後編
事の発端は、一班のトリアージ基準が「数字稼ぎ」のために変更された直後にまで遡る。
丁度その頃、都内に住む一人の若い女性から警察の生活安全課を経由して一班へと切実な相談が寄せられていた。SNS上で悪質なストーカー被害に遭っているという内容だった。
最初は見知らぬアカウントから卑猥で不気味なダイレクトメッセージが送られてくる程度だった。女性は恐れながらも相手をブロックし、自衛を図っていた。だが、見えないストーカーの執念は異常だった。相手は次々と新しいアカウントを作成してはしつこく付きまとい、ついには女性が何気なくアップした風景写真のわずかな手がかりから彼女の自宅アパートの住所を特定するに至ったのだ。
郵便受けを荒らされた形跡や、深夜にドアノブを回される音。明らかな身の危険を感じた女性は、すがるような思いで警察に被害を訴え出た。
本来であれば、ただちに『高』のフォルダに入れられ最優先で捜査員が動くべき事案だ。しかし一班はその時、上層部からの検挙数至上主義の圧力に屈した直後だった。ストーカーを特定するためには、SNSの運営会社やプロバイダに対する通信記録の情報開示請求など、煩雑な手続きと膨大な時間がかかる。
あと数週間相談に来るタイミングが早ければ、間違いなく一班は全力を挙げて彼女を守っただろう。だがトリアージの基準が『手間のかかる事件は後回し』に変更された後では、彼女の悲鳴は『低』のフォルダへと沈められ、実質的に放置されてしまったのだ。
その結果、最悪の悲劇が起きた。時間経過と共にストーカーは大胆になり、ついに女性の部屋に押し入った。そして、凄惨な強姦の末に彼女の命を奪ったのだ。
愛する娘を理不尽に奪われた遺族は激怒した。警察が被害届を軽視し、迅速な対応を怠った不作為こそがこの悲劇を招いたのだと。遺族はただちに弁護団を結成し、警視庁の責任を追及する国家賠償請求訴訟へと踏み切ったのである。
事件の顛末を署内で聞かされた橋本は震える手でスマートフォンを操作し、亡くなった女性のSNSアカウントを覗いた。画面をスクロールするごとに、橋本の胸は鋭い刃物でえぐられるように痛んだ。そこには最初は気丈に振る舞っていた女性が、次第に恐怖に蝕まれ、一向に動いてくれない警察への焦燥と苛立ちを募らせていく過程が生々しく書き連ねられていた。
そして、途切れた更新の最後の投稿にはたった一言、諦めきったような言葉が残されていた。
『警察は、助けてくれない』
(そんな……私は……そんなつもりじゃ……!)
橋本はトイレの個室に駆け込み、便器にしがみついて激しく嘔吐した。胃液しか出なくなっても、吐き気は治まらなかった。性犯罪捜査課への配属を希望したあの日の純粋な決意。二班での、ただの数字稼ぎに対する強烈な違和感と嫌悪。一班での殺人的な激務。そして、組織を守るために数字に重きを置いた結果、見殺しにしてしまった一つの命……。
自分たちが『トリアージ』と称して目を背けた結果が、この血塗られた悲劇なのだ。様々な出来事と重圧が限界を超えて積み重なり、橋本の心は音を立てて崩れ落ちた。
数日後、異常な緊張感が張り詰める中、性犯罪捜査課の全署員が大会議室に招集された。一班も二班も関係ない。皆一様に顔面を蒼白にしている。
「……上層部より、当課に活動停止命令が下った」
壇上に立った課長は、血の気のない顔でそう絞り出すと、無言で壁掛けテレビの電源を入れた。画面に映し出されたのは、昼の情報ニュース番組の特集コーナーだった。
『――このように、世間の要望を受けて鳴り物入りで設立された性犯罪捜査課ですが、その実態は、法に触れているのかすら疑問が残るようなアニメチックなイラストを描いた小市民を脅し、自白を強要して点数を稼いでいたことが当番組の取材を通して判明しました。……臼井さん、この警察の暴走とも言える実態を、どう思われますか?』
