第七話 塾頭の弟
「兵介、朝だぞ」
「……いやだ」
「いい加減にしないか。起きろ」
信正は兵介の布団をはがし、無理矢理兵介に日の光を浴びさせる。
信正と弥作は既に身支度を終えており、壱斉はまだ布団から出ていなかった。
「この後は教室で礼式だ。そこで先生から連絡事項を伝えられ、素読を行う。儒教の教科書を忘れないように。それから朝食の後は――」
長々と説明を続ける信正の言葉は、もう兵介の頭に入っていなかった。
めまぐるしく変わった日常が、全部夢だったら良いのに。兵介は冷たくなった布団から起き上がれないままだった。
しかしそんな兵介の甘い妄想をかき消すように、信正のうるさい声が鳴り響く。
「――以上だ。分かったか?」
「あー。とにかく儒教の教科書を持って下に降りればいいんだろ?」
「貴様は人の話を聞け! 朝食の後はそのまま午前の授業に行くと言っただろう!」
朝から怒鳴られている兵介を見て、たまらず弥作が口を挟む。
「あ、あの、兵介様は儒教と兵学の教科書を持っていけば大丈夫だそうです。あとは戌井殿についていけばよろしいかと……」
「お、わかった。ありがとな、弥作。ったく、信正は話が長いんだよなぁ。やっぱ信定にそっくりだな」
兵介の口から兄の名前が聞こえ、信正は表情を固くした。
「……貴様、昨日『大学』を持って帰ってきていたな。それは兄上にもらったものか?」
「ん? あぁ、そうだよ。呼び出されて、何かと思ったら“国は何をもって国であるか?”なんて聞かれちゃってさ。三年じっくり考えろって」
兵介は別れ際の信定の顔を思い出し、ため息をつく。
「私の兄上は、幼少からとてもよく出来た人だった。ここの塾頭を務めるためには、学問、武道、そして人望が必要だ。そのどれにおいても、私は兄上に勝てない」
そう言って、信正は兵介の方を見ながらその場に座った。兵介の目線は自分の手元から動かない。
「そうだろうさ。お前はいつも仏頂面で愛想のかけらもないからな。お前の兄ちゃんは最初から優しくしてくれたぞ」
「貴様はいちいち腹が立つやつだな。だがまぁ、そうだろう。あの人は何においても、誰に対しても完璧だ。そうしたら貴様の警戒心を解くことが出来ると分かっていたんだろう」
「だから何だよ。俺腹減ったし、早いとこ朝飯食いに行こうぜ。お前ら兄弟は話が遠回しで長いんだよ」
ようやく兵介が起き上がるが、信正は座ったまま床に目線を移す。
「……はぁ。その、なんだ。つまり私が言いたかったのは、今の貴様に必要なのは“下学上達”だということだ」
いつの間にか信正の隣に弥作が座っていた。
「孔子が説いた『論語』に出てくる言葉に由来する言葉ですね? 意味は、身近なことから学び始めて、次第に深い学問や真理に達していくこと。はじめからいきなり難しいことを考えても、すぐに答えは分からない。僕も好きな言葉です」
「そうだ。安心しろ、兄上に会った後に人が抱く感情は、尊敬か無力感のどちらかしかない」
不服そうな顔を上げた兵介と、信正の目が合った。
「……お前ら兄弟は難しい話しかしないのか?」
「まったく。これから真面目に儒教の授業を受ければ自ずと理解できるはずだ。おい壱斉、起きているんだろう。私たちは先に降りているぞ」
もう話は終わりだと言わんばかりにすくっと立ち上がり、信正と弥作は部屋を出て行った。
兵介もぼちぼち着替えようとしていると、壱斉がのそりと起き上がった。
「――信正が人の事情に口を出すなんて、珍しいことがあるもんだね」
壱斉の目はもうすっかり開いていた。
「若様が来てから、面白いことばかりだ」
「どこがだよ」
兵介は着替えの手を止めずに聞き流す。
「ここはさ、本当につまらない場所なんだよ。分かるでしょ? 何をするにも規則にお家。もううんざりさ」
「いいよなぁ、お前らみたいなお坊ちゃんは。そんなの悩んだうちに入らないだろ。俺はもっとでかいことで悩んでんの」
「——俺たちのこと、何も知らないくせに」
「え?」
「……どうしてこの班が元から一人欠けてたか、気にならないの?」
