生贄
「フェザー、此処で合ってる?」
「ええ、此処で間違いない」
地下を抜け、フェザーが用意していた馬に乗ってから一時間も経たず、湖があるという丘に到着した。此処へ来るまでの間、フェザーは無言だった。俯いたかと思えば時折顔を上げてリトラを見る。何かを言いかけてまた俯く。その繰り返しだった。その様子にはリトラも気が付いてはいたが、無理に聞くよりも向こうから切り出すのを待った方が良さそうだと知らない振りをした。そうしているうちに、目的地に到着したのだった。
そこは街の西、街道を外れて平原を進んだ先、何もない丘の上。そこには湖はおろか水溜まり一つない。地下の悪党が想像していたように、実は周囲に仲間が潜んでいて、などということもなかった。夜も更けて辺りに人気はない。たとえ日中であってもわざわざ此処に足を運ぶ者はいないだろう。寂しい場所だ。
「あの、フェザーさん?」
「待って、もうすぐだから」
空を見上げてフェザーが言った。雲間から覗いた月の明かりが二人の立つ丘の上に降りる。すると、丘が一度大きく脈を打った。
「今のは一体……ん?」
見れば、自分達が立っている場所のほんの少し先で、何か透明な、非常に重い何かが地面に沈み込んだ。水面に水が一滴落ちたかのように、地面にその波紋を広げている。そうかと思うと、落ち窪んだ底から水が湧き上がる。それはたちまち湖と呼べるほどの広さと深さを持った水たまりになり、その水面には見事な古城が映っていた。
「想像してたよりもずっと綺麗だ。それで、友達はこの中にいるのか? にしても、どうやって中に……」
「静かに。そろそろ出てくる」
「えっ、何が? 城主でも出てくんの?」
「そうよ」
フェザーの表情は真剣というよりも強張っている。その様子からして、彼女にとって好ましくない〈何か〉が現れるのは間違いなさそうだった。
「おぉ、すげえ」
水面から大きな水玉が一つ浮かび上がった。それは熱した硝子のように形を変えていく。水玉はやがて人の姿を形作り、そこから妖しく微笑む女の顔を、足元にまで伸びた髪を、大きく胸元の開けた着物を作り出した。まるで細部に至るまで作り込まれた彫刻。さならがら、水の彫刻だった。
「随分、時間がかかったわね」
現れたのは己の美と豊満な肉体を誇示する妖艶な女だった。フェザーとは異なり、人を惑わす危険な色香を纏っている。女の声は湖に浮かぶ彫刻からではなく、湖の底から響いてくるようだった。水によって形作られた体は、月明かりを受けて透けている。
「てっきり、見捨てて逃げたのかと思ったわ」
「馬鹿を言わないで。あの子は無事?」
「ええ、もちろんよ」
怒りを堪えているフェザーを見て、女は薄く笑っている。その笑顔は、人を騙すのに長けている者の笑顔だった。
「だったら会わせて、今すぐに」
「それだと順序が逆でしょう?」
フェザーは俯き、ぐっと奥歯を噛み締めた。
「それで? 生贄はその子一人だけ?」
「えっ、生贄だったの?」
リトラはフェザーを見たが、彼女は俯いたまま答えない。一方、湖から現れた妖しい女は首を傾げ、リトラの瞳を覗き込むようにして眺めている。
「何だか生意気そうな子ね」
「よく言われます。で、生贄って?」
「……ふぅん、強がってるわけじゃあなさそうね」
妖艶な女は縦長の瞳孔を向けて、リトラを興味深そうに見つめた。この瞳に見つめられて怖れを抱かない人間はいなかった。だと言うのに、この生贄は視線を真正面から受け止めている。女にはそれが不愉快であり、興味深くもあった。女は眼球の僅かな動きさえも見逃さず、リトラの心を読もうとする。しかし、そこにはやはり怖れや動揺は微塵も見られず、何を考えているかも分からない。それどころか、逆に此方の心を覗き込まれているような心地がした。やがては女の方から視線を外し、俯いたままのフェザーに視線を向けた。
「その女にね、大事なお友達を助けたければ人間の生贄を用意しろと言ったのよ。それが、貴方」
「ご親切にどうも。それにしても、あんたは非道い奴だな。女の子を二人も泣かせるなんて」
「私はロベリアよ」
あんたと呼ばれたのが気に入らなかったのか、ロベリアは大きく舌打ちをして名乗った。
「へえ、意地悪そうなあんたにはぴったりの名前だね」
「やっぱり生意気。貴方が今夜どんな声で鳴くのか、今から楽しみだわ」
「夜泣きはとっくに卒業してるよ」
「口の減らない子ね。その舌を抜いてしまおうかしら。貴方なら舌の一枚くらい平気でしょ?」
「嫌だよ、これが最後の一枚なんだから。それより、フェザーのお友達が無事なのか確かめさせてくれないか?」
突然の申し出に、二人は同時にリトラを見た。ロベリアは怪訝そうに、フェザーは驚いた表情のまま固まっている。
「それが貴方にとって何になるのかしら?」
「だって、せっかく生贄になるんだぜ? 助かる人の顔くらい知っておきたいだろ? 恩を着せてあげたいのさ」
「まだ子供なのに現実を受け入れるのが早いのね。口数が多いのは気に入らないけど、素直なのはよいことだわ。いいでしょう」
ロベリアが指先から一滴の水を垂らす。それが水面に吸い込まれると、どこかの映像が浮かび上がった。最初は不鮮明であったが、それは徐々に鮮明になっていく。すると、冷たく暗い牢が、次に、その片隅で眠る子供の姿が見えた。菫色の髪をした、まだ幼い娘だ。彼女はその小さな体を抱き締めるように眠っている。




