新しい方程式
幼馴染の野球部の元エースに数学の特訓を受けた私。でも翔にとってはできない私に勉強を教えてくれただけ。とうとう卒業の日まで「つきあおうぜ」の声がありませんでした。(まっ勝手に私が意識してただけ)反発精神で数学に打ち込む私。
翔・・・の奴、いいえ翔先輩が卒業してからの補習室は、驚くほど広くて、ひんやりとしていました。窓の外から聞こえるテニス部の掛け声も、放課後の廊下の喧騒も、どこか遠くの国の出来事のよう。隣でペンを走らせる音も、時折聞こえる呆れたような溜息も聞こえない現実に、胸の奥がまた少しだけチクッと痛みます。
「……あ、また符号間違えた」独りごちて消しゴムを動かします。彼がいれば「またかよ」と笑ってくれたはずのミス。でも今は、自分でやるしかありません。
その翔は去年、難関大に合格して去って行った。私は補習室の中だけの友達・・・いいやおさな馴染みにすぎなかった。彼が合格したのを知ったのも友達の子からだもんね。
あの駅に続く坂道で少しだけ近づいていた私達。でも補習室だけの関係。でも今はあの傘すら
見えない。
孤軍奮闘の季節模試の結果は散々なものでした。英語も国語も、志望校の判定ラインには遠く及ばない。けれど、数学の偏差値だけが、まるで測ったように右肩上がりの曲線を描いていました。
「お前は、数学のセンスだけはズバ抜けてるんだけどなぁ」
でもそれは翔のおかげ・・・とは言えません。
進路指導室で先生が差し出したのは、数学一教科のみで勝負できる、ある私立大学のパンフレット
でした。「他の教科を捨てるのは勇気がいるが、お前のその『武器』を信じてみないか」その大学は、
坂道の先の駅から一時間くらいの場所。
翔が通う大学は何処だっけ?と思いながらもう遠くに行った彼。たぶん野球同好会とかやっていて
やっぱりまた女の子に囲まれているんだろうなって、思う私。
彼の隣でキャンパスライフ・・・それは私の何回も見た夢。でも最近の夢は彼の隣に座るのは
その大学の勉強が出来て可愛い女子学生。夢で嫉妬している私。
「未来の方程式」を解くための、これが最後で唯一の解法だと、私は直感しました。
ノートの余白が数式で埋まるたび、彼が残した「癖のある文字」が、私を鼓舞する呪文のように
見えました。
冬の冷たい空気の中、私は何度も「大嫌い」と「大好き」を唱えながら、因数分解よりも複雑な
自分自身の心を解かずにいます。
試験会場の机に向かうと、不思議と緊張はありませんでした。配られた問題用紙の束。そこにあるのは、かつて彼と一緒に格闘した、懐かしい世界の延長線上にあるパズル。迷いなくペンが走ります。
数式が展開され、複雑な図形が一点に収束していく。その一打一打が、駅へと続く坂道を一歩づつ
登っていた。
春、高校生だった私も女子大生が始まろうとしています。もうすぐ春の県大会か、と三年間の応援動員を想い出しながら、もう野球も翔も私の遠いところに行ってしまいました。
「合格通知」理学部数学科。その紙切れが確かな答えでした。でもあのガキ大将の幼馴染のおかげで
ご飯を吐き出したお父さんにも、腹が痛くなるほど笑ったお母さんにも、困惑した作り笑いの数学の先生にもかたき討ちができたんですもの。
「翔、ありがとう!」
春、今年は遅かった桜が散る中、駅まで続く坂道を歩いていました。コバルトブルーの傘はありません。
駅に着いた、私は高校とは反対方向の電車に。
もう野球も翔も、私の遠いところに行ってしまいました。私も大学で翔に負けないボーイフレンド
作ってやるんだから。
これから始まる新しい方程式には、もう、マイナスの符号はどこにも見当たりませんでした。
え!?なんで恋を夢見る乙女の私が「理学部数学科」私の新しい方程式が始まろうとしていました。




