教える時だけはやけに活き活きしてんな」

「当然です。私、これでも『大先生』ですから」


通いなれた、あの坂の上の駅のカフェ。冷房の微かな音と、紙の上を走るシャーペンの音だけが響きます。かつてグラウンドで遠くから眺めていた背中が、今は手を伸ばせば触れられる距離にある。あの夏、彼が後輩に夢を託して過去を昇華させたように、私もまた、彼に追いつけなかった劣等感を、この数式を通じて塗り替えているのかもしれません。

 ふと、先輩がペンを置き、窓の外を眺めました。

「……あのさ、お前に数学教わってると、たまにマウンドに立ってるみたいな気分になるわ」

「え? プレッシャーがすごいってことですか?」

「違うよ。視界がクリアになる感じ。次に投げるべき球が決まるっていうかさ」

 そう言って笑う彼の横顔は、あの集合写真で見せた屈託のない笑顔と同じでした。心臓が少しだけ、

あのサイレンの音を聞いた時みたいに跳ねます。

 目が合った。二人ともすぐ下の紙に目を落とした。

 翔はその場の気配をかき消すように

「あのさ、今度お礼させて」

「いいよ・・・」なにげなくそう答えた私の言葉の震え、気付かれなかったかな。 

「うん」

 私たちのプレイボールは、球場の熱狂の中ではなく、この静かなカフェで、静かに、でも確かな

熱を持って告げられたのでした。

「できた……これで、シミュレーションの誤差は最小限になるはずです」

「ありがとう、今度、お礼するよ」

 駅で彼を送った時、今だったら昔の同級生に見られてもいいと思う。

 帰り道、駅からの坂を下ってたとき、茜色の夕日が私のほほを染めていました。雨は降ってなかった。



 私も大泣きした記念写真。翔も7年たって思いが立ちきれました。私たちの坂道がゴールに続くのかしら?

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