前編
警視庁性犯罪捜査課。
急増する性犯罪に対し、より専門的かつ迅速な対処を求める世論の後押しを受け、捜査一課から独立する形で設立された性犯罪特化型の部署である。
その張り詰めた空気の漂うオフィスに、一人の新風が吹き込んだ。
「本日付で配属されました、橋本皆子です。よろしくお願いします」
橋本皆子、二十八歳。階級は巡査長。警察学校を卒業後、数年間の交番勤務で市民と向き合ってきたが、強い志を抱いて異動届を出し続け、ようやくこの性犯罪捜査課への着任を勝ち取ったのだ。彼女の緊張をほぐす間もなく、課長がデスクの間を抜けて歩み寄る。
「橋本君は二班の配属だ。松原君、しばらく彼女のサポートについてやってくれ」
「了解しました、課長」
返答したのは、松原忠志、三十六歳。若手ながらこの課の立ち上げから関わっている刑事だ。
紹介が終わるやいなや、室内は再びキーボードを叩く音と電話の応対の声に包まれた。橋本は松原に促され、窓際にある自分のデスクへと向かった。
「改めてよろしく、橋本さん。まあ、そんなに肩肘張らなくていいよ。ここは一課ほど泥臭い現場ばかりじゃないからね」
「橋本皆子です。松原さん、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします」
「はは、挨拶は百点満点だ。ところで、二班の主な任務については予習してきたかな?」
性犯罪捜査課には、大きく分けて二つの班が存在する。
「はい。一班が強姦や強制わいせつといった、具体的な被害者が存在する『実犯罪』を追うのに対し、二班は主にインターネット上を監視し、未成年への性犯罪を助長する有害コンテンツの取り締まりを行うと認識しています」
「その通り。よく勉強しているね」
数年前の法改正により、たとえ創作物であっても未成年のわいせつな姿を描いたイラスト、マンガ、アニメ、ゲームなどは、性犯罪を誘発する恐れがあるとして厳格に違法化された。二班はいわば、ネットの海を網でさらって『毒』を回収する掃除屋だった。
「捜査の進め方はマニュアルにまとめてある。まずは一週間、君の感性でネットを巡回してみてくれ。違法と思わしきものをピックアップするくらいはできるだろう? 来週、その成果を答え合わせしようじゃないか」
「はいっ、精一杯頑張ります」
橋本は希望に満ちた瞳で頷き、支給されたPCのモニターに向かった。
***
配属から一週間。橋本は寝る間も惜しんでSNSや投稿サイトを巡回した。 膨大なデータの中から、明らかに法に抵触していると思われるイラストや、過激な描写を含むマンガを描いているアカウントを十数件リストアップし、自信を持って松原に提出した。
だが、資料に目を通した松原の口から漏れたのは、ため息だった。
「あー……これは全部、検挙できないなぁ」
「えっ……? どうしてですか?」
橋本は困惑し、その場で固まった。彼女が選んだのは、幼い容姿の少女が露出度の高い格好をさせられ、中には性器を連想させる描写すらある、誰が見てもアウトな作品ばかりだ。 松原は椅子をくるりと回し、諭すように説明を始めた。
「橋本さんが目星を付けたこの辺のアカウント、調べてごらんよ。全員、大手出版社や有名なゲーム会社と太いパイプがあるプロだ」
「それは調べました。ですが、プロなら何を書いても許されるというわけでは……」
「法的にはそうだが、現実は別だ。こういう連中を検挙してみろ、企業の法務部や腕利きの弁護士が束になって飛んでくる。そうなったら最後、裁判は泥沼化する」
松原は冷めた目で資料の山を指先で弾いた。
「この法律はね、施行当初から表現の自由との兼ね合いで批判が多いんだ。もし強力な弁護士に最高裁まで持ち込まれて、万が一にでも違憲判決なんて出されたらどうなる? 法律そのものが死んで、僕たちの存在意義も消える。それは組織として絶対に避けなきゃならない」
「……では、私たちは何のために?」
「検挙すべきは、こういう相手だよ」
松原が橋本のデスクに置いたのは、別の資料だった。そこに描かれていたのは、アニメ調の柔らかなタッチで描かれた少女のイラストだ。
しかし、少女は首元まで詰まった上品なドレスを着ており、露出らしい露出はない。背景の装飾こそ豪華だが、わいせつとは程遠い。
「……あの、これのどこがわいせつ物だと? どこをどう見ても、ただの少女画ですが」
「画風がアニメチックだろ。それだけで十分だ。それっぽくこじつければ、いくらでも理由は作れる」
絶句する橋本をよそに、松原は平然と続ける。
「最大のポイントはここだ。この投稿者は、フォロワーも少ないし後ろ盾もない。ただ趣味で描いているだけの小市民だ。僕たち警察が少し圧力をかければ、まともに反論もできずに折れる。効率がいいんだよ」
「そんな……それは捜査ではなく、単なる……」
「弱者いじめか? まあ、そう言うな。これからこいつの取り調べがある。見学室から見ていなよ。僕の言っている意味が、肌で理解できるはずだ」
***
取調室を隔てるマジックミラー。見学室側からは、冷たい蛍光灯の下で項垂れる青年の姿がはっきりと見えた。松原は、まるで世間話でもするかのような軽い足取りで室内に入り、青年の対面に座った。
