第十話 重臣の子どもが背負うもの
これまで見たことがないほど難しい顔をする信正と壱斉に、兵介は必死に食い下がる。
「だってよ、こいつらがお前らのことをボロクソに言うから……!」
しかし、二人の顔色は一向に戻らない。
「……馬鹿者が。あそこに倒れているのは、若年寄の次男坊だぞ。単なる生徒同士の喧嘩では済まない。最悪の場合、家同士の問題に発展しかねん」
「いえ……家同士って、そんな大げさな。今までだって喧嘩はしたけど、そんな大事にはならなかっただろ」
「今までは相手の方が私たちより格が下だった。つまり、私たちの家にさえ伝わらなければ騒ぎが起きようもなかったんだ。だが、今回は……よりにもよって同格、しかも反対派の家か」
考え込むように信正が呟くと、隣で黙り込んでいた壱斉が、力なく、どこか乾いた笑い声を漏らした。
「はは……若様、相変わらずお人よしだね。でも、俺なんかのためにそこまでしてくれなくていいんだよ。俺をかばっても、若様の得になることなんて一つもないんだから」
「壱斉、お前……」
そう言い残すと、壱斉は視線を逸らして歩き出した。
信正もまた、「少し用がある」とだけ言い残して足早にどこかへ去ってしまい、結局その日は一度も寮に戻ってこなかった。
* * *
翌朝。
重苦しい空気の中で目を覚ました兵介は、隣の布団が綺麗に畳まれていることに気づく。 反対側に寝ているはずの壱斉の姿もなかった。
「……弥作。壱斉は? あいつも信正みたいにどこか行ったのか?」
準備をしていた弥作が、困惑と不安の混じった表情で振り返る。
「……壱斉様のご両親が、経綸館に来ているそうです。それで、朝早くに奥の部屋へ呼び出されて……」
「親が? なんで……」
昨日の件が、もうそこまで話が及んでいるのか。嫌な予感が胸をよぎる。
* * *
もはやこの後受けるであろう罰はどうでもよかった。兵介は林田先生の目を盗んで礼式をさぼると、足音を殺して経綸館の奥へと向かった。
重厚な造りの廊下を進むにつれ、冷気とは別の、肌を刺すような緊張感が漂ってくる。
突き当たりの部屋の前には見張りの門弟が立っており、近づくことはできそうにない。
兵介は慌てて中庭に飛び降り、縁側の軒下に身を潜めた。
「――この、恥晒しが!」
突然、鼓膜を震わせるほどの怒号が響いた。
壱斉を罵倒するその声は、憎しみがこもっているというより、何かを叩き潰そうとするような暴力的な響きを孕んでいる。
「お前一人の不始末で、我が家の格がどれほど汚されたと思っている! 優秀だった弟に引き換え、貴様というやつは……!」
罵声に混じって、鈍い音が響いた。
肉を打つ音、そして、畳に激しく人が倒れ伏す音。
「おやめください!」
「大旦那様、それ以上は……!」
周囲の人間が慌てて制止する声が聞こえる。
兵介は我慢できず、縁側に手をかけて隙間から廊下を覗き込んだ。
衝撃でわずかに開きかけた襖の隙間に、その姿は見えた。
畳に突っ伏し、肩を震わせる壱斉。その顔は、激しく殴り飛ばされたせいで痛々しいほど赤く腫れ上がっている。
いつも軽口を叩き、人を食ったような笑みを浮かべていたあの壱斉が、今はただ、言葉もなく床を見つめていた。
その瞳に、助けを求めるような色はない。ただ、冷え切った絶望だけが沈んでいる。
「……目障りだ。お前があの子――仁斎を殺したんだ! お前さえいなければ!」
壱斉の父親の怒りは、一度の殴打では収まらなかったようだ。再び振り上げられる拳。
その威圧感に、周囲の家臣たちは縮み上がり、誰も手が出せない。
壱斉もまた、逃げることもせず、ただ静かに次の衝撃を待つように目を閉じた。
「やめろ――っ!」
反射的に体が動いていた。
兵介は縁側から座敷へと飛び込み、倒れ伏した壱斉の前に割って入る。
直後、鈍い衝撃が兵介の頬を走った。
大人、それも武芸に長けた男の本気の拳だ。火花が散るような衝撃に、兵介の視界がぐらりと歪む。
「……な、何だ、貴様は……!」
壱斉の父親の困惑した声が聞こえる。
兵介の背後で、壱斉が息を呑む気配がした。
「……若様? なんで、君が……」
壱斉の声は震えていた。
そして自らを嘲笑うように、声を上げる。
「……はは、ははは。馬鹿だなぁ。何やってるのさ」
壱斉は、顔を腫らしたまま、無理やり唇の端を吊り上げた。
