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第八話 天文方と天文局と天文学と弥作

 経綸館には普段授業を行っている教室とは別に、役寮と呼ばれる建物がある。

 その役寮の中には教師控所の他に、専門科目の研究室として使われている部屋がいくつかあった。


 今弥作が戸を開けた「天文局」もその一つである。

 兵介は弥作に連れられて天文局の戸をくぐると、そこには豊かな長髪の男が立っていた。

 優しそうな笑顔が弥作に向けられており、そして兵介の姿をとらえると興味深そうにより目を細めた。


「先生、突然すみません」

「いえ、私はいつも暇ですから」

「兵介様、こちらは経綸館で天文学を教えている渋川先生です」

「はじめまして、兵介君。私は天文局局長の渋川晴久といいます。いやはや、また面白い生徒が入学しましたね」

「どうも……」


 やけに楽しそうな声色に困惑しながら、兵介は苦笑いを返す。


「それで、弥作君が急に訪れるなんて、何かありましたか?」

「そうでした! 先生、兵介様が持っているお守りの中に、陰陽寮の文字が書かれていたんです」


 それまで胡散臭いほどの笑顔を浮かべていた先生は、陰陽寮という言葉を聞いて表情に影を落とす。


「兵介君、それを見せてもらえますか?」

「あ、あぁ」


 兵介がおずおずとお守りから紙を取り出して渡すと、先生は受け取って納得したように頷いた。


「なるほど。確かに陰陽寮の文字がありますね。これを持っていたということは、兵介君の母君はもしかしたら京に関係がある方だったのかもしれません」

「京? いやいや、母さんはずっと俺と一緒にそこの裏長屋で暮らしてたんだ。そんな都になんて」

「では兵介君は、兵介君が生まれる前の母君について詳しいのですか?」


 そう聞かれると、何も言えない。何も知らないのだ。名前さえついこの間知ったのだから。


――母さんが都の人? いやいや、裏長屋から出たこともない母さんが?


 しかし、合点がいかないことは何もこれだけではなかった。

 なぜ母さんと殿様が知り合うことになったのか。なぜ母さんは働いていないのに飯に困ることはなかったのか。なぜ母さんは殺されなければならなかったのか。


「お、陰陽寮の文字があるだけで、なんで母さんが京に関係してるって言いきれるんだよ」

「そうですね、確かに言い切れません。しかし、陰陽寮の存在自体、実はそんなに有名ではないんですよ」

「僕も経綸館で学ぶまでは聞いたことがありませんでした」

「あ、壱斉も知らないって言ってたな……」

「そうでしょう。朝廷にある陰陽寮という機関では星を読み、占いにより政を動かしていると言われています。そしてそれを模倣して作られたのが杠戸とこの泉平藩にある天文方という機関だと――まぁ、どれも噂程度の話ですが」


 朝廷、星、占い。まるでおとぎ話のような言葉が耳を通過していく。

 ますます混乱してきた脳みそを必死で起こし、兵介は気が付いたことを口に出す。


「よく分かんねぇけど……なんか、この天文局と天文方って名前が似てるよな? 」


 我ながら阿保な質問だと思いながらなんとなく話してみると、弥作と先生は顔を見合わせて驚いた。


「兵介様、するどいです……!」

「うんうん、やっぱり面白い子だ! その通りだよ。この天文局では普段は天文学を教えながら、午後の選択授業の時間は特に選抜された生徒だけに天文方になるための勉強をしてもらっているんだ」

「天文学に天文方、天文局……訳わからねぇ」


 眩暈を覚えた兵介が頭を抱えていると、午前の必修授業の終わりを告げる鐘が鳴った。


「ちょうどいいから、このあと弥作君について天文学の授業を受けていくといい」

「そうですね、まずは基礎の天文学を一緒に学びましょう」


 妙に機嫌の良い二人を前に、もうどうにでもなれと兵介は頷くのだった。


* * *


「授業が始まるのに、先生がいなくていいのかよ」


 弥作と兵介が天文局に留まっていると、渋川先生は仕事があると出て行ってしまったのだ。


「先生方は今別室で立秋の最終予測をしているそうです」

「もう何も聞きたくねぇ……」


 うんざりして机に突っ伏してみると、木の冷たさが知恵で発火した体に気持ち良かった。そしてそのままうとうと眠り、ふと目を覚ますと十人ほどの生徒が皆それぞれ床に這いつくばって、床に置いた図や器具を睨み付けていた。


