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彼と私の因数分解

あの熱いスタンドで終わった日、夏休みも終わって私は理系の補習室に・・・数学の先生が、困難なものも形を変えれば・・・うん、そうか

 放課後の補習室。オレンジ色の西日が、使い古された机を長く照らしています。理系の補習だから

殆ど男子で女子は数人。

 私の前の問題・・・記号や数字が並んでるだけ。これほど退屈なものがこの世にあったのか。

「いいかい、因数分解するためには、まず式をやりやすい形に変える」

 背中に声がした。慌てて問題に取り組んでる女子に戻る。

え!翔・・・いや先輩!私は頭の中でVサインした。 

 目の前のノートに数式を書き込んでききたのは、あの翔先輩。進学コースの「理系」を選んだものの、案の定、数学の壁にぶち当たっていた私。見かねた先生が、成績優秀な二年生の中から補習のチューターとして呼んだのが、まさかの彼だったのです。

 彼はユニフォームではなく、少し着崩した制服姿で私の後ろに座っていました。マウンドでボールを握るあの指が、今は滑らかにシャープペンシルを動かし、複雑な展開図を解きほぐしていきます。

 「ほら、ここ。共通するものを見つけるのがコツなんだ」教え方まで、驚くほど丁寧で分かりやすい。

あの頃のいじめっ子の「あいつ」でもなく、スタンドの「スター」でもない。夢に向かって淡々と知識を積み重ねている、一人の知的な先輩としての姿がそこにありました。

 「やりやすい形」に変えるのは「……ねえ、翔。本当にエンジニアになりたいの?」ふいに尋ねると、彼は一瞬だけペンを止め、窓の外のグラウンドを見ました。「ああ。野球はいつか終わるけど、技術は一生もんだろ。俺、もっと複雑な……それこそ、人間の痛みがわかるようなロボットを作りたいんだよね」

「人間の、痛み?」「……まあな。怪我して分かったこともあるし」彼はそう言って、少しだけ自嘲気味に笑いました。

 あの日、彼が整形外科の路に消えた理由。マウンドに立てなかった悔しさ。それらすべてを「やりやすい形」に変換して、彼はもう次の目的地へ進もうとしている。

 縮まらないようで、縮まった距離「おい、聞いてんのか? 手、止まってるぞ」デコピンをするフリをして笑う彼。私は慌ててノートに向き直りました。心臓の音がうるさくて、因数分解どころではありません。

 「……わかってるよ。形を変えればいいんでしょ」数式だけじゃない。おさななじみの「あいつ」と、ただの後輩の「私」。理系を選んで、ここでこうして教わっていることも、いつか私たちの関係を「やりやすい形」――

 もっと素直になれる形に変えるための、大事なステップなのかもしれません。

 夕暮れの補習室に、シャープペンシルの走る音と、二人の静かな呼吸だけが響いていました。

 

 友達の女子たちが「どのイケメンがいるか」で文系コースの選択肢を盛り上げているのを横目に、私は一人、静かにガッツポーズをしました、今度はほんとに。

 理系クラスに女子は数えるほど。ましてや、あの「野球部のスター」が補習のチューターとしてつきっきりで教えてくれるなんて、他の子が知ったら悲鳴を上げるに違いありません。

 補習室の特等席、

「お前、本当に数学苦手なんだな……。ほら、ここ、符号が逆」

呆れたように笑いながら、翔先輩が私のノートにペンを入れます。

 放課後の補習室は、私たちの話し声と、遠くで練習に励む運動部の掛け声しか聞こえません。

 友達はみんな、カフェやカラオケで文系の華やかな放課後を楽しんでいるけれど。私は、この少し埃っぽい空気の中で、彼の隣で数式と格闘するこの時間を選びました。

 これなら、誰にも邪魔されない。「幼なじみなんだ」なんて説明する必要もない。ただの「教える側」と「教わる側」という名目のもとで、私は堂々と彼を独り占めしているのです。

 ペンを持つ彼の指先、集中すると少しだけ寄る眉間のしわ。かつて私のスカート姿を笑った、あの憎たらしい口元。

(……やっぱり、大嫌い)

 いじめてきた時のことを思い出すと、今でも胸の奥がチクッとします。

でも、その何倍も好き。

 私の進路を本気で笑った多くの連中のなかで・・・そういえば笑わなかったのは翔先輩だけだもん。

私の進路を否定せず、真剣に夢を語り、こうして不器用な私に付き合ってくれる彼が、どうしようもなく愛おしい。

 「翔」

「ん?」

「……ううん、なんでもない。ここ、もう一回説明して」

 本当は、数式なんてどうでもいいのかもしれない。

彼が目指すエンジニアの世界。その隣に、数値を計算したり、理論を支えたりする私がいたらいいな……なんて。そんな、因数分解よりもずっと複雑な「未来の方程式」を、私は心の中で組み立てていました。

 「大嫌いなあいつ」は、いつの間にか、世界で一番「大好きな人」になっていました。

夕闇が迫る補習室で、私のノートの余白には、彼の癖のある文字と、私の隠した想いが静かに重なっています。

 ちょっぴり数学が好きになった私

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