画面の中でキャスターに意見を求められたのは、元キャリア警察官で、現在は犯罪ジャーナリストとして辛口のコメントで知られる臼井という男性だった。
『私が警察にいた頃にはなかった部署ですが、当時のツテで現場の警察官から話を聞くと、内部でも疑問の声があふれていたようですね。VTRにもあった通り、性犯罪捜査課は実犯罪を追う一班と、ネット上の創作物を監視する二班に分かれています。問題は、警察の予算や人員といった多くのリソースの振り分けが単純な『検挙数』だけで評価されてしまう構造にあります。結果として手軽に件数を稼げる二班に人員が偏り、本当に血を流している被害者がいる一班はおざなりになっていた。被害者救済を最優先すべき組織が、数字だけを見て二班を優遇する姿勢は、警察の根幹を揺るがす異常事態だと言わざるを得ません』
続いて画面に映ったのは、赤井という女性コメンテーターだ。彼女は現在弁護士として活動しているが、元々は辣腕の検事――いわゆる『ヤメ検』だった。
『元同僚の検事たちにも確認しましたが、実は二班から送致されてくる事案というのはほとんど存在しないそうです。つまり、彼らは裁判に耐えうる証拠を集めるのではなく『厳重注意処分で済ませてやる』とちらつかせて自白を要求し、書類送検を行わない形で事件を処理している可能性が極めて高い。ターゲットにされているのは、趣味でイラストを描いているような、警察に対して強く出られない立場の人ばかりです。そうやって水増しした検挙数で組織を維持してきたのでしょう。逆に、一班が扱う強姦などの凶悪事件は確実に検察に送られてきており、検察内部では一班の存在感が大きい一方で、二班の存在意義そのものを疑問視する雰囲気が強かったと聞いております』
『ありがとうございます。今回の凄惨なストーカー殺人事件を受けまして、『創作物を取り締まる暇があるなら、現実の被害者を守れ』という世論が沸騰しており――』
そこでブツンと、課長がテレビの電源を切った。真っ暗になった画面に、茫然自失とする刑事たちの顔が反射していた。
「見てもらった通りだ。警察の姿勢に対する批判の声は、日に日に高まっている。近々、創作物取り締まりの廃止と警察の責任追及を訴える大規模なデモが警視庁本部前で計画されているという情報もある」
課長は疲労しきった声で告げた。
「上層部は、もはや我々『性犯罪捜査課』という組織をかばいきれないと判断した。そして本日をもって、性犯罪捜査課のすべての活動を停止する判断に至った。事態が沈静化するまで、君たちは基本的に自宅待機、実質的な休職扱いとなる。また、一班が現在抱えている未解決の重要案件は、すべて捜査一課が引き継ぐことになった。我々の出る幕は、もうない。……以上、解散」
***
休職期間中、橋本は薄暗い自室のベッドに横たわり、終わりのない自問自答の日々を送っていた。
私は、何のために警察官になったのか。親友を救えなかった悔しさを晴らすためではなかったのか。それなのに、私は一人の女性を見殺しにした共犯者になってしまった。
暗い水底に沈んでいくような感覚の中、ふいにスマートフォンが震えた。
「松原さん……? はい、橋本です」
『橋本か。久しぶりだな。元気にしてたか?』
電話の主は、二班時代に橋本の教育係だった松原だった。相変わらずの飄々とした口調だが、どこか焦燥感が混じっている。
「ええ……。最近は、嫌というほど休めていますよ」
『違いない。まあ、聞いてくれよ。僕達が今まで『効率がいい』ってパクってきた連中がさ、一斉に集団訴訟を起こしやがったんだ』 「えっ?」
