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『クリック一つで逮捕』はもういい。私は私の足で、あの日救えなかった涙を追い越したい  作者: 四葦二鳥


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中編

 二班の整然としたオフィスとは打って変わり、一班の執務室はまるで野戦病院のような有様だった。

 無造作に積み上げられた書類の山、ホワイトボードに隙間なく書き込まれた事件の概要、そして部屋全体に染み付いた、安物の缶コーヒーと埃、それに数日間風呂に入っていない人間の体臭が混ざったような重苦しい空気。


 その混沌の真ん中で、橋本皆子は声を張った。


「今日付で一班に配属になりました、橋本皆子です。よろしくお願いします!」

「……君か。二班のぬるま湯からわざわざ異動届を出してきたっていう物好きは。一班班長の篠原泰宏だ」


 書類の山から顔を上げたのは、ワイシャツの袖をまくり上げた四十代の男だった。篠原泰宏、四十二歳。階級は警部補。性犯罪捜査課一班を率いる班長である。

 その顔には無精髭が伸び、目の下にはどす黒い隈がべったりと張り付いている。明らかに極限まで疲労困憊しているはずなのに、彼が放つ眼光だけは、獲物を狙う鷹のように鋭かった。


「挨拶もそこそこに早速だが、まずは一班の『現実』とやり方を知ってもらう。ここへ来て、これを見てくれ」


 篠原は椅子を軋ませて身を乗り出すと、自身のパソコンのディスプレイを橋本に向けた。画面には、被害届の電子データを管理している共有フォルダが表示されていた。

 橋本が目を凝らすと、そのフォルダはさらに『仕分け前』『高』『低』『済み』という4つのサブフォルダに分類されているのがわかった。


「『済み』は解決済みの案件、あるいは送検済みの事案ですよね? ですが、他の3つは一体……?」

「知っての通り、一班は常に慢性的な人員不足だ。毎日毎日、都内の交番や各署の生活安全課から次々と上げられてくる性犯罪の被害届を、我々の人員で全て処理するのは物理的に不可能だ。だから不本意だが……一班では事件に『優先順位』を付けている。『高』と『低』はそれぞれ優先順位の度合いを表し、『仕分け前』はその名の通り、まだ目を通していない被害届の山だ」


 淡々と告げられたその言葉に、橋本は頭を鈍器で殴られたようなショックを受けた。人員不足で激務であることは、二班の松原からも聞いていたし、自分なりに覚悟してきたつもりだった。しかし、警察官たるもの、寄せられた被害届には等しく迅速に対応し、被害者の無念を晴らさなければならないはずだ。

 それなのに、捜査機関自らが『事件に順番をつける』という行為を常態化させている事実に、橋本の理想は早くも打ち砕かれそうになっていた。


「この優先順位付けの作業を、我が班では『トリアージ』と呼んでいる。大事故の現場なんかで使われる、緊急医療用語から取ったんだ」

「トリアージ……命の選別、ですか。……あの、優先順位付けの具体的な基準は何なのでしょうか?」

「『身体や生命に関わる、緊急性が高い事件』の優先度を『高』にしている。強姦致傷、集団レイプ、拉致監禁を伴うもの、あるいは悪質なストーカー事件なんかがそうだ。一歩間違えれば、被害者が死ぬ。だから最優先で当たる」


 篠原はそこで言葉を区切り、手元のマグカップから冷え切ったコーヒーを流し込んだ。


「逆に、路上での盗撮や、電車内の痴漢なんかは優先度が『低』になる。理由は明白で、直接的に身体や命への危害が及んでいないからだ。……本当は、こんな線引きはやりたくないんだよ」


 篠原の分厚い手が、デスクの上の書類を強く握りしめた。


「身体に直接の危害が無くたって、被害者は深く心を病み、男の人を見るだけで震えるようになる子もいる。日々の当たり前の暮らしが、平和ではなくなる。全ての犯人を今すぐ捕まえてやりたい。だがな、無い袖は振れないのも事実だ。我々が痴漢を一人捕まえている間に、ストーカーに刺し殺される命があるかもしれない。だから、我々は泣く泣く事件を切り捨てているんだ」


