第13話 私の居場所
ユキは一睡もできないまま、明け方を迎えた。
まだ朝日が昇る前の早朝4時過ぎに、ミオリを起こさぬよう足音を忍ばせながら部屋を出て、底冷えのする階段を静かに降りる。
誰にも告げずに、ここを出ていく。
それが、ユキの決意だった。
この家は居心地が良過ぎて、ユキは自分の置かれている状況をつい忘れそうになってしまう。
だけど、自分がここに居座れば、いつか大好きなミオリ一家に迷惑がかかることは、火を見るより明らかだった。
また一緒に暮らそう、とタケルは言ってくれた。だけど、現実的に考えて、そんなことは不可能だと分かる。タケルはアザイ家と縁を切ることはできない。リヒトの子供を産むと決めた時から、ユキはタケルとの未来を描くのが難しくなった。
私の存在が、タケルの足枷になる。…それなら、誰かもっとタケルにふさわしいひとと、幸せになってほしい。
(私が消えれば、全てが解決する。)
ユキは、タマキの言葉を思い出していた。
紺色のダウンコートを着て、最低限の荷物を詰め込んだバッグを肩にかけ、そっと靴を履き、玄関の扉に手をかけた、
その時。
「…どうしても、行くのね。」
背後から、パジャマにカーディガンを羽織ったカオルが声をかけた。
ユキはびくっと飛び跳ねた。
「…おば、さん…。どうして…」
「忘れちゃった?私、一応予知能力者だって。」
タマキは、手にしていた紙袋をユキに手渡す。
「私が手編みした、ブランケットが入ってるの。赤ちゃんが産まれるまでは、体を冷やさないようにひざ掛けに使って。赤ちゃんが産まれたら、お昼寝の時にでも使ってくれたら、嬉しい。男の子でも女の子でもいいように、真っ白の毛糸で編んでみたのよ。」
ユキは、驚いて声が出ない。
「それから、これ…少ないけど、入用だろうから。」
封筒に入った現金を渡す。
「おばさん…受け取れません。そんな…」
「ユキちゃん。お願いだから受け取って。…私にとって、あなたはもう娘みたいなものなのよ。」
カオルはユキをぎゅっと抱きしめた。
「…どこに行くのかは、教えてくれる気はないのよね。」
「ごめんなさい…。」
「いいの…。ねぇユキちゃん、これだけは覚えておいて。
あなたがどこにいても、何をしていても、いつでも私達はあなたの味方だし、いつでもこの家に、帰ってきていいのよ。
…どうか、体を大切にして。」
ユキは、声を殺して泣いた。
*****
ユキがいなくなったと連絡を受けて、タケルがすぐにムトウ家に駆け付けた。
「ミオリ!どういうことだっ!!?一体、なんで…!」
ミオリは黙ったまま、血相を変えたタケルに、ユキの残した置手紙を手渡す。
タケルは少しだけ躊躇したが、封筒を開けて便箋を開いた。
中には、見慣れた丸文字で、短い文章が綴られていた。
『タケル
ごめんなさい。今までありがとう。
私のことは探さないでください。
誰か他のいい人と結婚して、幸せになってください。』
「…っ、ざけんな!!!」
タケルは、ぐしゃっと便箋を握り締めた。
「何で、出て行かせたんだ!!あいつは、あちこちに狙われてるんだぞ…!
しかもお腹に子供抱えながら、たった1人で…っ」
「…だったら、さっさとリヒトと決着つけて、とっとと迎えに行きなさいよ!!」
ミオリが、タケルの言葉を遮って、叫んだ。
「いつまでグズグズやってるのよ…だからユキに逃げられたんじゃない!!
