終編
「――以上で、私の証言を終わります」
水を打ったように静まり返る法廷に、橋本皆子の凛とした声が響き渡った。 原告側の証人として証言台に立った橋本は、まっすぐに前を見据えていた。傍聴席を埋め尽くす記者たち、厳しい視線を送る裁判官、そして亡くなった女性の遺族。彼らの前で、橋本は一班の凄惨な勤務実態と、警察組織の硬直した思考をすべて暴露した。
毎日滝のように舞い込んでくる凶悪な性犯罪の被害届に対し、一班の実働部隊はわずか十数名しかいなかったこと。その絶望的な業務量を捌くため、『トリアージ』という名で命に優先順位を付けていたこと。当初は身体や生命に直接的な危険が及ぶ、緊急性が高い案件を最優先にしていたこと。しかし、上層部からの『検挙数を稼げ』という圧力により、手っ取り早く逮捕できる痴漢や盗撮へ人員を割く方針転換を余儀なくされたこと。
そして――その歪んだ方針転換が行われた時期が、亡くなった女性がストーカー被害の相談に訪れた、まさにその直前であったこと。
橋本の証言は報道によって広く知られていたが、現職の警察官、しかも性犯罪捜査課一班の班員が正式な法廷で証言した瞬間、報道内容は真実であったと人々は再認識させられ、傍聴席からはどよめきと怒りを含んだため息が漏れた。
橋本の主尋問が終わると、休廷を挟んで被告側――すなわち警察側の代理人弁護士からの反対尋問に入った。
原告側の近藤弁護士とのやり取りは事前の打ち合わせ通りだったが、問題は被告側の質問だ。警察組織のメンツを守るため、彼らは橋本の証言の信憑性を徹底的に貶めようと、執拗で陰湿な質問を繰り返した。
特に橋本の精神を激しく揺さぶったのは、初老の被告側代理人が眼鏡の奥から冷たい視線を向けて放った、次の一言だった。
「橋本さん。あなたは先程から、担当していた事件に『優先順位を付けていた』と証言されていますが……そもそも、警察官が市民の被害に優先順位を付けるという行為そのものが、言語道断の間違いではないですか? 警察たるもの、すべての事件を等しく、迅速に解決すべきでしょう。それを怠ったあなた方現場の怠慢を、組織の方針転換のせいにしているだけではありませんか?」
その言葉は、橋本が何ヶ月も自分自身を責め続けてきた、最も痛い部分を抉るものだった。
証言台の縁を握りしめる橋本の手が、白くうっ血する。だが、彼女は俯かなかった。親友の三香に背中を押され、すべてを背負うと決めたのだ。
橋本は顔を上げ、マイクを通して法廷全体に響くよう、声を荒げて答えた。
「出来るなら……! 出来ることなら、そうしたかったですよ!!」
その悲痛な叫びに、法廷の空気がビリリと震えた。
「私だけじゃない。班長も、他の班員も、誰一人として被害者の命に優先順位なんて付けたくなかった!! でも、付けないと組織が……いや、現場の人間が過労で倒れて死んでもおかしくない状況だったんです! 私たちは、とっくの昔にパンク寸前だったんです!!」
現場の刑事の魂からの叫び。それを『ヒステリックな言い逃れ』として処理しようと被告側代理人が口を開きかけた瞬間、原告席の近藤弁護士がすっと立ち上がった。
「裁判長。ただいまの証言を裏付ける、決定的な証拠を提出いたします」
近藤弁護士は手元のファイルを高く掲げた。
「こちらは、証人である橋本皆子さんの過去数ヶ月間の勤怠記録、および署内への入退館記録のデータです。ご覧の通り、一ヶ月の残業時間は過労死ラインを遥かに超え、明らかに労働基準法に違反する過酷な勤務実態が記録されております。また、匿名のルートから他の一班班員の方々の勤務記録も入手しておりますが、全員が例外なく、家に帰ることもできない異常な勤務を行っていました」
近藤弁護士の理知的な声が、被告側を追い詰めていく。
