第16話 もう一度、あなたと
サチが産まれてからは、あっという間に時間が過ぎていった。
気づけば、もうすぐ季節が一巡りする。
サチはすくすくと順調に育ち、成長と共にますますユキに似てきた。既によちよちと歩き始め、ユキのことを「まんま」、ハルオミのことを「じじ」と呼ぶようになった。
ユキは、村外れの平屋でサチと暮らしながら、また少しずつ施設の仕事を始めた。ユキが働いている間は、サチは施設の職員やハルオミがかわるがわる面倒を見た。サチは、この集落のアイドルだった。
嬉しいことが、もう1つあった。
ある時、サチがよちよち歩きで車椅子のサクラに近づいて、「だーだぁ」と話しかけた。
ハルオミとユキがその様子を見守っていた。サチがサクラのことを怖がらずに接してくれることが、ハルオミは嬉しかった。
「あーば、だっだー、うー」
サクラに向かって何かを一生懸命おしゃべりするサチを、目を細めて眺めていたハルオミだったが、
ふとサクラの顔を見て、目を疑った。
サクラの口元が、ほんの少し、微笑んでいるように見えた。
「……っ!サクラ……!!」
ハルオミはサクラに駆け寄った。微笑んだように見えたのは一瞬で、すぐにまた顔から表情が消える。
だけど、間違いない。ユキも、そのわずかな変化を見逃していなかった。
「サクラ…サクラ…!!分かるのか…?」
ハルオミはサクラを抱きしめながら、何度も名前を呼び続けた。
もう30年以上、サクラが笑うところを見ていない。
いつだったか、ハルオミが寂しそうにそう呟いたのを、ユキは思い出した。
どんなに呼びかけても、反応を返してくれなくなった恋人に、それでも寄り添い続けたハルオミ。
ユキはその姿に、自分のかつての恋人のタケルの姿を、無意識のうちに重ねていた。
「サクラはね、子供が好きだったんだ。」
しばらく後、サチが庭で遊ぶのを2人で眺めながら、ハルオミはユキに語りかけた。
「アカデミーの時に、本当は、幼稚園の先生になりたいと言っていた。…私との子供も、いつか欲しいと言ってくれていたんだ。」
ハルオミが昔のサクラの話をするのは、珍しいことだった。先ほどの出来事が、よほど嬉しかったのだろう。
「ユキさん。あなたとサチちゃんは、…私にとって、天使だ。」
ハルオミは涙ぐみながら、ユキを見た。
「サチちゃんを、私とサクラに会わせてくれて…本当に、ありがとう。」
*****
集落は外界と隔絶されており、インターネットは辛うじて繋がるものの回線が限りなく遅く、住人達の情報源は専らテレビやラジオ、新聞だった。
ユキの家にはテレビもラジオも無く、ユキは施設に配達される新聞を時々読んで、外の情報を仕入れていた。とりわけ【ゼロ】に関連する記事は、何度も何度も読み込んだ。
タケルが所属する国家安全・テロ対策チームは、この1年間で1人、また1人と、【ゼロ】の組織員を捕縛することに成功していた。しかしあの官庁街での無差別テロ以降、拠点を転々と移動し続けているようで、リーダーであるリヒトの消息はいまだにつかめていないようだった。
ある日、新聞の一面に大きく載っている写真を見て、ユキは息を呑んだ。
タケルだ。
その記事は、首相官邸の近くで起きた【ゼロ】によるテロ活動を鎮圧した様子を報じるニュースで、
人混みの中、横向きの姿だが、小さくタケルが映り込んでいた。もう2年近く会っていないけど…間違いない。その隣には、サトルらしき人が立っている。
ユキは、食い入るようにその写真を見つめた。