「刑事さん、俺の絵のどこがわいせつだって言うんですか? わいせつな部分は書かれてないし、むしろ露出度はほとんどゼロ。しかもドレスは幅広で、ボディラインもほとんど出ていないじゃないですか!」
「そうだね、確かに君の絵は綺麗だ。ところで君、このイラストを『カワイイ』と思って描いたんだろう?」
「……ええ、そうです。僕は、可愛いものが好きなんです。それを表現したかっただけです」
「そこだよ。いいか、現代の解釈では『カワイイ』は性的な執着の裏返し、つまり『エロ』なんだ」
青年の口が、驚愕で開いたまま塞がらなくなった。あまりの論理の飛躍に、橋本もミラー越しに拳を握りしめる。
「そんな暴論があるか! 法律のどこにそんなことが書いてあるんだ!」
「法律を作るのは人間だが、運用するのも人間だ。君はこのイラストを見て、世の中の男性が誰一人として性的興奮を覚えないと、神に誓って断言できるのかね?」
「それは……そんなの、誰の心の中なんてわからないですよ……」
真面目そうな青年は、言葉に詰まった。性癖は千差万別であり、何に興奮するかは個人の自由だ。その事実を知っている誠実さゆえに、彼は松原の詭弁を否定しきれなかった。
松原は獲物を追い詰めた猟犬のような目で、一気に畳みかける。
「いいかい、君がここで意地を張って裁判に持ち込むのは自由だ。だが弁護士費用はいくらかかる? 仕事はどうする? 親兄弟に『未成年のわいせつ画像を描いて逮捕された』と知られても、君の生活は守られるのかな? 趣味の絵のために、人生を棒に振る価値があると思うかい?」
「う……っ……」
「今、ここで不適切な描写があったと認めて反省文を書くなら、厳重注意処分で済ませてやる。検察に書類を送ることもない。今すぐ家に帰れる。どうだ、お得な話だろう?」
沈黙が部屋を支配した。やがて、青年は震える手で調書にペンを走らせた。
取り調べを終え、廊下に出てきた松原は、爽やかな笑顔ですらあった。
「見たかい? これがコスパとタイパを両立した『現代の捜査』だ。検挙実績は爆上がり、相手も深手を負わずに済む。誰も損をしていないだろ?」
「……本当に、これでいいと思っているんですか。もし、いつか誰かが本気で戦ってきたら……」
「その時は100%負けるだろうな。法律そのものがひっくり返るよ」
松原は、事もなげに言い放った。
「でもな、裁判にはならない。あいつらはロクに活躍しても無いのに職人みたいな気質をいっちょ前に持っているせいで、法律に疎い。ちょっとこっちが脅したり譲歩するように見せかけとけば簡単に自白するのさ。それに裁判所も検察も、余計な仕事は増やしたくない。最高裁まで行く体力のある奴さえ相手にしなければ、僕たちの聖域は安泰なんだよ」
***
それから一ヶ月。橋本の毎日は、ネット上の『叩きやすい獲物』を探し、屁理屈を並べて自白を迫る松原の補助に明け暮れた。実績は積み上がっていくが、心の中の空洞は広がる一方だった。自分のバッジが、ただの数字稼ぎの道具に成り下がっているように思えてならなかった。
ついに、彼女は決断した。
「松原さん。私、一班への異動を願い出ようと思います」
「ぶっ……!?」
お茶を飲んでいた松原が、派手な音を立ててむせた。
「……本気か、橋本さん。一班の連中の顔を見たことあるか? 万年人手不足で目は血走ってるし、一件の立件に何ヶ月もかけて現場を這いずり回ってるんだぞ。二班にいれば楽に出世コースに乗れるっていうのに」
「わかっています。それでも、私はあっちに行きたいんです」
松原は呆れたように頭を振り、椅子の背もたれに体を預けた。
「理解に苦しむな。二班は最高の『狩り場』だ。ここで点数を稼いで、さっさと上の階級に行けばいいじゃないか。警察なんて、結局は数字がすべてなんだぞ」
「違います!」
橋本の凛とした声が、喧騒としたオフィスを一瞬だけ静まり返らせた。
「私は……高校生の頃、親友が性犯罪の被害に遭ったんです。泣き寝入りするしかなかった彼女を、何もできずに見ていただけだった……。だから、今度こそ傷ついている人を直接助けたくて、警察官になったんです!」
松原は、初めて橋本の顔を正面から見た。
「ここで趣味の絵にいちゃもんをつけて、数字を稼ぐ毎日が、彼女たちを守ることに繋がっているとは到底思えません。私……こんな仕事を続けるのは、彼女への裏切りだと思ってしまうんです」
重苦しい沈黙の後、松原はふっと息を吐き、視線を窓の外へ逸らした。
「……そうか。君にそんな重いバックボーンがあったなんて、知らなかったよ。無神経なことを言って悪かったな」
「松原さん……」
「覚悟が決まってるんなら、もう止めないさ。だが、一班は本当に地獄だぞ。つらくなったら、いつでも戻ってこい。班長には、僕から上手く言っておいてやるから」
「……ありがとうございます。松原さんには、その……色々と、お世話になりました」
松原忠志という男は、組織の論理に染まりきった冷血漢のようでありながら、後輩への面倒見だけは不思議と良かった。その複雑な優しさだけは本物だったと、橋本は感じていた。
三週間後、橋本皆子は私物を段ボールに詰め、一班の過酷な戦場へと足を踏み入れた。その背中に、二班の安穏とした空気はもう、微塵も残っていなかった。