「この客観的データは、『性犯罪捜査課一班の所属人員が、寄せられる事件数に対して明らかに不足していた』という原告側の主張を、何よりも雄弁に物語っています。現場の怠慢などでは断じてありません。必要なリソースを現場に割り振らず、無謀な精神論と数字のプレッシャーで現場を壊した、警察組織そのものの構造的な欠陥です」
モニターに映し出された常軌を逸した勤怠データを見た瞬間、被告席に座る警察幹部たちは驚愕に目を見開き、一言も言葉を発することができなくなった。
***
あの日、運命を分けた裁判から一ヶ月が経過した。今日は活動停止中だった性犯罪捜査課の署員が全員招集され、今後の組織のあり方について最終的な通達が行われる日だった。橋本は久しぶりに警視庁の玄関をくぐった。
「……お久しぶりです、篠原さん。少し、顔色が良くなりましたね」
「フッ、お互い様だろ。お前も、あのクマがすっかり消えてるじゃないか」
オフィスで久しぶりに顔を合わせた篠原は、トレードマークだった目の下のどす黒い隈が薄れ、野獣のような鋭い眼光の奥に、本来の落ち着きを取り戻しつつあった。
「裁判では大暴れだったそうじゃないか。お前の証言、ニュースで穴が開くほど見たぞ」
「いえ……私は、あそこで自分が出来る事をやったまでです」
あの裁判は、日本社会に凄まじいインパクトを残すことになった。
結果から言えば、原告側の完全勝訴であった。判決の主文では、警察が実犯罪捜査に関わる人材や予算といったリソースを適切に割り振らず、被害者の安全確保を怠った事が明確に認められた。
さらに決定打となったのは、近藤弁護士の鮮やかな論証だった。彼女は警察庁自身が発表した性犯罪の統計データを引用し、表現規制が施行される前後の数字を比較した。結果は、実犯罪がまったく減っていないどころか、微増すらしているという残酷な実態だった。
これを受け裁判長は、『二班の行っていた創作物への取り締まり活動は、現実の性犯罪抑止にほとんど効果を上げていない』と事実上認定。さらに踏み込んで、『過度な表現の規制は、憲法が保障する『表現の自由』に抵触する恐れが極めて強い』と判決文に異例の言及を付け加えたのだ。
警察組織は責任を認めることを極度に嫌うため、形式的に上告するだろうと見られている。だが、原告側の証拠と論理が盤石であるのに対し、被告側の反論は破綻しており、二審以降も結果が覆る可能性は限りなくゼロに近いと推測されていた。
そして何より世間の耳目を集めたのは、法廷で橋本の殺人的な勤務記録が提示された瞬間だった。
証拠モニターを見た警察側の弁護士や幹部たちが、鳩が豆鉄砲を食ったように目を剥き、口をパクパクさせて言葉を失う滑稽な姿。その様子は法廷画家によって克明に描かれ、その日の夕方のニュースで全国に大々的に報じられた。
『警察上層部は、部下の過労死寸前の実態すら把握していなかったのか』『無能なトップが現場の刑事を殺し、被害者を見殺しにした』。世論の激しい怒りが巻き起こり、一班の過酷な勤務実態は、警察組織の腐敗の象徴として全国民の心に深く刻み込まれたのである。
「そういえば、途中で捜査一課の知り合いとすれ違って少し話したんだが、あいつら、めちゃくちゃ驚いてたぞ。あの凶悪事件の山を、あの少人数で回していたのかって。一班の連中は頭のネジが飛んでるんじゃないか、ってな」
「ああ……やっぱり、他の部署の人から見てもそういう評価になるんですね」
「まあ、狂ってたのは俺たちの頭じゃなくて、組織の方だったんだがな。……それと、二班が抱えているもう一つの裁判だが、かなり旗色が悪いらしい。敗訴は確実だろうな」
二班が抱えている裁判――すなわち、法的な根拠も曖昧なまま、言いがかりのような取り調べでイラストレーターや漫画家を検挙していたことに対する、クリエイター側からの集団訴訟だ。
