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リトラと夜の幻想曲  作者: 本居 素直
第一章 湖上の花園
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湖上の花園


 時を同じくして、サルカラは馬を走らせていた。つい先ほど、フェザーが甲高い音を後に引いて突然現れたかと思うと、目を白黒させる彼にロベリアを預け、何の説明もなく丘に向けて飛び去ってしまった。その後まもなく、あの紅い光が奔り、丘を覆っていた馬鹿デカい山椒魚のような化け物が消失したのだった。サルカラは終わったのだと確信し、プリムラとロベリアを乗せ、丘に向かって馬を走らせた。


「終わったのね」


 項で切り揃えられた黒髪を風に靡かせながら、ロベリアは瞼を閉じ、安堵を滲ませた声色で呟いた。うなじで揃った後ろ髪、その反面、前髪は胸に垂れる程に長い。その不揃いな髪型は彼女の妖しい魅力と相まって、異様な艶美さを際立たせている。


 一方、彼女を背後に乗せているサルカラは、その妖しい美貌と生来の冷たい声色に、あまり生きた心地はしなかった。先の戦いを見ていたこともあり、今は落ち着いているとはいえ、ロベリアの黒髪が巻き付いて来ないかが不安だった。


「プリムラはまだ起きないの?」


「あ、ああ、どうも続けて無理をしたらしい。この通り、まだ小さい子だ。泣いていたと思ったら、気を失うみたいに眠っちまったよ。それまでは、あんたを助けるって聞かなかったんだ」


「……そう」


 ロベリアは悲しげに笑って眼を細めたが、その表情はサルカラからは見えない。


「ロベリア、丘に着いてもう一度フェザーとやり合うなんてことはよしてくれよ?」


「そんなことしないわよ。戦う力、私のすべてはもうどこにもない。何もかも、なくなったのよ」


 疲れ果てた声には確かな安堵が滲んでいる。ふと空を見上げると、未だ夜が支配している。随分と長い夜だと、ロベリアは薄く笑った。すると、


「……ロベリア?」


「お、おい、危ないぞ」


「ロベリア!」


 話し声に目覚めたプリムラは身を捩り、サルカラの肩口から背後にいるロベリアを見た。


「そのまま寝ていれば良かったのに。まったく、涎を垂らして汚いわね」


 ロベリアは着物の袖でプリムラの口元を拭ってやると、その菫色の髪に触れてそっと撫でた。プリムラは驚いて目を見開き、彼女の顔を今一度見た。


 穏やかな笑みを浮かべるロベリアの顔には、これまで彼女を突き動かしていた〈何か〉の影はない。顔に張り付いていた嘲笑も、憎しみを放つ暗い眼光もすっかり消え去っている。プリムラは手を伸ばし、ロベリアの頬に触れた。その青白い、現実を離れた白い肌に、プリムラは確かな温もりを感じて、目尻に涙を浮かべて笑った。


「ねえ、ロベリア?」


「何かしら?」


「生きてる?」


「……ええ、生きてるわ」


 ロベリアもまた、同じように笑った。サルカラには何が何だか分からないが、何故か、二人の声を聞いていると涙が零れそうだった。


「あぁっ!?」


 釣られて涙ぐむサルカラだったが、ケフェウスが二人の重さに耐えきれずに手離したのを見て、素っ頓狂な声を上げる。ロベリアは何事かと彼の肩越しに視線を追った。すると、フェザーを抱き抱えたリトラが墜落しているところだった。


「フェザーが重そうね。食べ過ぎるからよ」


「どうしたの?」


 ロベリアと向かい合うプリムラに、その光景はまだ見えていない。あれは見せない方が良いと、サルカラは左腕で強く抱いた。


「く、くるしい」


「へえ、意識が無くても残るのね、あの翼」


「なにを悠長なことを!」


「顔が近い、五月蝿い、黙りなさい」


「ス、スマン、いやっ、しかし!」


「どうせ死なないわよ、ほら」


 ロベリアが指を差すと、今に鈍く嫌な衝突音を響かせるはずの場所から高い水しぶきが上がった。打ち上がった水玉に月明かりが反射して、水面に小さな星々を散らしている。


「綺麗ね。出来れば近くで見たかったわ」


「そ、そうだった、あそこには湖があった。いや、本来はなかったんだが……」


「安心しているようだけど、早く行かないと二人とも溺れ死ぬわよ?」


「嫌味なほど冷静だな!」


 サルカラが脚で合図を送ると、馬は速度を上げて走り出した。この時点で丘の半ばは過ぎており、頂上は近い。サルカラの馬は重量を感じさせない速さで駆け、丘の上に到着した。サルカラとプリムラが即座に馬を飛び降り、湖の際に駆け寄る。湖には未だ大きく波が立ち、そこかしこに気泡が湧いている。すると、プリムラを見つけたケフェウスが上空から降りて来た。


「プリムラ、大丈夫かい!?」


「私は平気! それより二人は?」


「辺りをぐるっと回ったけど、上からだとよく見えないんだ。波も凄いし」


 プリムラとケフェウスは、二人が崩壊した神殿に落下していたらと想像して顔を蒼くしたが、水底を覗き込むとどうやら神殿はないようだった。ほっと息を吐くが、やはり二人の姿は見えない。こんな時にも波立つ水面は月明かりをきらきらと投げ返す。視界に輝く美しさが今は目障りだった。


