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第二話 入学準備

「それでは、経綸館に向かう前に、必要な道具を揃えに行きましょう」


 かしこまった顔の大勢の大人たちに見送られながら、信正と城を出て城下町に降りた。

 歩いている信正はやはり無駄口を叩かず、ただまっすぐ前を向いて歩いていた。


「なぁ。お前のそのやけに丁寧な口調、気持ち悪いぞ」

「気持ち悪い……!?」


 まるで新種の生物を見たかのように驚く信正だったが、一つ息をついて襟を正す。


「ここでは藩士の目があります。学び舎の門をくぐったら皆等しく生徒の身。言われなくてもそのように」


 「ふーん」と言いながら、兵介は改めて辺りの武家屋敷を見回した。城に向かって走っていたときは何が何だか分からず周囲を見る余裕が無かったが、こうして見てみると町人地と随分雰囲気が違う。

 一つ一つの屋敷が大きく、土塀がそびえ立っている。中は見えず、道の左右には塀か門しか見えない。それから、人がいない。こんなに道が広いのに、歩いているのは自分たち二人だけだ。木々がそよぐ音と自分たちの足音だけが聞こえる。


 ――なんて退屈なところだろう。


 しばらく歩くと、堀にかかっている橋に到着した。


「あれ、町人地で買い物するのか?」

「はい。武家地には居住のための屋敷しかないため、買い出しがあれば町人地に行くことになります」


 橋を渡ると、すぐそこは町人地の中心にある本通りだった。武家地と違って人が溢れ、活気に満ちていた。


「すごい場所だな!」


 楽しそうに笑う兵介に、信正は意外そうな顔を向ける。


「兵介様は町人出身だと聞いていましたが、ここは初めてですか?」

「あぁ、俺が住んでたのは裏長屋って言って、一本裏に入ったところなんだよ。母さんがなぜか俺を表通りに出してくれなかったんだよなぁ。信正こそキョロキョロしてるけどよ、いつも買い物してるんじゃないのかよ?」