「これは、何をしてるんだ……?」


 ある意味で見たことがない光景に、兵介は驚いた。


「幕府が作成した今年の暦に対して、実際の春が予測通り来たか確認しています」

「暦……?」


 兵介の声に答えた弥作が近くの床に手をつくと、他の生徒たちもやっと兵介の存在に気がついた。


「やや、やっと起きられたか……噂の兵介様! 我らが天文局へようこそ」

「ほほぉ、この方が兵介様か。なるほど凜々しい目をしている」

「そのようなところに立っていないで、ささ、こちらへ」

「あ、あぁ、どうも……」


 ここまで歓迎されたのは、経綸館に来て初めてのことだった。

 教室内には梅ノ級にもいたであろう知った顔もいたが、それらの生徒でさえにこやかに兵介を迎えている。いつも怯えている弥作ですらも、見たことがないほどの柔らかな表情で級友との会話を楽しんでいるようだった。


 その後も弥作や他の生徒達から暦の作り方やその意義、活用方法まで説明されたが、既に一日分の記憶容量を使い切った兵介の頭には何も入ってこなかった。


 作業に戻った弥作と別れ、部屋に置かれているよく分からない模型を見ながら一人でぼうっと座っていると、突然くせ毛の生徒から声をかけられた。


「改めて、天文局へようこそ。私は松ノ級の高橋哲算だ。兵介殿、初めての天文学教室はいかがだったかな?」


 人懐こそうな表情でこちらを見る哲算は、これまで見てきた武士たちとはまるで違う雰囲気をまとっていた。この人が戦場で戦っている姿が全く想像できないのだ。


「あー、雰囲気もいいし、なんというかみんな生き生きとしてるなって思ったよ」

「うむ、確かにそうかもしれない。いわゆる“武士らしい”は天文学を選択しないからな。何も気にせず勉学に励むことができるのだろう」

「そうなのか? 春とか秋とか、全部生活に関わることだろう」

「あぁ、そうだ。だがそういう民に直接関わるような仕事は、下の人間がやるものだと考えている家が多い。だから、“上の家”や長男の生徒はこういう授業を選択しないのさ」


 哲算は少し真面目な顔をして、兵介の肩に手を置いた。


「僕はね、君に期待しているんだ。平民出身の君のことをよく思わない人も多いかも知れないが、裏を返せば、それは平民の暮らしをよく理解している藩主になれるんじゃないかって」