 ふう、と深く、肺の底から絞り出すようなため息をつくと、篠原は班長としての顔に戻り命令を下した。


「さっきも言った通り、我が班は猫の手も借りたいほど人が足りない。新人研修なんかやっている暇はないから、すぐに現場へ出てもらう。これから君の端末に事件の資料をメールで送る。早速、捜査に取りかかってくれ」

「……っ、了解しました!」


 橋本は敬礼し、割り当てられた自分のデスクへと向かった。その背中には、早くも一班という部署が背負う十字架の重みがのしかかっていた。


***


 それから三ヶ月が過ぎた。

 橋本にとって一班での最初の一ヶ月は、目が回るほど忙しいながらも、確かな充実感に満ちた毎日だった。

 二班にいた時のように、ネット上のイラストに難癖をつけて小市民を脅すような虚業ではない。目の前には実際に傷つき、震えている被害者がいて、彼女たちのために証拠を集め、犯人を追い詰めて手錠をかける。世のため、人のために自分の人生を使っているという実感が、橋本の心を熱く保たせていた。被害者から「ありがとうございます」と泣きながら手を握られた時、彼女は一班への異動が間違いではなかったと確信した。


 だが、二ヶ月を過ぎた頃から、その充実感は次第に黒い泥のような疲労感へと変わっていった。

 一班の刑事一人が一ヶ月に解決できる事件は、どれほど不眠不休で働いても数件程度が限界だ。対して、新たな被害届は毎日滝のように流れ込んでくる。完了した事件の報告書を書き上げる前に、新たな事件のファイルがいつの間にかフォルダ内に増えている。気がつけば、橋本自身も数十件の事件を抱え込み、同時並行で捜査を進めなければならない異常な状態に陥っていた。


 もう何週間も、まともに自宅のベッドで眠っていない。署の仮眠室は常に満員で、デスクの下に敷いた寝袋で数時間の仮眠を取るのが日常になっていた。食事はコンビニのおにぎりとエナジードリンクのみ。民間企業であれば、労働基準監督署が即座に踏み込んでくるような狂気の労働環境だ。それが許されているのは、ここが『警察』という法の執行機関であり、治安維持という大義名分の下で職員の犠牲が見て見ぬ振りをされているからに他ならなかった。


 身体の疲労以上に橋本を蝕んだのは、精神的な摩耗だった。

 担当事件の被害者から「まだ犯人は捕まらないんですか」「怖くて外を歩けません」という悲痛な電話がかかってくるたび、橋本は「現在、全力で捜査中です」というマニュアル通りの返答を繰り返さざるを得なかった。本当は手が回っていない。あなたの事件は『低』のフォルダで眠っている。そんな残酷な真実を口にできるわけもなく、橋本は少しずつ自分の心を殺していくしかなかった。


 そんな限界ギリギリの状況で綱渡りを続けていた一班に、ある日、決定的な事件が起こった。


「全員、手を止めて聞いてくれ。……本日をもって、トリアージの基準を変更する」


 篠原班長から班員たちへ向けて、重苦しい声でそう宣言された。


「昨日、課長から直々に通達があった。一班は検挙数が少なすぎる、と。このまま数字が上がらない状態が続くようなら、来期以降の人員増強は白紙撤回し、おまけに一班への予算も大幅に削減する……そう言われたそうだ」


 その言葉が落ちた瞬間、疲弊しきっていた班員たちの間に激しい怒りの火が点いた。

 

「横暴です! ふざけるな!」

「そもそも一班の検挙数が少なく、捜査が遅々として進まないのは、人が足りていないからじゃないですか! 順序が逆だ!」

「強姦や強制わいせつの裏取りに、どれだけの時間と労力がかかると思ってるんだ! 二班のネットのお遊びとは訳が違うんだぞ!」


 口々に異議を唱える部下たちを、篠原は力なく制した。


「わかっている。君たちの言う通りだ。もちろん、その現場の事情は課長もよくわかっているし、上層部にも説明してくれたそうだ。だがな……上の連中は『数字』しか見ない。それは、君たちも長年警察にいて、薄々気付いているだろう」


