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第六話 大成殿と塾頭

「あんたが俺を呼び出した、信定ってやつか?」

「そうだ。大事な授業の時間に悪かったね。一度君と話してみたかったんだ。弟が世話になっていると聞いたよ」


 信定の言葉で合点がいった。

 顔も名前も似ている。兵介を呼び出したこの人は、信正の兄だったのだ。


「あぁ、どんな話を聞いているかは知らんが、確かに信正のことは世話してやってるよ」

「ふふ、そうだろうね。あいつは愛想がなくて大変だろう」


 いきなり考えていたことを当てられた兵介は、仲間を見つけたと言わんばかりに話し出した。


「そうなんだよ! 初めて会ったときからずーっと、うっすら俺のことを馬鹿だと思ってるんだ。俺が世間話をしようとしても、くすりとも笑いやしない」

「そうだろう、そうだろう。それに加えて、これまで暮らしていた環境とだいぶ違うだろうから、経綸館で苦労をしているのではないかな?」

「ほんっと、あんたよく分かってるな! 寺子屋と全然違くてさ――」


 それから、兵介は経綸館に来てから起きたこと、感じたことを話し続けた。信定は微笑んだまま、時折相づちをうって話を聞いた。


 兵介は、定春にも同じように話を聞いてもらったことを思い出した。ただ少し、定春と信定は雰囲気が違うようだ。違う人間なのだから、当然といえば当然だが。


「――ってわけなのよ。俺、本当にお殿様になれるのかなぁなんて思っちゃってさ」


 その言葉に、少し眼光が鋭くなる信定。

 兵介に気づかれぬうちに目を緩め、懐から一冊の教科書を取り出す。


「兵介様、これを」

「これは?」


 兵介が受け取ったその教科書には、『大学』と書かれていた。


「それは、兵介様の二つ上の級――松ノ級の儒学の授業で学ぶ、『大学』の教科書だ」

「うーん? ありがたいけど、いらないや。俺、難しいこと分かんないし」


 しかし信定は返されたそれを受け取らず、そのまま話し続けた。


「はは、そうか。では、問おう。この国で一番偉いのは誰だと思う?」

「そんなの、将軍様だろ。江戸のでかい城で、美味しいもんたらふく食ってるって聞いたぞ」

「なるほど。では、この藩で一番偉いのは?」

「そりゃ藩主様だろ。実際に会ったけど、すげぇ偉そうだったもん」

「では、国や藩は何をもって国や藩となるだろうか?」


 小気味よい問答が続いたが、ここで初めて兵介が返答に困った。

 そんなこと、考えたこともない。


「そりゃあ……あれだ、城があるところが国だ」


 その回答にふっと短く笑うと、信定は軽く首をかしげて兵介の目をまっすぐ見つめる。


「では、今私が地面に円を描き、その中に城を建てたらそこは国になるか?」

「は? そんなわけないだろ。そこに誰もいないんだから、あんたが勝手に国だって言い張ってるだけだ」


 兵介は純粋な目をして言い返す。

 すると、信定が初めて大きく体を揺らして笑った。


「はっはっは、全くもってその通り――君は学はないが、馬鹿ではないようだ。愚弟に伝えておくよ」


 信定の目から段々と光が消えていく。


「では、もう一度問う。国は何をもって国となる?」


 兵介には訳が分からなかった。

 同じような質問を何度も何度も繰り返されて、脳みそがしびれるような感覚がしてきた。


「……あぁ、もう! いい加減にしてくれ。何が言いたいんだ?」


 信定は囲った獲物を逃がさないよう、目を離さない。


「君は将来藩主になることを期待されていると聞いた。君は、藩主になって何を為すか考えたことはあるか?」


 言葉尻は疑問の形をとっているが、その無言の圧は「いや、ないだろう」と続けていた。


「そんなの無いに決まってるだろ。昨日急に母さんが死んで、城に呼び出されて、お前が次の藩主だって言われて。まだ何が起きたのか整理し切れてもないのに……」


 うろたえる兵介に、信定はなおも続ける。


「そうだろうな。だが、君には時間がある。私はあと一年でここを去るが、君はあと三年、ここでじっくり考えることができる。その『大学』は、君が何を為すべきか、如何に為すべきか悩んだときの指針になるだろう。学問とはそういうものだ。何も考えずに三年間過ごすよりは、そういう命題を持って過ごすと良い」