遠巻きの印象だが、タケルが精悍な顔つきをしているのが分かる。少し、痩せたようだ。前より頬がやつれている。…ご飯、ちゃんと食べてるのかな。忙しさにかまけて、食事抜いたり、してないでしょうね。……
そこまでつらつらと考えて、ユキはハッと我に帰る。
タケルはもう、ユキの恋人じゃない。
ご飯の心配なんて、ユキにはする権利がない。
ユキは、写真のタケルを指で何度もなぞった。
もう、誰か新しいひとと、結婚したのかな。
…アザイ家の次期当主だもの。きっとすぐに、縁談があっただろう。
そのひとが、タケルのご飯のことを、気にかけてくれているに違いない。
ユキは、ふいに胸が押し潰されるように苦しくなった。
自分でも、本当は分かってる。
今でも、タケルのことが好きなんだってことを。
本当は、…今すぐにでも、会いに行きたいこと。
だけど。
「まんまー」
サチが、ユキのもとへ駆け寄ってくる。
ユキは新聞をテーブルに置いて、サチを抱き止めた。
私には、サチがいる。
1人じゃない。
タケルへの想いは、きっといつか、時間ぐすりが解決してくれる。
それまでは、こんな風に、胸が疼くこともあるかもしれないけど。
ユキは、サチをぎゅっと抱きしめた。
大丈夫。
この子がいる。
この子が、私と生きてくれている。
*****
空気が冷たくなり始めた、穏やかな秋晴れの昼下がり。
少し標高の高いところにあるこの集落では、既に木々が色づき始めていた。
サチは1歳3ヶ月になり、ますますおしゃべりが増えた。
「まんまー!あい、どーじょ」
施設の庭で、地面に落ちた綺麗な紅葉を拾っては、得意げにユキに差し出してくる。
「綺麗だねぇ。ありがとう、サチ。」
サチはニコッと笑い、他の葉っぱを探しにとことこと歩いて行く。
ユキはベンチに腰かけながら、その様子を見守る。
と、その時。
「ユキ。」
背後から、優しく名前を呼ばれた。
ユキは、耳を疑った。
まさか。
そんなはず。
焦がれ続けた、懐かしいあのひとの声。
ゆっくりと、ユキが振り返ると。
そこには、タケルが立っていた。
「………っ、どう、して…」
ユキは思わず立ち上がった。
信じられない。これは夢?
タケルはゆっくりと近づいてきて、ユキをそっと抱き寄せた。
途端に、ずっと封印していた記憶が鮮明に蘇る。
懐かしい温もり。懐かしいにおい。
かつては、ずっと近くにいた、愛しいひと。
ユキの目から、涙が溢れる。
「……会いたかった。」
タケルが、ユキの耳元で囁いた。
2人で、少しだけ距離を空けて、並んでベンチに座る。
しばらく、沈黙が続く。…何から話せばいいのか、分からない。
ユキは、そっとタケルの顔を見た。
やっぱり、痩せたな…。目の下には、色濃く隈もできている。少し、ゲンドウに似てきたかもしれない。
「…タケル、痩せたね。ちょっと、大人っぽくなった。」
タケルも、ユキの顔を見た。
「ユキは、髪が伸びたな…。ユキも、大人っぽくなった。」
顔を見合わせて、ふっと小さく笑い合う。
また、沈黙がおりる。
「……あ、あのっ!新しい恋人、できた?」
「…え?」
ユキは、取り繕ったような笑顔を向ける。
「あ、恋人、っていうか、…もしかして、もう結婚、してるとか…?」
タケルは少し黙り込んだ後、ため息をついた。
「ユキ以外の人と、結婚するつもりはない。」
「…え…、でもわたし、手紙で…」
「あんな一方的な紙切れ1枚で、俺と別れられたと思ってたなら、大間違いだから。」
タケルの言葉には、少し苛立ちが混じっていた。
ベンチに座ったまま、ユキを抱きしめる。
「まだ付き合ってるから。俺達。」
「………っ!」
ユキは驚いて声が出ない。
それじゃ、だめなのに。
ユキは、タケルとは結婚できない。