そもそも客観的に見て『わいせつ』とは言い難い表現を恣意的に取り締まっていたことに加え、橋本が出廷した遺族側の裁判の判決が致命傷となっていた。『創作規制は現実の性犯罪抑止に関与しない』、『違憲の疑いがある』と別の裁判長に明言されてしまった以上、二班の存在意義そのものが根底から崩れ去ったのだ。逆転勝訴など夢のまた夢であった。
「橋本。突然だが……俺は昔、学生時代に卒論で江戸時代の法律について調べたことがある。その中で知った歴史が、今回のうちの組織の失態とひどくダブるんだ」
「江戸時代の法律……ですか?」
「ああ。江戸時代にはな、男女の『心中』が流行して、深刻な社会問題になった時期があるんだ。幕府はそれを止めようと躍起になって、色々な対策を打った。その中の一つが、『表現規制』だった」
篠原は息をフッと吐き出し、天井を見上げた。
「浄瑠璃や歌舞伎、草紙なんかで、心中を美化するようなテーマの作品を一切禁止したんだ。今の二班がやってたことと同じだな。だが、後世の歴史学者が当時の資料から統計を調べた結果……心中が減るどころか、むしろ件数は上昇したらしい。幕府の記録に残らない、低い身分の人の心中も含めれば、実態はさらに多かったはずだ」
「それって……近藤弁護士が法廷で突きつけた、現在の性犯罪の統計データと全く同じですね……」
つまり、表現を規制し、物語を封じ込めても、現実の心中の抑止には何の影響も与えなかったのだ。
橋本の中に、一つの大きな疑問が浮かんだ。
「昔の幕府も、現代の政府も、どうしてそこまでして『表現規制』に走りたがるんでしょうか? そんな、現実の効果がないものにすがるなんて……」
「もちろん、過去の歴史的事実から学んでいないという無知もあるだろう。だが一番の理由は、手軽に『安心感』を演出できるからだろうな」
篠原は手元の缶コーヒーを一口飲み、静かにテーブルへ置いた。
「事実はともかく、『過激な創作物が犯罪を助長するのではないか』というフワッとした『イメージ』は、いつの時代も一般大衆の中に広くある。政治家はその不安を煽り、目立つ創作物を叩き潰してみせることで『我々はちゃんと仕事をして、社会の風紀を守っていますよ』という『安心してる感じ』を世間にアピールできる。数字も稼げる。だが、それは根本的な解決にはならない、実態のない幻覚に過ぎない。現実の犯罪から目を背けさせる、依存性の高い麻薬と同じなんだよ。……表現規制ってやつはな」
苦い真実を噛み締めていると、館内放送で集合のチャイムが鳴った。二人は足並みを揃え、大会議室へと向かった。
会議室での課長の口から告げられた結論は、性犯罪捜査課の『無期限活動停止』――事実上の解体だった。
現在、警察組織は性犯罪捜査課の活動に起因する二つの大型裁判を抱えており、最高裁まで争う泥沼の長期戦が見込まれている。その間、社会からの信用が地に落ちた『性犯罪捜査課』という看板を掲げたままで捜査を続けることは、被害者や市民からの情報提供の面でも大きな支障をきたすからだ。
実犯罪の捜査については、今後すべて捜査一課が引き継ぐことになった。そこに、旧性犯罪捜査課を中心とした人員の大半を異動させる。捜査一課の潤沢なリソースと合流することで、裁判で指弾されたような『人員不足による捜査の遅れ』を二度と起こさない体制を構築するためだ。
一方、二班が行っていたネット上の創作物の取り締まりについては、全面的な『廃止』が宣言された。裁判で憲法違反の疑いにまで言及された以上、現場で検挙することは不可能に近い。仮に強引に送検したとしても、違憲の指摘を受けた法律を根拠に検察が起訴に踏み切ることはあり得ないからだ。国会で正式に審議され法律そのものが撤廃されるのはまだ先の話だが、現場の運用としては完全に『死んだ法律』となったのである。
この決定が下された瞬間、会議室は二つの感情に二分された。