「……」


 兵介の頭には半分も入ってこなかったが、とにかく考えないといけないという事実だけは分かった気がした。


「徳をもって為すか、法をもって為すか。常に私たちに降りかかる難題だ」

「難しくて何言ってるか分かんねぇけど、なんとなく、あんたがお節介を焼いてくれていることは分かった。でもどうして俺なんかに構うんだ?」


 信定はやっと微笑みを戻し、大成殿に祀られている孔子の像を見上げた。


「私の家は藩に仕える身。即ち、君は将来の私の主だ。主がどんな人間なのか、どういう人間になるのか見てみたくてね。殿が城の上から城下を見下ろしているとき、民もまた天守を見上げているのさ」


 午後の授業の終わりを告げる鐘が鳴る。


 大成殿から去ろうと歩き出したとき、ふと兵介が振り返ると、孔子と信定はまだこちらをじっと見つめていた。

 兵介はその顔が忘れられなかった。


* * *


 三人は先に賄い所につき、兵介を待っていた。


「まだですかね、兵介様」

「あいつは食事に執念深いようだから、そのうち来るだろう」

「あ、そういえば、若様を呼び出したのって誰だったのかな?」


 兵介を呼び出した者について、三人は何も聞いていなかった。

 しかし、このタイミングで大成殿に呼び出すような人間に、信定は心当たりがあった。そしてその予測は、『大学』を持った兵介が現れたことで確信に変わった。


「おぉ、若様。遅かったね」

「あぁ、まぁな……」


 その表情には、武講所で見せた活発さはなかった。

 何かを思い詰めたような、悲しいとも怒りとも違う、焦点が合っていない目。


 今日の夕飯は米に味噌汁、めざし三尾、煮物、沢庵四枚。今度は紫のモヤはなかった。

 しかし、やはり兵介に配膳されたのは、それに満たない少量だけだった。

 文吾は恐る恐る兵介の前に器を置くが、空を見つめたまま反応がない。


 明らかに様子がおかしい。

 気遣った弥作が自分のめざしと沢庵を兵介の器に移そうとするが、信正に止められた。


「放っておけ。食べたければ食べるだろう」


 壱斉も兵介に一瞥をくれると、見飽きたとばかりに小さく首を振り、弥作にちょっかいをかける。


「メガネくん、食べないなら俺に頂戴よ」

「ええ! えっと、じゃあ……」

「こいつの冗談だ。真に受けるな、弥作」


 三人の会話にも一切入らず、兵介はただ器の空いたところをぼんやりと眺めていた。


* * *


 四人一組は文字通り寝食を共にするため、第九班は寮までも同部屋であった。

 教室や賄い所がある一階から階段を上がり、二階の部屋に向かう。


 部屋に入ってからも壱斉は弥作にちょっかいをかけ続け、時たま兵介にも手を出すが、昼間のような威勢の良い反応は返ってこなかった。


 兵介にとって、経綸館で過ごす初めての夜。布団に入って見上げた天井は、母親と寝ていた部屋の天井より高く、遠かった。


 信正がろうそくの火を消し、部屋に暗闇が訪れる。


 兵介は布団に潜ってみた。

 ひんやりと冷たく暗い布団の中は、やっと一人きりになれた空間だった。


 先生、定春、榊原先生、信定。脳裏に浮かぶ、兵介に教えを説いた人たち、皆「考えろ」と言っていた。


 ――考える? 一体何を? どうやって? いつまで? 何のために?


 布団の中は兵介以外何もなかった。それは兵介の中もまた、同様だった。


 部屋のどこからか、すすり泣く声が聞こえてくる。


「ひぇっ! 何か聞こえませんか……?」

「成仏できなかった怨霊じゃない?」


 壱斉の嘘に、弥作は念仏を唱えながら布団をかぶった。


「よさないか。明日に備えて早く寝ろ」


 一人だけ声がしなかった方をからかってやろうと壱斉は寝返りを打ったが、少し盛り上がった布団を見ると、それをぽんと叩いて天井に向き直った。


 満月が四人の影を伸ばし、夜が更けていく。


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