あの2人の馴れ初め④(サイドストーリー)
ミオリはここのところずっと、悶々と頭を悩ませていた。
サトルと付き合い始めて半年弱が経過し、季節はすでに夏に差し掛かっていた。交際自体は、すこぶる順調だった。歳の差がある上にミオリにとっては初めての恋人であり、付き合い始めた当初は不安しかなかったが、逆に圧倒的な大人の余裕で、これまで常にサトルがミオリをリードしてくれた。
しかし、このまま受け身でい続けていていいのか?サトルの優しさを受け取るだけの一方向の関係では、いつか飽きられてしまうのでは…。それに、サトルの言葉の端々に、これまでの豊富な女性経験が垣間見えた。サトルにとって、ミオリもいつかその1つになってしまうのではないか。サトルの好意を疑う訳ではなかったが、不安だった。
もう1つ、懸念事項があった。サトルは今だに、まるで腫れ物を扱うかのように慎重に、言い換えると淡白に、ミオリに触れた。もちろん、何もかもが初体験だったミオリの事を気遣ってくれているのだと分かっている。初めて抱かれた時は、それはそれは丁寧で優しく、決して無理をさせないようにと気を回してくれた。毎回、避妊もきっちり怠らない。毎回と言っても、片手で数えて余りある回数だったが。
…でも、サトルだって男だ。本当は、頻度とか、内容とか、いろいろ不満を溜めているんじゃないか。というか正直なところ、ミオリ自身が物足りなかった。ただその事を伝える方法が、恋愛初心者のミオリには見当もつかなかった。
「…ミオリ?あんた、具合でも悪いの?」
はっ、と顔を挙げると、母親のカオルが心配そうに顔を覗き込んでいた。今日は、実家に帰ってきていたのだった。
「さっきから、なんかずっとぼーっとしてるけど…」
「あ…、ちがうの!今度ユキのところに遊びに行くから、サチちゃんに何お土産持ってこうかなぁって考えてただけ!」
「あら!いいなぁ、お母さんもサチちゃんに会いたいわ。ユキちゃんも、元気かしらねぇ。」
「!!だめだめ、今度のは、私とユキの女子会なのっ!お母さんは、来ちゃダメだからね!!」
「誰も行くなんて言ってないじゃないの、分かってるわよぉ。ユキちゃんに、よろしく伝えてね。」
そうなのだ。来週久しぶりに、ユキに会う。
祝言以来、ユキとはしょっちゅう電話やメッセージでやり取りはしていたが、なんだかんだとお互いの都合が合わず、直接会うのは久しぶりだった。
ミオリは、サトルとの事を、今だに誰にも話せていなかった。今度ユキと会った時に、まず1番にユキに直接報告しよう、と心に決めていたのだった。
「そう。ユキちゃん、びっくりするだろうなぁ。」
今度ユキにサトルの事を話してもいい?とミオリが尋ねたところ、サトルは2つ返事で承諾した。
「ユキもそうだけど…タケルもびっくりするよね、きっと…」
「それね。あー、タケルの驚く顔、見たかったなぁ。あいつ、めったな事ではびっくりしないからさ。超貴重。」
ふふ、とミオリが笑う、
「ユキに会うの、久しぶりだから楽しみ。タケルにも結婚式以来会ってないけど、元気かな?サトルさん、仕事でよく会うんでしょ?」
「あー、あいつ元気だよ。何て言うのかな、憑き物が落ちたみたいに、雰囲気が柔らかくなった。たぶん新婚生活が、楽しくて仕方ないんだろ。」
いいなぁ、とサトルがぽつりと呟いたのを、ミオリは聞き逃さなかった。
「……サトルさんって、結婚したい、とか思う事あるの?」
ミオリにとってはかなり勇気のいる問いだったが、なるべく軽い感じで尋ねた。
「そーだなぁ…。もともとは、ほら俺ってマトモな家庭環境じゃなかったからさ、自分が結婚するとか、あんまりピンと来てなかったかも。でもタケル見てると、羨ましいなーと思うようになったよ。それに、ミオリとなら幸せな家庭、作れそうだし。」
涼しい顔でさらりとのたまうサトルに、ミオリは顔を赤らめる。
サトルはいつも飄々としていて、本音が掴めない。口ではそう言っていても、果たして本心なのか…ミオリには自信がなかった。
ピンポーン、とインターホンを鳴らすと、すぐにユキがドアを開けてくれた。
「いらっしゃい、ミオリ。久しぶりだね。」
気のせいか、出迎えてくれたユキの顔色が少し青白く見えた。
「久しぶり、ユキ。…もしかして、体調悪い?今日、来ちゃって大丈夫だった?」
「大丈夫大丈夫。今日会えるの、ずっと楽しみにしてたんだから。」
「おーちゃん、いらしゃいー」
ユキの後ろから、サチがトコトコと走り寄ってくる。