「そんなこと、俺にできるかな」

「まぁ、困ったときはまたここに来るといい。星の力で助けてあげよう」


 片目をつぶってそう言い放つ哲算を見て、兵介はこの教室に来てから初めてのことばかりだと思った。


* * *


 授業が終わって天文局から賄い所へ向かっている最中も、弥作の天文学についての話はとどまることを知らなかった。

 普段は怯えて背中を丸めている彼は、生き生きと話をしているその時だけいつもより背が高く見えた。


「――つまり、海が高くなった時は――」

「あ、そうだ」

「うぅ、兵介様、きちんと僕の話を聞いてくれていましたか?」

「聞いてた聞いてた」


 「もう」と不服そうに兵介を見上げる弥作を適当に諫め、兵介は抱いていた疑問をぶつける。


「俺思ったんだけど、なんで陰陽寮の存在って有名じゃないんだ? それって母さんが殺されたのと関係あるんじゃ――」


 今朝と同じように、弥作は言葉を遮って兵介の口を押えた。

 そしてそのまま隠れるようにその場にしゃがみ、兵介にもそうするよう促す。


「い、今、お母様が殺されたと言いましたか?」

「お、おう……もしかしてお前、何も聞いてないのか?」


 すると、弥作は急にぶるぶると震え始め、何かに怯えるように頭を抱える。


「どうしたんだよ、弥作。お前、母さんが死んだ理由を知ってるのか⁉」

「し、知らないです!」


 弥作は兵介の言葉を必死に否定した。

 しかし、その尋常ではない反応といつもより大きな声を出す弥作を見て、兵介はその言葉が本当ではないのだろうと察した。


「なんでもいいんだ。些細なことでも。突然母さんが殺されて、日常が壊れて。せめて理由が知りたいんだよ!」

「知らないです、知らないです!」


 肩を揺さぶって訴えた兵介の懇願も、震える弥作には届かなかった。


「どうしてだよ……俺たち、友達だろう……?」

「知らない……です」


 そのとき、二人の頭上から水が降ってきた。

 あまりに唐突な出来事に状況が理解できずにいたが、寒空の下水に濡れて体温が急速に下がるのを感じたとき、やっと自分たちが水をかけられたことに気が付いた。


「平民同士が仲良く地べたに這いつくばっておるわ」

「地には水をやって、耕してやらねばなぁ」

「ほら、そこの百姓。耕作はお前の得意分野だろう。ははは」


 弥作は自分を守るように肩を抱いて座り込んだままだったが、兵介は水をかけた上に悪口を言いのたまう生徒二人の元につかつかと近づいていった。


「……念のため、理由を聞こうか?」


 平民とは言え次期藩主になるかもしれない相手には言いづらいのか、先ほどまでの威勢が消えていく。


「あ、いや、その……」

「理由なく水をかけたってこと?」


 兵介は言い訳のために口を開いた生徒の襟元を掴み上げると、「ひぃ」と情けない鳴き声が聞こえてきた。


「兵介様、僕なら大丈夫ですから。これくらい、慣れっこですから」


 喧嘩の雰囲気を察した弥作は兵介を止めようと声をかける。

 しかし、その言葉は逆効果だった。


「慣れっこだぁ? おい、お前らいつも弥作にこんないじめをしてるってことか? おい!」

「は、はは。これはいじめではない。身の程を分からせるための教育だ――ぐぅっ」


 言い終わるや否や、兵介はその生徒を思いきりぶん殴った。

 そして、殴り飛ばされた生徒はそのままの勢いで中庭の水練池に落ちた。


「う、うわぁ!」

「おいこら待て、逃げんな!」


 兵介はきっちりもう一人も捕まえると、同じように殴り飛ばして池に放り込むのであった。


「何の騒ぎだ‼ また貴様か、兵介!」


 別の授業を受けていた信正と壱斉が騒ぎを聞きつけて中庭に出てくるが、兵介はそれに構わず二発目をくらわしてやろうと拳を振り上げる。


「いい加減にしろ、この馬鹿者!」


 やっとの思いで兵介を池に落ちた生徒から引き離すと、濡れた自分の着物に気が付いて一つくしゃみをした。


「てか、若様も眼鏡くんもびしょ濡れじゃん。どうしたの」

「こいつらが水かけてきたんだよ、くそが」


 再び兵介が池に向かおうとするが、今度も信正が体を使って止める。


「ぼ、僕が、僕が弱いからいけないんです! 僕が、平民だから……」


 一人離れたところから弥作が大きな声を出し、そして自信なさそうにうつむく。


「はぁ……おい、お前ら、私の班員にこうも堂々と手を出すとは、何を意味するか分かっているんだろうな?」

「よく見たらお前たち水も滴るいい男じゃん。毎日そこで生活してろよ。たまには飯落としてやるし、口開けて待ってな」


 池に落ちたままの二人の顔が青いのは寒いからか、自らの家と喧嘩相手の家の格差を思い出したからなのか、はたまた信正と壱斉の迫力に気圧されたからか……


 信正は「もう騒ぎを起こすなと言っただろう」と小言を漏らしながら兵介の肩に手を置くと、そのまま弥作の脇を抱えて部屋に上がっていく。


「俺の肩も貸しましょうか、若様?」

「絶対に嫌だね、なで肩野郎」


 そう言って、兵介は壱斉のなだらかな肩を小突いた。

 


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