『例のストーカー事件の訴訟とテレビの報道をきっかけに、僕達のやり口が世間に完全にバレたからな。しかもあいつら、ネットの住民だから同族の連帯が異常に強いんだよ。おまけに以前から創作規制に反対していた弁護士連中が、無償で大規模な弁護団を組織しやがった。そのせいで昨日、裁判所から証拠保全命令が出てな。今、署に裁判所から派遣された連中が乗り込んできて、二班のサーバーから捜査資料を根こそぎ押収してる真っ最中だ。僕はその対応で急遽出勤させられてる。もう、てんやわんやでさぁ……』
電話の奥から、怒号や物が落ちる騒がしい音が聞こえてくる。二班が築き上げてきた虚構の城が、音を立てて崩れ去っていく音だった。
『僕がいる間にこんなことになるなんて、本当、ツイてねえな……』
悪態をつきながらも、松原はふっと息をつき、口調を和らげた。
『まあ、一班の凄惨な事情を知ってしまった橋本さんにも、色々と思うところはあるだろう。あの時、君が一班に行ったのは正解だったのかもしれないな。……でも、自分を責めすぎるなよ。組織の歯車だった僕たちに、どうにかできる問題じゃなかったんだから』
「……はい。ありがとうございます……」
『言いたいことはそれだけだ。じゃあな』
松原は出世欲にまみれており、刑事としての姿勢には大いに問題があったが、組織の中での処世術を知り尽くした、どこか憎めない先輩だった。異動した元後輩が塞ぎ込んでいるであろうことを察しわざわざ連絡を寄越すくらいには、面倒見の良さを持っていたのだ。
通話が切れ、再び静寂が部屋に満ちる。
だが、その静寂を破るように、またすぐに着信音が鳴った。今度は、登録されていない知らない番号からだ。
「……もしもし」
『突然のお電話、失礼いたします。警視庁性犯罪捜査課、一班所属の橋本皆子様でお間違いありませんね?』
電話の向こうから聞こえてきたのは、冷徹なまでに理知的な、中年女性の声だった。
『私、今回のストーカー強姦殺人事件におきまして、警察の対応不足の責任を追及する国家賠償請求訴訟で原告側――つまり、亡くなられた被害者ご遺族の弁護団に所属しております、近藤と申します』
「……っ!」
橋本は息を呑み、思わずスマホを握る手に力が入った。
『単刀直入に申し上げます。今回行われる裁判において、私たちは警察内部の証言者を必要としています。一班が抱えていた異常な業務量、そして上層部からの検挙数至上主義の圧力によって優先順位の基準が歪められ、結果として被害者のSOSが放置されたという事実。それらについて橋本様に、一班の現場刑事として、性犯罪捜査課の組織の腐敗した状況を法廷で証言していただきたくご連絡致しました』
「ええと……それは……」
橋本の心臓が早鐘のように鳴った。裁判で警察内部の恥部を晒す証言台に立つということは、警察組織に対する明確な反逆行為だ。守秘義務違反を問われ、懲戒免職になる可能性も高い。警察官としてのキャリアは完全に終わるだろう。
だが、彼女が躊躇した最大の理由は保身ではなかった。自分は組織の論理に従い、あの被害者を見捨てた側の人間なのだ。そんな卑怯者が、どの面を下げて『被害者遺族側』の証言台に立てるというのか。
『様々なご懸念があることは理解しております。内部告発となれば、警察組織からの激しい報復もあるでしょう。ですが、もし証言内容に関して警察側から情報漏洩の疑いがかけられたり、不当な処分が下された場合、こちらも弁護士のネットワークを最大限活用し、橋本様の身分と生活を徹底的に守るようフォロー致します。不利益にならないよう、弁護団として最大限の努力をお約束します』
「……そうですか。ですが……私には……」
『すぐにお返事をいただけるような軽いお願いをしているとは、思っておりません。裁判の段取りを考慮しますと、ご決断までに二週間の猶予がございます。それまでに、ご自身の良心に従ってご決断いただければと存じます』
良いお返事を期待しております。そう静かに言い残し、近藤弁護士は電話を切った。
***
それからの数日間、橋本は地獄のような苦しみの中で悩み続けた。
