第五話 勝つ、とは
「いだっ」
突然のことで、とっさに手の力を緩めてしまった。
硬い板の床に木刀が転がる、軽い音が響く。
カランカラン、カラン。
「勝負あり」
先生が勝敗を告げる。
「いやいや、たかが木刀を落としただけだろ。俺はまだやってやるよ!」
兵介は拳を握り、坊っちゃんに飛びかかった。
坊っちゃんが木刀で応戦するが、兵介は木刀で打たれていることを気にもとめない。そのままの勢いで坊っちゃんに突進して、押し倒す。
驚く坊っちゃんの顔が、屈辱と未知への恐怖で歪んでいった。
「ひぃっ! おい、離れろ! 平民が、俺の上にいて良いと思っているのか!」
「関係ないね!」
兵介は坊っちゃんの襟首を掴み、拳を振り上げる。
「この馬鹿……!」
「何これ、面白すぎでしょ」
「あぁ……」
信正が慌てて仲裁に入るも間に合わず、大きく振りかぶった兵介の腕が、坊っちゃんの顔面に向かってまっすぐ降りていく――
「やめい!!!」
そのとき、榊原先生が鋭い声で制止した。
すんでの所で兵介は動きを止め、教室全体の時間が一瞬止まった。
「すでに勝負はついた。兵介、離れろ」
「え、まだ俺は倒れてないっすよ。まだやれるって!」
信正は兵介を諭そうと口を開くが、先生の無言の制止により閉口する。
「これにて試合はしまいにする。第九班以外は各自打ち込み百回、その後班員同士で組み手を行うように」
「はい!」
先生は全体への指示を出すと、向き直って第九班の面々と対峙する。
「正座」
短いが確かな圧で、三人は正座して並ぶ。兵介は無視しようとしたが、信正に目で訴えられて渋々横に並んだ。
「兵介、私は経綸館での試合において負けたことがない」
「なんだよ先生、いきなり自慢か?」
先生は表情を変えず続ける。
「しかし、経綸館の外でただ一度負けた。その代償がこれだ」
兵介は気がついていた。
前に突き出された榊原先生の右の袖に、何も通されていないことに。
「試合で一度も負けたことがなく、驕っていた私は闇討ちにあった。そしてこれだ」
「……」
「私はあの日、本当に勝ったと言えるか? 何に勝った? 何に負けた? 今でもよく思い出しては考える」
その言葉は兵介だけでなく、三人の心にもそれぞれ刺さるものがあった。
「兵介、勝ちとは何か。何のために勝つのか。勝つためにはどうしたら良いのか。その場をよく観察し、最も適した行動をとれ。ここではどうすればいいか、もう分かるな?」
「……はい」
先生が言いたいことは、よく分かった。
頭に上っていた血はすっかり落ち着いており、その代わりに、埋まる気配のない〝差〟への絶望にも似たような感覚が、兵介の脳裏を支配していく。
これまで過ごしてきた時間、環境、常識、その全てが、あまりに兵介の日常と乖離していた。よく分かった。よく分かった、が。
「百錬成鋼。戌井、加藤。弥作と兵介をよく叩いてやれ」
「はい」
「では四人も打ち込みに戻って、よし」
先生の号令で立ち上がり、四人も他の生徒たちの元に歩いて行く。
真面目な弥作は、早速信正に稽古をつけてもらえないか相談し、信正は快諾していた。
「ねぇ、若様。俺たちで組み手してさ、良い感じにサボろうよ」
二人のやり取りを横目に、壱斉は兵介にさぼりを提案する。
兵介の表情は固いままだ。
「あー、いや。お前見てるだけで良いからさ、打ち込みの仕方教えてくれねぇか」
「え! 若様、急に真面目じゃん」
そうおどける壱斉が握っている木刀にも、使い古されたであろう傷跡が多く残っていた。
「次こそあいつらをぶちのめしたいじゃん」
兵介は振っ切れたようにニカッと笑い、壱斉を小突く。
「それに、俺に教えてる体にしてれば、お前は動いていなくても怒られないだろ」
それもそうかと壱斉は頷いた。
「まぁ、次も瞬殺されたらつまんないしね。よし、じゃあまずは自由に振ってみて」
「よっしゃ! 百錬成鋼ー!!」
大声を出して不格好に木刀を振る兵介。
聞いたことのないかけ声に、周囲の生徒が振り返る。
「何それ、ださっ。恥ずかしいって」
「なんだよ、いいじゃんか。先生も言ってただろ。ほら、百錬成鋼ー!!!」
「弥作、あっちを見るんじゃない。今の私たちは他人だ」
「は、はい、師匠!」
四人の様子を見て、榊原先生は満足そうに口角を上げた。
* * *
経綸館の午後は、前半が日替わりで必修武術、後半が選択武術である。
本来であれば兵介は信正と共に居合い術の授業を受けるはずだったが、兵介に会いたいと言っている人がいると呼び出され、一人で大成殿に向かっていた。
壱斉に場所を聞いてみると、正門をくぐって正面に見えた大きな屋根の建物が大成殿だと言っていた。それならば一人で行けると歩いて向かうと、そこには静かに佇む一人の青年がいた。青年はこちらに気がつくと、ゆったりと振り返る。
「君が兵介様か。よく来たね」
その顔は、信正によく似ていると思った。
しかし口元には優しい笑みを浮かべ、目元には慈愛のような気が漂っている。
纏う雰囲気は昼下がりの柔らかな日差しのようで、顔のパーツ以外に関しては、無愛想極まりない信正と正反対だった。
「あんたが俺を呼び出した、信定ってやつか?」
「そうだ。大事な授業の時間に悪かったね」
失礼な兵介の態度にも、何も反応しない。
信定は、ただただ微笑んでいた。