 橋本は唇を噛み締めた。警視庁という巨大な組織において、人員や予算の割り振りを決定する最大の指標は『検挙数』だ。検挙数が多ければ、その部署は『活発に活動し、社会に貢献している』と評価され、より多くの人員と潤沢な予算が割り振られる。逆に検挙数が少なければ、『リソースを投下する価値がない、事案が少ない部署』とみなされ、人員も予算も容赦なく削られる。二班の人数が多く、最新の機材を与えられているのはそれが理由だ。彼らはネット上の住民を脅して調書を量産し、荒稼ぎした『数字』で組織内での地位を確立しているのだ。


 だが上層部の人間たちは、なぜ検挙数に多寡が生まれるのかという理由にまで踏み込んで考えようとはしない。殺人や強姦の立件にどれほどの血と汗が流れているかなど、彼らのエクセルの表には現れないのだ。中には実態に気付いている幹部もいるだろうが、蔓延る前例主義と事勿れ主義のせいで、評価基準を変えようとする者は誰もいない。

 結局の所、警察も極端な成果主義に毒された巨大なお役所に過ぎないのだ。


「いいか、冷静に聞いてくれ。これ以上予算を削られ、ただでさえ足りない人員を他部署に引き抜かれでもしたら、我が一班は完全に捜査能力を喪失し、二度と活動ができなくなる。班の解散だ。それは結果的に、凶悪な性犯罪を野放しにし、未来の被害者に最大の不利益をもたらすことになる」


 篠原の声が、微かに震えていた。


「それを回避するためには、我々が生き残るためには……一時的にトリアージの優先順位を逆転させ、『逮捕しやすい事案』に集中して数字を稼ぐしかない。本末転倒なのは百も承知だ。刑事としての誇りが傷つくのも痛いほどわかる。だが、今は耐えてくれ。どうか、協力してほしい。頼む」


 歴戦の猛者である篠原が、班員たちの前で深々と頭を下げた。

 床に額が擦れんばかりのその姿を見て、それ以上異議を唱えられる班員は一人も居なかった。重く、冷たい沈黙だけが一班の執務室を支配した。


 その日から、一班の捜査方針は百八十度転換した。  これまでの『命の危険が高い事件』は後回しにされ、犯人の特定や逮捕が容易な事件に人員が集中投下されるようになった。具体的には、犯行現場が固定されている駅での痴漢や、行動パターンの特定が容易な商業施設での盗撮といった、張り込んでいれば比較的すぐに現行犯逮捕できるような事件が中心だ。


 橋本もまた、睡眠不足の目を擦りながら、そういった簡易な事件の捜査に従事した。

 狙い通り、一班の検挙数は飛躍的に伸びた。これまでの約一・五倍のペースで数字が積み上がり、上層部からの圧力は嘘のように鳴りを潜めた。


 だが、張り込み先で手錠をかけるたび、橋本の心にはどす黒い自己嫌悪が広がっていった。

 検挙数を稼ぎ、組織を存続させるために現場に出ている。しかしそれは裏を返せば、今まで必死に追跡していた、今この瞬間も命の危機に怯え、身体を震わせている凶悪犯罪の被害者たちを見殺しにしているという事実と同義だった。


(私は、何をやっているの……?)


 駅の雑踏の中で、痴漢の被疑者を連行しながら、橋本はふと足を止めた。あの二班の松原が言っていた『狩り場』という言葉が、頭の中でリフレインする。点数を稼ぐためにやりやすい獲物を狙い、他の被害者の事はないがしろにする。

 結局、自分が今一班でやっていることも、二班で軽蔑していた『数字稼ぎ』と何一つ変わらないのではないか。苦しんでいる人を助けたくて、親友の無念を晴らしたくて一班に来たはずなのに、今の私は保身のため身体や命の危機に瀕した被害者に背を向けている。


(本当に、これでいいのかな……。私たちは、これで正義を名乗れるのかな……?)


 そんな漠然とした、しかし確かな絶望と不安を抱えながら、橋本は歯を食いしばって日々の業務をこなしていた。

 だが、その歪んだ均衡は長くは続かなかった。


 ある日突然、警視庁全体、いや日本中を根底から揺るがすような大事件が起きてしまった。


 警察が、訴えられたのだ。

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