 するとそのとき、ロベリアが今頃になって馬を降りてきた。彼女は水際に膝をつくと着物の袖を捲り、水面にそっと指先を触れた。


「やっぱり、混ざっていたのね……」


 ロベリアが指先で水面をかき回す。三人はそれに一体何の意味があるのかと見ていたが、突如として湖の底で水が逆巻き、水底に溜まる石や土、草と共に、白金の翼を持つ美女と、彼女を抱き締める青年を岸に打ち上げた。二人は水際から土の上に這い出すと、酷く咳き込んで酸素をむさぼった。


「月夜に入水なんて、貴方って夢想家なのね」


「悪いけど、もう少しだけ、現実に浸らせてくれ……」


 仰向けになったまま夢中で呼吸をするリトラを見下ろして、彼女は笑った。


「フェザー!」


「プリムラっ!」


 プリムラは首に手を回してフェザーに抱き着き、涙に肩を震わせた。フェザーもまた、翠の瞳から涙を零している。その傍にはケフェウスも付き添っており、サルカラも二人の様子にほっと安堵の表情を浮かべて微笑んだ。そんな中、こちらには見向きもしないケフェウスに「薄情者め……」と呟くリトラを、ロベリアが抱き起こす。


「ねえ、貴方は誰なの? どこから来たの?」


「あ、ええと、そんな一度に聞かれてもなあ。それに、何て説明したら良いのかな……」


 と、リトラはロベリアの背後で抱き合う二人を見て視線を戻し、今一度彼女の瞳を見つめた。それは澄んだ蒼玉(サファイア)の瞳、慈愛の情を持った、生命を愛する者の放つ輝きだった。その輝きを見つめて、リトラもまた瞳を輝かせた。


「うん、綺麗だね。君によく似合ってる。あっ、そうだ、欲しかった物は手に入ったかい?」


「質問を質問で返さないで頂戴……でも、そうね、〈それ〉とは別に、新しい名前が欲しいわ。悪意(ロベリア)なんて、私にはもう必要ないから」


 そう言って、彼女は名付け親になる男の言葉を待った。リトラは彼女の腕の中から身を起こすと、迷うことなく名を告げる。


「フリージア」


 まるで最初から用意していたかのように、彼はその花の名を呼んだ。親愛の情、友情。それは全てのロベリアが羨望し、焦がれたものを冠する花。蒼玉(サファイア)の瞳を持つ香雪蘭(フリージア)


「……フリージア、とてもいい響きね。大事にするわ、いつまでも」


 彼女は温かに脈打つ胸に手を当てると、僅かに頬を染めて微笑んだ。するとそのとき、背後からやって来た二人が彼女を挟んで、一人は抱き着き、一人はぎこちなく笑って、その肩にぽんと手を置いた。


「フリージア、良い名前じゃないか。それに、三人とも〈フ〉だ」


「でも、私だけ〈プ〉だよ? フリムラにしようかな……」


「いいじゃないの別に。貴方、変なところにこだわるのね」


 彼女たちは三人で一つ。誰か一人でも欠ければ、彼女たち(伝説)は成り立たない。フリージアは肩に置かれた手に自身の手を重ね、フェザーに微笑みを返す。その様子にプリムラは顔をぱっと輝かせ、疲れなどなかったかのように飛び跳ねて喜んだ。ケフェウスは頬に翼を当てて涙を拭い、サルカラは顔を背け、気付かれぬようにそっと目尻を拭っている。


 だがそこて、サルカラは何か重大な事を思い出し、はっとして顔を上げると、竜頭が崩れ去った場所で輝く〈なにか〉に向かって全力で走り出した。その様子にケフェウスとプリムラは首を傾げたが、フェザーは苦笑いをしている。その時だった。


「待ちなさい。まだ答えを聞いていないわ」


 三人の邪魔をしてはいけないと、こっそりとその場を離れようとするリトラだったが、フリージアはその手を握って離さなかった。名前以外には何も知らない、まだ少年のような彼を、彼女は少しでも多く知りたかった。何より、名付け親となった者のことを何一つ知らないのが我慢ならなかったのだろう。


 彼が今まで何をしていて、これから何処へ行くのか。好きな物、嫌いな物。彼女は何もかもを知りたかった。一方のリトラはどう答えたものかと困り果てた顔をしていたが、何か閃いたのか「俺が何者か、それはね……」と、人懐っこい笑顔を浮かべて答えた。


「今夜、伝説を盗んだ男さ」


 彼はいたずらっぽく笑って、それ以上を語らなかった。彼女の方は呆れたように笑って、それ以上は問わなかった。何故なら今の彼女には、それ以上に重要なことがあったからだ。


「リトラ、あなたの顔をよく見せて。もっと近くで……この夜が私から消えないように」


 彼女は彼の頬に触れて顔を寄せると、自身に新たな名(生命)を与えた者の姿を永遠のものとして、その瞳に焼き付けたのだった。


 彼女を彼女たらしめていたもの(伝説)。それらすべては、リトラとケフェウスが奪い取った。彼女、いや、彼女たちは、伝説ではない場所に存在している。この現実に、確かに生きている。




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