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第一話 はじまり

 夕日が次第に姿を消しながら影をより濃く伸ばす頃、兵介は裏長屋の路地を友人たちと別れて帰路についた。


 寺子屋で行った騎馬戦での活躍を早く母親に話したいと、自分の家が見えた兵介は無意識に駆け出す。

 そしてその勢いのまま戸を開けると、そこには、どす黒い紫のモヤに包まれた母親が地面に横たわっていた。


「え……母さん、母さん!」


 いつもなら笑顔で返事をしてくれるはずの母親は呼びかけに応じず、口から血を流したまま何も発さなかった。

 兵介はぺしゃりとへたり込み、どうにか目の前に起きていることを理解しようと頭を抱える。


 夕食の準備をしていたのだろうか。火を止める人間はもはやおらず、吹きこぼれた味噌汁が竈を伝って土間を濡らしていく。


 早まる鼓動が、これは現実だと告げる。


「う……ううっ……!」


 浅い呼吸で吐かれる息が白いにもかかわらず、全身に汗が噴き出る感覚がした。

 どうしよう、どうしようと同じ文字が頭をぐるぐる回って止まらない。


 しばらく経ち、やっと呼吸が落ち着いた兵介はもう一度母親を見る。すると、倒れている母親の腰元に糸が切れたお守りが落ちていることに気がついた。

 兵介はまともに歩けず四つん這いになりながら母親の体に近づいていく。

 そして腰の辺りに落ちているお守りを、宝物のようにそっとすくい上げた。それは、母親がいつも身につけていたものだった。

 

 そのまま今度は母親の顔元に近づき、その顔にかかっている髪の毛をそっと避けようとする。 しかし、兵介の腕が顔に近づいた瞬間、絡みついていたモヤがまるで威嚇するように兵介の腕に鋭く伸び——


* * *


「う、うわあぁぁぁあああ!!」


 兵介が大きな声を上げて布団から飛び起きると、既に廊下に待機していた家老の次男・戌井信正(いぬいのぶまさ)が慌てて入ってきた。


「どうされましたか、兵介様!」

「い、いや、なんでもない……」


 信正を一瞥すると、兵介はばくばくと大きな音を立てる心臓を右手でぎゅっと抑える。

 周りを見てみるが、そこは裏長屋の土埃が舞う貧相な部屋ではなく、節一つない梁に支えられ、すきま風ひとつない完璧な造りの部屋だった。


 嗅いだこともないような高貴な香木の香りが、静寂と共に漂っている。


――夢だ。


 荒い呼吸を繰り返しながら、兵介は現実を確かめるように自分の掌を見つめた。

 指先は震え、肌は嫌な汗でじっとりと濡れている。夢の中で見たあのどす黒いモヤの感触が、まだ右腕にこびりついているような気がして、思わず何度も袖で拭った。


「兵介様。顔色が優れませんが、いかがなさいましたか?」


 そう声をかけながらもまったく心配そうな表情をしていない信正は、兵介と同い年だという。

 しかしその立ち振る舞いは大人びて隙がなく、綺麗に結われた黒髪は、昨日まで裏長屋で泥にまみれていた兵介とは住む世界が違うことをまざまざと見せつけられるようだった。


 昨日――


 その単語を思い出すだけで、兵介の胸の奥が鋭い痛みで疼いた。

 冷たくなった母親を前に立ち尽くしていた兵介の腕を掴み、無理やり城へと連れてきてくれたのは、寺子屋の先生だった。わけも分からぬまま通された奥の広間。そこで、この泉平藩の主である松平定正(まつだいらさだまさ)は、冷徹なまでの静けさでこう言い放ったのだ。


『貴様は私の血を継いでいる。今日より、この泉平藩(みだいらはん)の跡継ぎとなれ』


 それ以上の説明はなかった。


 母の死と、突然の身分の変転。

 あまりに巨大すぎる現実の奔流に押し流され、心はとうに悲鳴を上げる余裕さえ失っていた。城で過ごした初めての夜は一睡もできないと思ったが、どうやら心身は限界を迎えていたらしい。