「必要な物があれば使用人が行きますので。反物は直接商人が家に来ます」

「はー、そうですかっと」


 ため息をついてつまらなそうに言うと、兵介は会話ではなく景色を楽しむことにした。


犬が走り、それを追いかけて子どもが走っている。茶屋の前では客が冗談を言い、女将が肩を叩いて笑う。魚屋の店先では店主が売り文句を叫び、釣られた女が値段を交渉する。


ふと信正の方を見ると、幼い子どものような好奇心に満ちた顔をしており、興味深そうに辺りを見渡していた。


「団子でも食べていくか?」


 からかうように兵介に声をかけられた信正は、我に返ったのかすぐに目の色を戻した。


「いえ、先を急ぎますので」


 信正はそう断って歩みを進めるが、少し行くとまた進む速さが遅くなる。兵介は気がついていたが、そのことについてはもう何も言わなかった。


「そういえば、俺たちは今どこに向かってるんだ? 結構歩いただろ?」


 辺りを見てみるが、人の往来が多くて先の方が見えない。兵介が遠くを見ようと背伸びしたとき、 足に鈍い痛みが走った。

 信正は反射的に腰の刀に手をやる。


「わあ!」


 見ると、小さな子どもがぶつかったようだった。子どもの手元に刃物が無いことを確認すると、信正は刀から手を離した。少し遠くから母親が駆け寄ってくる。


「ごめんなさい。この子ったら本当にやんちゃで――」


 そう言いながら母親は信正の腰に差さっている刀と胸元の家紋に目をやると、急に地面にひれ伏した。


「ひぃっ……! も、申し訳ございません。申し訳ございません」


 声は裏返り、顔面は蒼白。ガタガタ震えながら額を地面に擦りつけている。子どもも兵介も、突然のことに驚く。


「お、おい。これくらい大丈夫だって。なぁ、信正」


 兵介は母親の前に立ち、信正に声をかける。しかし、母親は兵介の言葉を意に介さず、足下で額を地面に擦り続けた。


「この子はまだ物心もつかぬ、躾のなっていない子どもでございます。どうか、どうかご慈悲を……お命だけはお助けくださいませ……!」


 信正はすっかり城で見せた無表情に戻り、母親を見下げていた。


「……次は無いぞ。行け」


 信正の言葉に安堵した母親は、精一杯の感謝を伝え、子どもを連れて急ぎ離れていく。


 はっとした兵介が周りを見ると、二人を避けるように空間が空いていた。

 あれだけひしめき合って騒がしかった本通りが、今や誰も言葉を発しておらず、それどころが端に寄った大人たちが二人に頭を下げている。

信正は平然と、堂々と群衆に向かって声をかけた。


「おい、誰か。桔梗屋を知らぬか」


 すると、一人の親父が答えた。


「へい。桔梗屋は右手後方に見えます、紺色の暖簾の店でございます」


 先ほどまではあんなに見通しが悪かったのに、今は不気味なほど遠くまで見える。


「うむ。ご苦労」


 信正が歩き出すと人混みが二人を避け、自然と道ができていく。中には腰に刀を差している者もいたが、二人が近づくと頭を下げていく。


「……なんだ、これ」


 裏通りでしか生活をしてこなかった兵介は、このような光景を初めて見た。


「この着物に付いているのは戌井の紋。そして兵介様に付いているのは松平のもの。しかし、子どもとはいえ兵介様への接近を許したのは私の未熟さ故、お許しください」


 信正は兵介に頭を下げると、また道の真ん中を堂々と歩いて行く。端に寄った人々は誰もが目を伏せていたが、兵介にはその全員がこちらを見ているように感じられた。視線がまとわりついて、離れない。


 すると、群衆の中に、突然紫色が見えた。


——母さんと同じ、モヤだ!


 慌てて信正を見るが、全く気がついていないようで真っ直ぐ前を向いたまま歩みを止めない。


『決して他人に紫のそれが見えることは言ってはいけない。私のようにならないために』


 定春の言葉と母親の最期の姿を思い出し、兵介は開きかけた口を閉じた。そしてそのまま目線だけを紫色の方に向けると、そこには上下真っ黒の着物を着た男が頭を下げていた。

 伏せている顔をよく見ようと兵介が目を凝らすと、まるでそれが見えたように男が少し頭を上げる。その目元には、大きな切り傷の跡があった。

 さらによく見ようと首を伸ばすと、突然信正が止まり、兵介はその背中に激突してしまった。


「着きました」


 短く告げられ、信正に続いて桔梗屋に入ろうというとき、もう一度男の方を見るとそこにはもう紫色はなくなっていた。


「戌井だ。世話になるぞ」


 そう言いながら暖簾をくぐると、信正は当然とばかりに店内の座敷に腰を下ろす。

 兵介が慌ててついていくと、店の奥から焦った様子の店主が現れた。


「これはこれは、戌井の若様。いらっしゃいませ。おっしゃっていただければお屋敷までお持ちしましたのに」


「急用だ。すぐに出る」


 深々とお辞儀をしながら、店主は兵介をチラリと見た。そして胸の紋を見るやいなや揉み手をし、「お初にお目にかかります、桔梗屋の店主でございます。失礼ながら、あまり見ないお顔で……?」 と、今度は探るように兵介をなめ回して見てくる。


「余計なことを言うと首が飛ぶぞ」


 信正にピシャリと窘められ、店主の腰は更に低くなっていった。


「大変失礼いたしました。それで、本日は何をご所望でございますか?」

「こちらの方は今から経綸館に向かわれる。何も手持ちが無い故、必要な物を一式用意して欲しい」

「あ、よ、よろしく……」


 高貴な衣服に似合わない態度をとる兵介に疑問を持ちながら、店主は低い姿勢を崩さず了承する。


「承知いたしました。ではまず、体格を測るためお手を拝借して……ん?」


 身分の高いものとは程遠い荒れた手のひらを見た店主は、再び首をかしげた。すかざず信正は圧をかける。


「用意できぬと申すか?」

「い、いえ。午後の授業に間に合うようお持ちいたします」


 店主が承諾したのを合図に、信正は立ち上がって店を出る。兵介も後に続いて店を出た。


「おい、代金払わなくていいのかよ」

「家付けですから、今払わなくても問題ありません。それでは、経綸館に向かいましょう」


 店の外に出ると、やはり二人の周りの空間は不自然に空く。

 兵介は信正の背中に底知れぬ不安を抱えながら、後を追って歩いた。


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