いつもの、人を食ったようなへらへらとした笑みだ。だがその声は、今にも消え入りそうなほどに掠れている。
「言ったでしょ、俺なんて、かばう価値ないんだよ。家にとっちゃ出来損ないの余り物だしさ。弟の方が望まれた子なんだ。優秀で愛されていた。それに引き換え、俺なんて死んだって代わりはいくらでもいる。俺が消えたところで、誰も困りゃしないんだから……」
「ふざけんな!」
振り返った兵介の怒鳴り声に、壱斉の言葉が止まった。
口の端から血を流しながらも、兵介の瞳は真っ直ぐに壱斉を射抜いている。
「代わりがいるとか、価値がないとか……そんなの、勝手に決めるな! 残された方の気持ちを少しは考えろよ!」
「……」
「お前がいなくなって、せいせいする奴もいるかもしれない……けどな、少なくとも俺は寂しい。お前がいなくなったら、俺が寂しいんだよ!」
その言葉は、理屈でも義理でもなく、ただの剥き出しの感情だった。
そして「残された方」という言葉を聞き、壱斎は腫れ上がった頬を熱く濡らした。
* * *
養生所での手当てを終え、重い足取りで二人が自室に戻ると、そこには信正がただ静かに一人座っていた。
腫れ上がった頬をさする兵介と、視線を床に落としたままの壱斉。
二人の帰宅に気づいても、信正は立ち上がろうともしない。
その顔には、これまで兵介を叱り飛ばしていたときのような激しい怒りはなかった。
ただ、初めて出会ったあの日のような、他者を寄せ付けない氷のように冷たい無機質な表情が、陽の光に照らされて浮かび上がっている。
「……信正、お前、どこに行ってたんだよ。昨日から……」
兵介がおずおずと声をかけるが、信正は答えず、ゆっくりと視線を上げた。
その冷徹な眼差しに、兵介は思わず息を呑む。
「城に上がっていた。若年寄の次男を殴った件の釈明、そして沙汰を最小限に留めるための調整だ」
信正の声は低く、ひどく疲れ切っていた。
兵介はまだ数日しか経綸館に通っていないが、ほんの少し武家社会で生きただけでもその陰湿さは身に沁みている。
家老の次男である信正にとって、家格の近い相手との不祥事を収めるために、どれほど頭を下げ、屈辱に耐えてきたかは想像に難くない。
「……ごめんって、信正。お前にそんなことまで……」
「謝罪など求めていない。だが、兵介。お前はまた騒動を起こしたそうだな。それも、相手は藩の重臣……壱斉の父親、その人だ」
信正が立ち上がる。その静かな動きが、かえって兵介を萎縮させた。
「家からは、お目付けという役を十分に果たせていないと厳しい叱責が届いている。藩の秩序を乱し、家同士の均衡を危うくし、周囲にどれほどの泥を塗りたくれば気が済むのだ」
「何だよ……! だってほら、壱斉がこんなに殴られたんだぞ! 他でもない父親が、壱斉のことを人殺しだって言ったんだ。それを見過ごせっていうのかよ!」
兵介も叫び返した。自分の頬の痛みよりも、壱斉が受けた罵倒と絶望が許せなかった。
だが、信正は激昂することなく、冷たく言い放つ。
「見過ごすべきだったのだ。それが武士の家だ。親子の問題に、他家が、それも身分の定まらぬお前が首を突っ込むなど、あってはならぬ無分別。お前が飛び込めば、事態は悪化する。現に、壱斉の立場は余計に悪くなったはずだ」
「そんなの理屈だろ! お前、壱斉の友達じゃねぇのかよ。家の事情なんて言ってられるかよ! 武士道ってのは、弱い奴を助けるもんじゃねぇのか!」
「いい加減にしろ、この愚か者が!」
ついに信正の怒りが爆発した。信正は兵介の胸ぐらを掴み、壁際まで押しやる。
「お前の言う正義は、その場の自己満足に過ぎない! その結果、誰が頭を下げ、誰が責任を取り、誰の首が飛ぶか、一度でも考えたことがあるのか! 秩序を、家を、藩を守るための規律を軽んじて、何が武士だ。それはただの野良犬の暴れ方だ!」
「野良犬で結構! 目の前の命を見捨てるのが武士の道理なら、俺はそんなもん一生理解したくねぇ!」
兵介の瞳に、譲れない意地が灯る。
対する信正の瞳には、重責に縛られた男の悲痛な怒りが宿っていた。
「……信正、お前今ひどい顔してるよ。壱斉も。ここにいるやつら、みんなひでぇ顔だ。俺は、そうはなりたくねぇ」
一歩も引かぬ二人の間で、火花が散るような沈黙が続く。
部屋の入口、影に隠れるように立ち尽くす壱斉は、ただその光景を、痛々しく腫れた顔で眺めることしかできなかった。