「……信正、俺はこれからどうなる?」


 城で用意された着物に袖を通しながら、兵介は疑問を投げかける。

 いくら頭の悪い兵介でも、あの家に戻ることはできないと察していた。


「はい。定正様のご命令通り、兵介様は藩士の子弟が通う経綸館(けいりんかん)講釈所(こうしゃくじょ)へ入学していただくことになります」

「殿様も言ってたけど、経綸館? とか講釈所? ってなんだ?」

「経綸館とは、この泉平藩が運営する学び舎のことです。藩士の子どもは十歳になると経綸館の素読所(そどくじょ)に入学します。そしておおよそ五年をかけて卒業し、さらに勉学に励みたい場合、条件を達成した者が次の講釈所に進学するのです」


 まるで機械仕掛けの人形のように、朗々と説明する信正。


「まずは入学準備のため、城下へ降り、刀や筆記用具、必要な品々を揃えに参ります……が、その前に」


 信正は一度言葉を切り、居住まいを正した。


「参勤交代で江戸より帰府されたばかりの、嫡男、定春様がお会いしたいと。まずはそちらへご挨拶に伺います」


——嫡男? まだ自分の子どもが残っているのなら、なぜ俺みたいな平民を城に呼んだんだ?


 定正にまだ子どもが残っているという話は昨日されていなかった。

 しかし、そんな疑問は定春の部屋に入ってすぐに解消されることになる。


* * *


 信正に案内された城の奥の部屋は、布団と最低限の収納以外がない、寝るためだけに用意されたかのような室内だった。

 何枚も重ねられた布団と薬草の香りの中に、その人物は埋もれるようにして横たわっていた。


「よく来たね。信正、下がっていてくれ」

「御意」


 信正が部屋から出て、中には兵介と定春だけが残された。定春はゆっくりと顔をこちらに向ける。


「せっかく来てくれたのにごめんね。もう起き上がることもできないんだ」

「……」


 兵介は驚いて言葉が出なかった。定春の体は、母親と同じように全身が薄い紫のモヤに包まれていたのだ。


「あんたが定春、様か?」

「様なんていらないよ。私たちは兄弟なんだから」


 定春は力なく笑う。


「あんた、その体、紫の——」

「それ以上は言わないほうがいい」


 指を指しながらぽつりと話し始めた兵介を、定春は細い体に見合わない、低く鋭い声で制した。

 そして兵介が固まってしまったのを見た定春は、困ったように笑って穏やかに語りかける。


「そんなところに立っていないで、もっとこちらに来て顔を見せてくれないかな」


 兵介は、やっと足を動かして定春のそばに座る。


「やっぱり兄弟なんだね。似ている」

「……」


 兵介は即答できなかった。

 昨日まで会った殿様が本当に父親なら自分たちは兄弟であるはずだが、あまりに唐突な展開に現実味がなく、黙ることしかできなかった。


 しかしその反面、目の前に横たわる彼の顔は本当に自分に似ていると思った。定春は痩せてはいたが、その目元、鼻筋、口元。定正から兄弟の存在を直接告げられた訳ではないが、二人が兄弟だということを示すには十分だった。