だから、身を引いた、のに。
それなのに、どうしてこんなに、タケルの言葉を嬉しく思ってしまうんだろう。
「ユキ。愛してる。」
途端に、閉じ込めて蓋をしていた気持ちが溢れ出す。
ユキの頬を、涙がつぎつぎと伝う。
「…だめ、なの。タケル…。
だって、…わたしには…、」
「まんま?」
ユキの言葉を遮るように、サチが近寄ってきた。
涙を流しているユキを、心配そうに見上げてくる。
「サチ…」
サチに心配をかけまいと、ユキは流れる涙を慌ててぬぐう。
タケルはサチのそばにしゃがみ込み、サチと目線を合わせて優しく話しかけた。
「こんにちは。…サチちゃん、でいいのかな?」
「だーだ?」
タケルはサチの顔をしげしげと眺めた。ユキにそっくりだが、髪の色と瞳の色に、リヒトの面影が見え隠れしている。
タケルは首を振って、サチの頭を撫でた。
「サチちゃん。…俺のこと、サチちゃんのパパにしてくれないかな?」
「……っ!!タケル…っ!?」
ユキが驚いて立ち上がる。
「ぱぁぱ?」
「そう。パパ。」
「やめて、タケル…!その子を混乱させるようなこと、言わないで…」
「混乱?話はシンプルだろ。俺とユキが結婚して、サチが俺の娘になる。どこが問題なんだ?」
また、タケルの言葉に苛立ちが混じる。
「だって…だめだよ、タケルはアザイ家の…」
はぁ、とタケルがため息をつく。
「もうそれ、聞き飽きた。」
ユキの顔をじっと見る。
「ねぇユキ。…俺には、幸せになる権利はないの?」
ユキはハッとする。
「俺だって、幸せになりたい。…ユキの隣で。
それは、望んじゃいけないのか?」
「それ、は…」
「どんなに俺が、ユキじゃなきゃだめだって言い続けても、ユキは分かってくれない…あんな風に一方的に別れを告げられて、俺が傷ついていないとでも思った?」
ユキは、ギュッと胸が締め付けられた。
「…ごめん、なさい…わたし、」
「いや、ごめん。…責めるつもりじゃなかったんだ。」
タケルとユキは、また並んでベンチに座る。
サチは地面に座って、集めてきた紅葉で遊び始めた。
タケルはそっと、ユキの左手を取る。
「…指輪、まだしてくれてるんだな。」
「……あ……」
「ねぇ。ユキの気持ちを、聞かせて欲しい。俺の家のこととか、サチのことは、いったん置いといて。
…俺のこと、どう思ってるの?」
今度は、懇願するような響き。
タケルのことを、どう思っているか?
そんなの、決まってる。
…でも、本当にいいのか。それを言ってしまって。
ユキは迷った。
「ユキ。答えて。」
タケルが畳み掛ける。
ユキは、覚悟を決めた。
「…タケルの、ことが、すき…」
いったん口に出すと、どんどん想いが溢れてきて、もう止められない。また、涙が流れてしまう。
ユキは嗚咽を漏らしながら、告白を続けた。
「ずっと…っ、ミオリの家を、出てきた時も…本当は、別れたくなかっ、た…」
タケルは、ユキを抱きしめる。
「…うん。」
「出産の、ときも…、ほんとは、そばにいてほしかった。サチの成長も、一緒に、見守りたかった。」
「…うん、そうだな。…そばにいられなくて、ごめん。」
ユキはタケルの顔を見た。
長いまつ毛。漆黒の瞳。わたしの、愛しいひと。
「…あ…、あいた、かった。ずっと。
本当に、いいの?
わたし、タケルのことを、…好きでいて、いいの?」
返事の代わりに、タケルがユキの唇を奪う。
久しぶりのキス。
2人は、お互いの熱を、夢中で貪り合った。
一陣の風が、木々から葉を落としていく。
サチはキャッキャッと歓声を上げて、ひらひらと舞う落ち葉を追いかけ始めた。