食事も喉を通らず、眠ることもできない。自分が証言したところで、亡くなった女性が帰ってくるわけではない。だが、このまま口をつぐんでいれば、警察は組織の論理で事実を隠蔽し、また同じように見殺しにされる被害者が生まれるだろう。
答えの出ない迷路を彷徨っていたある夜、橋本のスマホに一本の電話がかかってきた。
画面に表示された名前に、橋本は弾かれたように通話ボタンを押した。
『皆子? 久しぶり。元気――なわけないか』
「……三香?」
電話の相手は、高校時代の親友であり、橋本が警察官を目指す最大の理由となった女性――新井三香だった。
『ニュース、ずっと見てるよ。性犯罪捜査課のこと、なんか大変なことになってるみたいだけど……皆子、大丈夫?』
三香の変わらない優しい声を聞いた瞬間、橋本の中で張り詰めていた糸がふつりと切れた。
橋本は、堰を切ったようにすべてを打ち明けた。性犯罪捜査課が活動停止中であること。自分が休職の身であること。トリアージという名の命の選別に加担してしまったこと。
そして――遺族側の弁護士から、警察を告発する証言台に立って欲しいと要請を受けていること。
「私、どうしたらいいかわからない……。あの子を見殺しにした私が、正義ヅラして証言台に立つ資格なんて、あるわけないじゃない……!」
嗚咽を漏らす橋本の話を、三香は黙って最後まで聞いていた。やがて彼女は静かに、しかし凛とした声で口を開いた。
『なるほどね。……でも皆子、その証言の話は、これからの警察のあり方を決める『分水嶺』になると思う』
「分水嶺……?」
『そうよ。今まで通り、数字稼ぎのために被害者がいない架空の犯罪にリソースを割き続けるのか。それとも、血を流している本当の被害者に真摯に向き合える組織に生まれ変わるのか。いくら警察組織でも、法廷での裁判長からの指摘や内部告発は無視できない。今の世論のうねりがあれば、必ず重く受け止めるはずよ』
「でも、私にはそんな大層な資格……」
その時、三香の声が一段と強くなった。
『いい? 過去の過ちは消せない。でも、これは今のあなたにしか出来ないことなの。ここで皆子が保身のために躊躇したら、警察の腐った体質は変わらないまま。私や、今回亡くなった女性のような被害者が、これからも生み出され続けるかもしれない。……でも、皆子が勇気を出して真実を語れば、これから傷つくかもしれない人たちを、一人でも多く救えるはずよ』
新井三香は、本質的に鋼のような精神を持つ女性だった。高校時代、凄惨な性被害を受けた当初は心を閉ざし、治療にかかりきりだった。だが、彼女は長い時間をかけてトラウマを克服すると、本来持っていた芯の強さを存分に発揮し始めた。
同年代からは数年遅れてしまったが、彼女は現在、大学の心理学部で学んでいる。性犯罪被害者のケアだけでなく、加害者側の心理の深淵を探り犯罪の根源的な要因を社会から取り除こうという、あまりにも過酷で険しい道を選んだのだ。
自分の最も触れられたくない、おぞましい過去の傷口を直視し続けなければならない道。それでも三香は、未来の誰かのために、加害と被害のメカニズムを解き明かす道を選んだ。
そんな親友の底知れない強さと崇高な姿勢に、橋本は常に敬意を抱いていた。だからこそ、その三香から放たれた言葉は、迷いの中にいた橋本の胸の最も深い場所に、真っ直ぐに突き刺さったのだ。
頬を伝う涙を拭い、橋本は窓の外を見た。夜明け前の、深く青い空が広がっていた。
「……そうね。わかった。私、証言台に立つよ。逃げずに、全部話す。……背中を押してくれて、ありがとう三香」
『私は、私が信じる皆子の姿を言っただけよ。……法廷、頑張ってね。ずっと応援してるから』
通話が切れた。
橋本は一つ深呼吸をすると、スマホのアドレス帳を開き、数日前に登録したばかりの近藤弁護士の番号をタップした。
発信音が、静かな部屋に力強く響き始めた。