「サチちゃん!大きくなったねぇー。もう2歳か。」
はいこれ、お土産!と言って、サチに塗り絵セットを手渡すと、サチは歓声を上げた。
サチが塗り絵に夢中になっている側で、2人でリビングのテーブルに向かい合って座る。冷たい麦茶を飲みながら、おしゃべりに花を咲かせる。ミオリは、サトルの事をいつ打ち明けようか、そわそわしながらタイミングを見計らっていた。しかしいざ話そうとすると、緊張してなかなか話を切り出せない。
ふと会話が途切れて、ユキが黙り込んだのに気づいたミオリが顔を上げると、ユキは真っ青な顔で、吐き気をこらえているかのように手で口を押さえていた。
「…ユキ!?どうしたの、気持ち悪いの!?」
慌ててミオリが立ち上がって、ユキの背中をさする。
「ご、めん…。大丈夫、だから。…」
「嘘。絶対大丈夫じゃないでしょ…!やっぱり、体調悪かったの?」
ユキが首を振る。
「ちがうの…あのね、実は………悪阻なの。」
一瞬の間。
「つわ、り?」
こくん、とユキが頷く。
「え…じゃあ、…タケルの、赤ちゃん?」
ユキがまた、頷く。
「ほんとに、まだ初期で……黙っていて、ごめん。」
じわじわと、時間差で嬉しさが込み上げてくる。
ミオリはユキの手を握った。
「おめでとう…!!本当に、本当に、おめでとう…っ」
ミオリは涙ぐみながら、何度もおめでとうと繰り返した。
「ありがとう、ミオリ。…まだ、どうなるか分からないけど。」
「タケルも、喜んでるでしょ?」
「それはもう。最近じゃ、ちょっと過保護なくらい。」
ユキが苦笑いする。
タケルとユキの赤ちゃん。タケルはさぞかし、待ち望んでいた事だろう。タケルが血の繋がらないサチの事を本当の娘のように可愛がっている事は知っていたが、それでも。タケルの気持ちを慮って、ミオリもじんわりと胸が熱くなった。
ユキの吐き気が落ち着いたのを見て、ミオリはまた向かいの席に戻った。
(今なら、サトルさんの事、話せるかも…)
おめでたい話題ついでに、さらっと報告してしまおう。
ミオリが勇気を振り絞って、「あのね、」と顔を上げると、
ユキは、一切の表情を失って、固まっていた。
「…っ!!!」
発作。
ミオリは、ユキの発作を初めて目の当たりにした。
「ユ、キ……ユキっ!!!しっかり、して!!!!」
テーブル越しにユキの肩を揺さぶるが、全く反応がない。…瞳には、何も映していない。
ふと、ユキの隣のサチを見る。
サチは、無表情でユキを見守っていた。きっと、これまでも何度もユキの発作を見てきたのだろう。
ミオリはまたユキのそばに行き、ユキを抱きしめた。
どうしたらいいか、わからなかった。恐ろしかった。
このままユキが、戻らなかったら。……
ミオリは震えながら、ユキを抱きしめ続けた。
5分程、経っただろうか。永遠とも思える時間の後に、ユキは戻ってきた。
「……あれ……私また、意識飛んでた?」
「……ユキ!!!よかっ、た……」
ミオリは涙を流していた。
「ごめん…心配、かけちゃったよね。」
最近は2-3日に1回、発作が起きるんだ。
ぽつり、とユキが語った。
「それでね…タケルが、こんな状態で2人の子供を、タケルがいない日中に私1人でみるのは危ないからって、……今度、アザイ家の敷地内に、引っ越そうって事になったの。」
「……え……」
「あそこなら、お手伝いさんとか、ベビーシッターさんとか、いつでも誰か助けてくれるから、って。」
「ユキは……ユキは、それでいいの?」
ユキは、寂しそうに微笑んだ。
「仕方ないよ。…確かに、私が発作を起こしてる間に子供たちに何かあったら、危ないから。でもタケルは職場が遠くなっちゃうからなかなか帰って来れなくなるだろうし、……ミオリとも、こんなに気軽に会えなくなっちゃうのは、寂しいな。」
「……ユキ……」
ユキの妊娠でタケルがさぞかし喜んでいるだろう、なんて呑気に考えていた先程までの自分を、殴ってやりたかった。タケルは少しずつ心が失われていくユキを、1番近くで見守っているのだ。産まれてくる赤ちゃんの事も、ユキは成長を見届ける事はできない。それなのにミオリは、能天気におめでとうおめでとうと喜んでいたのだ。
ミオリは、ユキを抱きしめ続けながら、声を殺して咽び泣き続けた。
ユキの前では、いつでも笑顔でいる。
一生、ユキの1番の親友で居続ける。
そう、覚悟を決めた、のに。
ユキは、黙ってミオリをそっと抱きしめ返した。
2人の様子を、隣からサチが、じっと見つめていた。