一班の刑事たちは、命を削る激務からの解放と、もう二度と『命の優先順位』を付けなくて済むという安堵に、人目も憚らず涙を流した。対照的に、二班の刑事たちは、安全なオフィスからネットを監視するだけの『楽で美味しい検挙』がもう二度とできない現実を突きつけられ、深く重い絶望のため息を吐き出していた。
***
それから三週間後。
橋本皆子は、刑事になる前に勤務していた都内の交番ので勤務していた。真新しい地域警察官の制服に身を包み、道案内や落とし物の対応をこなす彼女の表情は、一班にいた頃の悲壮感はなく、どこか晴れやかだった。
「久しぶりだな、橋本」
交番のガラス戸を開けて入ってきたのは、スーツ姿の篠原だった。
「篠原さん! お疲れ様です」
「ああ。制服姿も、なかなか堂に入ってるじゃないか」
「そもそも、刑事になる前は交番勤務でしたから。捜査一課での仕事は順調そうですね。少し安心しました」
「人数とバックアップの規模が段違いだからな。おかげで一つの事件にじっくり向き合える。……ああ、あの松原の野郎も、毎日靴をすり減らす地道な裏取り捜査に『コスパが悪い』ってぶつくさ文句を言っているが、案外へこたれずによくやってるぜ」
あれで根性が据わればすぐに出世できるんだがな、と篠原は笑い飛ばした。
「ところで、お前の人事のことは聞いたぜ。捜査一課への合流を蹴って、自分から交番勤務を志望したんだってな。水臭いじゃないか、理由を聞いてなかったぞ」
橋本は法廷で警察組織の暗部を告発し、致命的な証言を行った。通常であれば報復人事や閑職への左遷は免れない。しかし、彼女の職場の身分と評価は完全に守られていた。近藤弁護士が自らの広範な法曹ネットワークを駆使し、連名で警視庁上層部に対し、『証人への不当な処分はさらなる訴訟を招く』と強烈な圧力をかけてくれていたからだ。
だから、橋本が希望さえすれば、捜査一課のエリート刑事として引き続き性犯罪の捜査の最前線に立つことも十分に可能だったのだ。だが、彼女は自らその道を辞退し、地域警察官への出戻りを希望した。
「……性犯罪捜査課での仕事を通して、改めて思ったんです」
橋本は、腰に提げた警棒と手錠の重みを感じながら、ゆっくりと口を開いた。
「私はどこか驕っていました。親友の復讐心を原動力にして、自分一人で、世の中のすべての性被害者を救ってやるんだって。でも……私一人の手が届く範囲には、どうしたって限界がある。それを思い知らされました」
橋本の脳裏に、あのストーカー事件で亡くなった女性の写真と、親友・三香の凛とした声が交差する。
「だから、私は一からやり直すことにしたんです。大きな組織の論理に振り回される前に、まずは自分の目の前にある、この地域の人たちの平穏な日常を犯罪から守る。地に足をつけて、手は届く範囲の命を、今度こそ確実に守り抜く。……そう決意して、交番勤務を志願しました」
「……そういうことか」
篠原は目を細め、かつての部下の成長を頼もしそうに見つめた。
「お前が自分で答えを出したのなら、俺がとやかく言うことは何もない。立派な地域のお巡りさんになることだな」
フッ、と笑みをこぼすと、篠原は刑事の顔に戻り、話題を変えた。
「実を言うと、今日は陣中見舞いだけに来たわけじゃないんだ。この管轄の近くにある大型スポーツクラブで、巧妙な盗撮が行われているという有力な情報が入った。今から俺たち一課の人間で内偵に入るんだが、地域事情に明るく、顔が割れていない交番の応援も仰ぎたい。――頼めるか、橋本巡査長?」
その言葉に、橋本の背筋がピンと伸びた。
もう、誰かを切り捨てるトリアージの必要はない。目の前の悪意に向かって、全力で立ち向かうことができるのだ。
「はいっ! 直ちに向かいます!」
橋本は制服の制帽を深く被り直すと、篠原と共に、初夏の眩しい陽光が降り注ぐ街へと力強く駆け出していった。