「ただ人数が足りなかっただけだろう」
「半分正解。この四人一組っていうのは、講釈所に入学したときに自分たちで組んだんだよ」
兵介は手を止めて壱斉の方を向く。
「じゃあこの三人組が組まれた時点で、他の四人組も綺麗に決まったってことか」
反対に、壱斉は起き上がって身支度を始めた。兵介の方は向かず、着替えを手に取る。
「いいや? 順序が逆だね。正解は、他の四人組が決まったときに余ったのがこの三人だった、でした。まぁつまり、若様以外の三人も訳ありってことだね」
当然兵介はその訳を聞こうとしたが、礼法に遅れると朝食抜きと言われて慌てて支度を進めた。
急いで着替えていると、懐から何かが落ちた。
――これ、持ってきちゃったんだった。
それは、倒れていた母親のそばにあったお守りだった。母親は常にそのお守りを大事そうに持ち歩いていたのだ。
無意識のうちにお守りを握りしめると、中に何かが入っている感触がした。
結び目をほどいてお守りの中を確認すると、何やら紙が入っていた。
紙を開くと何やら文字が書いてあるが、達筆すぎて兵介は読むことができなかった。
「なぁ、壱斉。これ読める?」
声をかけられた壱斉はめんどくさそうに顔だけこちらに向けて兵介の手元を見ると、急に驚いて帯も結べていないまま兵介に寄ってきた。
「え! それどこで手に入れたの?」
「そんなに珍しい物なのか?」
「珍しいというか……その字体は京や杠戸から発布される公文書に使われるやつだよ。城でもらったやつ?」
「いや、母さんが前からずっと持ってたお守りから出てきた」
「えぇ……若様の母上って何者?」
「いいから読んでくれよ」
もはや遅刻など忘れ、二人はすっかり紙の謎を解くことに夢中だった。
「どれどれ……おん、みょう、りょう? 初めて聞く言葉だな」
「おんみょうりょう? 俺も聞き覚えないや」
すると、背後から何か物を落とす音が聞こえた。
二人が驚いて振り返ると、部屋の入口に教科書を落として同じく驚いた顔をしている弥作が立っていた。
「今、陰陽寮って言いましたか?」
「おう、なんかこれにそう書いてあるみたいでさ」
「……」
弥作は難しい顔をしたきり、考え込んでしまった。
「お前たち! いつまで寝てるんだ! 遅刻だぞ‼」
ばたばたと階段を上がる音がしたと思えば、弥作の後ろから般若の形相をした信正が歩いてきた。
「少し優しくすれば調子に乗りやがって! さっさと降りてこい!」
「す、すみません!」
信正の怒鳴り声で自らの使命を思い出したのか、弥作は慌てて謝る。
そしてそのまま壱斉と兵介も続いて階段を下りていると、弥作がこっそり兵介に話しかけてきた。
「兵介様、もしかしたらあの紙に心当たりがあるかもしれません」
「え!」
「静かに!」
大きな声を上げる兵介の口を慌てて塞ぎ、弥作は先を行く信正と壱斉に軽く頭を下げる。
「大きな声で言えませんが、もしかしたら、です。このあとの礼式が終わったらついてきていただけますか?」
「もちろんだ。俺も、母さんのことはよく知らないんだよ」
複雑な思いを抱え、兵介は弥作に頷いて見せた。
* * *
第九班の四人が教室に入ると、既に他の全員は席に着いていた。先に教室に入った信正がこちらを睨んでくる。
前方の黒板の前には、昨日暴れていた兵介を止めた林田先生と、剣術を教えてくれた榊原先生が立っていた。
「やっと揃ったな。早く座れ」
林田先生に言われ、二人はそそくさと席に着く。
「よろしい。では、連絡事項だ。急遽、二日後に裏山で実践試験を行うことが決まった。これは各々の実力差を測るものだ。なお、この試験で一番の成績で合格した班から、階級の代表である級長を選出することとする。冬の山は大変険しいため、一層準備を念入りに行うこと。以上。では次に、素読を行う。今日の一節は――」
そうして儒教の教科書を全員で読み上げて、経綸館の一日が始まる。
兵介はこのあとのことを考えて、いつも以上に集中できなかった。