「父上から聞いたよ。君に、私の代わりをさせることになってしまった。……ごめんね」


 未来の殿様が、また自分に謝った。兵介は戸惑う。


 兵介が暮らす町人地は堀の外。見たことがある武士も浪士ばかりで、本物の武士を見たのは今日が初めてだった。

 この城にきてからというものの、信正のように冷たい表情をした武士たちに囲まれていたため、武士とはそういう人間ばかりだと思っていた。


 また、兵介の家は小さな裏長屋の一室に過ぎず、母子二人で慎ましく暮らしていた。

 堀の中にある武家地には、足を踏み入れる機会すら無かった。いわば別世界だ。

 その中心にあるこの城で、藩主の次に立場が高いであろう人間が、何者でも無い自分に謝った。


 定春の目を見るが、何かを図っているような気はなさそうだ。彼が穏やかなのは元からなのか、そうせざるを得なかったからなのか。


「謝るなよ……あんたが悪いわけじゃねぇんだろ。悪いのは、あの殿様だ。そうに決まってる」

「父上を悪く言わないであげてくれ。あの人は、藩を守るために必死なだけなんだ。君の母上——志乃様を手放したのも、藩を守るためだった」

「母さんを知っているのか!?」


 兵介すらしらない母親の名前を、定春は定正から聞いたという。

 にわかに信じられなかったが、やはりあの冷たい男は母親と親密な関係だったのかもしれない。


「それ以上は知らないんだけどね。その話をしてくれたとき、父上は薄く笑みを浮かべていた。私が父上の笑顔を見たのは後にも先にもその一度きりだ」


 そして定春は悲しげに目を伏せ、そして自分の胸元――紫のモヤが一番濃く渦巻いているあたりを、細い指で押さえた。


「私には、他に三人の兄弟がいた」

「え、三人も?」

「あぁ。でも、皆死んだ。今の私と同じように、原因不明の熱にうなされ、身体が動かなくなり、最期は血を吐いて……」


 兵介の脳裏に、家で倒れていた母親の姿が浮かぶ。


「医者は風土病だと言うけれど、何の薬も効かなかった。皆、持病など無かったのに、ある日突然倒れたんだ」


 定春の目が、兵介を射抜くように見つめる。


「兵介。君も近づいてくる人間には気をつけた方がいい。私も君も、いない方がいいと考える人間はたくさんいるからね」


 兵介は自分の胸を押さえてみる。


「そうだ、兵介が今までどうやって生きてきたのか教えてよ。志乃様と一緒に町で暮らしていたんでしょう? もう何年もこの部屋から出ていないんだ。外の世界でどう暮らすのか、聞いてみたいな」


 定春は純粋な好奇心に満ちた目で兵介を見る。兵介は「しょうがねぇなぁ」と鼻を掻き、話し出した。


 裏長屋の狭い部屋で母親と二人きりの暮らしだったこと、母親が作るご飯を楽しみに日々生きていたこと、寺子屋の仲間たちと毎日学んでいたこと、座学は苦手でよく居眠りをして怒られていたこと、先生は厳しいけど良く教えてくれたこと――


 楽しい思い出を話せば話すほど、出てくる涙が止まらなかった。部屋に置かれた陶器の火鉢が、兵介の体を温めていく。


 突然日常が崩れたこと、現実を受け入れる間もなく家を出たこと、先生とは城に入る前に別れたこと、何も分からず城でいろんな大人に囲まれたこと、誰も自分の話を聞いてくれなかったこと、ずっと、すごく緊張していたこと――やっと自分の気持ちを整理することができた時間であった。


 兵介が泣きながら話している間、定春は静かに耳を傾けていた。


 話が止まったが、兵介は泣き続けていた。定春は兵介の膝に手を伸ばす。

 兵介は紫の手が近づくのを見て反射的に体を引きそうになったが、今は引いてはいけないと踏ん張った。そして自分の手を定春の手に重ねる。


「聞いてくれてありがとうな。なんかスッキリしたわ」

「こちらこそ、いろんな話を聞かせてくれてありがとう。うん、やっぱり君には生きていてほしいな。たった一人、生き残った私の兄弟。代わりなんて思わなくていい。生きて、たくさん学んで、考えて、経験して。また私に話を聞かせておくれ」


——俺に、生きてて欲しいって思ってくれる人がいる。


 その事実は、怒りと混乱で凝り固まっていた兵介の胸に、突き刺さった。

 雪に囲まれたこの冷たい城の中で、初めて触れた温かな言葉だった。


「だから、決して他人に紫のそれが見えることは言ってはいけない。私のようにならないために」


 兵介は涙を拭いながら、力強く頷いた。




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