グラウンド
理学部数学科・・・そこでの私は大したロマンスも無く、就職先も決まらずにいた頃、母校の数学教師に誘われます。そして、なんてこった、あれほど興味の無かった野球部の顧問に・・・人生の方程式はわからないわ、変数が多すぎる
「ナイスバッチ!」春の練習グラウンド。もう暑くなったグラウンドで男の子達の元気な声。野球音痴の私も大きな声を出すベンチ。
新米数学教師の私は、女子マネージャに野球のルール教えてもらってる。思えば野球の野の字も知らない私が、祥といつも一緒の女子マネが羨ましかった高校時代。
「さぁ元気出して!」練習中の男子部員に声をかけながら、私は「あいつ」を想い出す。
きっと今頃は大手企業のエンジニア・・・なぜチームで一時は背番号「1」をかっこよく着ていたあいつがエンジニアで、動員でいやいや応援してた私が・・・ 野球部顧問!?
あっ監督がこっちに歩いてくるわ、挨拶しなきゃ・・・
大学生活は、あんなに必死に解いた「未来の方程式」の答えとしては、拍子抜けするほど穏やかで、平凡なものでした。理学部の講義室はいつも乾燥していて、教授の monoton(単調)な声が響くだけ。翔先輩がいたあの補習室のような、胸を刺すような熱量はどこにもありません。
合コンにも何度か誘われ、それなりに、ボーイフレンドと映画に行ったりもしましたが、会話の端々に、翔先輩の影を探してしまう悪い癖が抜けませんでした。
流行りの服を着て、少しメイクを覚えたけれど、鏡に映るのはどこにでもいる女子大生。友達の可愛い子のほうがモテました。
華やかなキャンパスライフの方程式は解けないまま。気づけば周りは次々と内定を手にし、私は「お祈りメール」の束を抱えて、卒業式の足音に怯える日々を過ごしていました。
「おい、お前。まだ路頭に迷ってるのか」
卒業間近、教育実習以来の母校を訪ねた私に、あの「困惑した作り笑い」の数学教師が声をかけてきました。かつて私の理学部合格に一番驚き、私の「復讐」の相手だった先生。
「……先生。笑いに来たなら、他を当たってください」
「バカ言え。ちょうど、もう一人いただろう、あの数学の先生。それが定年でな。理事長にも話しておいたが、うちの教員にならないか?」
先生の言葉は、以前のような皮肉ではなく、不器用な親切心に満ちていました。私の唯一の武器である数学を、彼は忘れていなかった。
「うちみたいな私立はなかなか教員の席は空かないぞ、お前は運がいい、それに数学はお前の唯一の取り柄だからね」
「ただし、条件がある。野球部の顧問が激務で、副顧問を置くことにしたが、名を出させてもらうぞ。お前、野球は知らないだろうが、そこは我慢しろ、新人の役目だ」
こうして、私はあの日「さよなら」を告げたはずの、あの駅へ続く坂道へと引き戻された。
砂埃と理数系女子の生活は、数式とは程遠い「泥と汗」の世界。
「ストライク! バッターアウト!」
審判の野太い声が、西日に染まったグラウンドに響きます。私の仕事は、監督やコーチをお願いしてる人の事務管理。強豪校(と言っても県大会ベスト8が目標)なんでそれなりの専任の人を学校が雇っています。
監督から納品書、請求書やら領収書を受け取り、経理処理に回す事務も私の仕事。理学部の乾燥した講義室とは真逆の、湿った土の匂い。数式のように明快な答えなどどこにもない、混沌とした放課後。
「先生、どうでした〇〇さんみたいな球速でしょ!」
駆け寄ってきたのは、泥にまみれたエースの佐藤君。彼から出たのは伝説の速球王、翔の名。 翔の曲がらない速球を小学校の時スタンドで見てわが緑葉学園に入ってきたそうである。翔、あの幼馴染の翔、いや翔先輩。私は遠くを見た。
「先生どお?」
「あごめん……リリースポイントが、前回より数cmほど高くなってる。そのせいで高めに浮いてるみたいね」適当に言う私。
「うわ、マジだ。さすが数学先生、細かいな……」
佐藤君は野球音痴の私を小ばかにして笑うと、一気に麦茶を飲み干して去っていきました。
「数学なんて、人生の役に立たない」――かつての私が、翔先輩に振り向いてほしくて、けれど届かなくて、自分を納得させるために吐き捨てた言葉。それが今、私の唯一の武器として、泥だらけの少年たちの背中を支えている。
ふと視線を上げると、坂道の上から校舎を眺めるあの数学教師――今は私の「同僚」となった先生と目が合いました。彼は相変わらずの、あの困惑したような作り笑いで頷きます。
「おい、新入り先生。計算通りにいかないのが、この場所の面白いところだろ?」
戻ってきた、あの場所で夕暮れのチャイムが鳴り響く中、私はかつて翔先輩と過ごした、あの補習室の窓を見上げました。あの頃、私にとって数学は「彼に近づくための手段」でしかなかった。けれど今は、放課後のグラウンドで飛び交う白球の軌道を、放物線の数式として捉えている自分がいます。
駅へ続く坂道。あの時、涙で滲んでいた景色は、今は驚くほど鮮明です。まだ「正解」は見つかりません。けれど、お祈りメールの束に怯えていた頃より、ずっと足元は安定している。
「……よし。明日の練習メニュー、確率統計で組み直してみようかな」
私はジャグを抱え、少しだけ足取りを速めました。 かつての復讐相手だった先生に、少しだけ自慢できるような「新しい方程式」を、この泥だらけのグラウンドで書き換えるために。
職員室で聞く翔先輩の噂は、眩しすぎて直視できません。
「あいつは今、大手建機メーカーで次世代の重機開発に関わってるらしい」
「エリートエンジニアだな。時々、後輩を教えにくるって約束も取り付けてある」
翔先輩は、もう「おさな馴染みの翔くん」ではなく、遠い世界の住人。私はといえば、相変わらず計算ミスを指摘しては生徒に煙たがられる、新米の数学教師。
ある日、練習終わりの夕暮れ時。かつての補習室の窓から差し込む西日が、グラウンドをオレンジ色に染めていました。
「……また符号、間違えてるし」
部活動の報告書を書きながら、私は独りごちて消しゴムを動かしました。 その時。背後の入り口から、懐かしい、でも少し低くなった声が響きました。
「おい、お前。何年経ってもそこだけは変わらねえのな」
心臓が、因数分解できないほどの速さで跳ねました。振り返る勇気がないまま、私は握りしめた
ペンの先を見つめることしかできませんでした。
え!職員室に聞き覚えのある声・・・心臓が爆発しそうな私