あの子はねぇ、あんたの人形じゃないのよ…!エンハンサー以前に、自分の頭で考えて行動する、1人の意思を持った人間なの。誰かの監視下におかれ続けるなんて、そんなの酷すぎる!!」
ミオリがタケルにこんなに強く物申すのは、ほとんど初めてだった。
「ねぇ、お願いだから…さっさと【ゼロ】と片を付けて、心配事のない状態でユキを迎えて行ってあげて…。あの子が自由意志で、タケルの手をまた取れるように…」
お願いします、とミオリは深く頭を下げた。最後の方は、ほとんど懇願だった。
タケルは、それ以上何も言えなかった。
*****
バスの乗客は、ユキ1人だった。
車窓から見える景色は、もう1時間近く単調な山道だけだった。
舗装が不十分な道で、バスは時折がたがたと大きく揺れる。
ユキはふと、左手の薬指を見た。
タケルからもらった指輪だけは、どうしても外せなかった。
(タケルの新しい奥さんには申し訳ないけど…この指輪だけは。)
タケルが、ユキのためにシーラーに依頼して作ってくれた、特別な指輪。
単なる結婚指輪じゃないから、許してもらおう。…もう、会うこともないし。
ユキはそっと目を閉じた。
バスが目的地に到着する。
ユキは、以前タケルに聞いた情報を頼りに、もう1人のエンハンサーであるサクラが暮らす施設にやって来たのだった。
ミオリの家を出た後、行先に何のあてもなかった。ひとまず駅まで来て、さてどこへ行こうかと思案した時に、ユキはふとサクラのことを思い出したのだ。
入口の自動ドアは施錠されていた。そばにある来客用のインターホンを鳴らす。
「はいはい、どちら様ですか?」
「あ、あの…以前、こちらに入所されているサクラさんに面会に来た、アザイさんの知り合いの者なのですが…。」
ユキは、しどろもどろになりながら答えた。
「突然で申し訳ないのですが、できましたら、私もサクラさんにお目にかかりたいのですが…。」
「………ちょっと、お待ちください。」
1分ほどで自動ドアが開き、職員と思われる年配の女性が出てきた。ユキを頭から足までためつすがめつじっくりと観察する。
「まあまあ、こんな田舎まで…サクラさんにご面会、ですね。一応、後見人の方に確認させて頂いてもよろしいですか?」
後見人。タケルが言っていた、ハルオミさんのことだろう。
(ハルオミさんからタケルに連絡が行ったとしても、タケルがこちらに駆け付けるまで時間がかかる。その間に別の場所に逃げよう。)
「はい。お願いします。」
ユキはラウンジに案内され、そこに座って待つよう指示された。
外は手がかじかむほど寒かったが、室内は暖房がよく効いていて、冷えた体を温めてくれた。
日当たりのよいラウンジの椅子に腰かけて、周囲の様子を観察する。
入所者なのだろうか、ぽつぽつとラウンジ内のあちこちに座っている人がいるが、皆一様に表情がなく、押し黙っている。
しかしその一見異様な雰囲気は、不思議とユキの気持ちを落ち着かせてくれた。
「お待たせしました。」
背後から声がかかる。振り返ると、白髪交じりの初老の男性が立っていた。
ユキはぱっと立ち上がって、頭を下げる。
「突然すみません…あの、私…」
「ユキさん、ですね。」
ハルオミはユキに再度座るよう促し、自分も隣の椅子に座った。
「ハルオミと言います。…タケル君から、あなたのことはよく聞いていますよ。」
「…あの、ハルオミさん。お願いが、あるのですが…」
ユキは俯きながら、膝の上で両手のこぶしをぎゅっと握った。
「タケルに、私がここに来たことを、秘密にして頂けませんか。…お願いします。」
ハルオミは目を細めて、ユキを見た。
「………何か、事情があるんだね。」
「タケルとは、もう会いません。…会いたくないんです。」
「そう……。…でも君は、今もその指輪をつけているんだね。」
ユキは、はっと顔を上げる。
「タケル君は、君のことを心から愛しているようだった。…君も、彼のことを今も、想っているように見えるんだが。」
ユキは答えられなかった。切迫した表情に何かを察したのか、ハルオミはなだめるように優しく言った。
「大丈夫。タケル君には、言わないよ。安心して。
…君も、エンハンサーなんだろう?どうしてサクラに、会いに来てくれたのかな?」
ユキはしばらく黙り込んでから、覚悟を決めたように話し始めた。
「私のせいで、たくさんの人が亡くなりました。」
あの日の光景が、今でも脳裏に焼き付いて、離れない。
「自分の能力が…怖いんです。」
ハルオミは、ユキをサクラの部屋に案内した。
サクラは車椅子に座って、身じろぎ1つしない。瞳は焦点が合っておらず、何も映していないように見える。
「サクラさん、初めまして。ユキ、と申します。」
ユキは車いすのそばに跪き、サクラと目線の高さを合わせて自己紹介した。
サクラからは、何の反応もない。
ユキはサクラの手を取った。何かを考え込むように、じっと黙っている。
その様子を、ハルオミは少し離れたところから、見守り続けた。
ハルオミとユキは、またラウンジに戻ってきていた。今は食事の時間なのか、ラウンジには他に誰もいなかった。
ユキはハルオミに、これまでの経緯を全て正直に話した。お腹に、リヒトの子供が宿っていることも。
あまりにも壮絶なユキの状況に、ハルオミは言葉が出なかった。
「…もう、周りの人を巻き込みたく、ないんです。本当は、できることなら、消えてしまいたい。でも、…お腹の赤ちゃんまで、道連れにはできない。」
「それで、タケル君に黙って、出てきたんだね。」
「タケルに、血のつながらないこの子の親になってもらう訳には、いきません。…他にいいひとを見つけて、そのひとと幸せになってほしいんです。私のことなんて、忘れてほしい。」
ハルオミは目をつぶって、首を振った。
少しの沈黙の後、ハルオミが切り出した。
「それで、これから、どうするつもりなんだ?」
「……まだ、決めていません。」
ほとんど衝動的に、家を出てきてしまったのだ。さすがに無謀過ぎたかな、とユキはため息をついた。すると、ハルオミが思いがけない提案をしてきた。
「ユキさん。もしよければ、ここで働かないか?」
「…え?」
「見ての通り、ここはかなりの田舎でね。集落の住民は全部で100人にも満たない。そしてそのうちの多くは、私や君のように、訳アリの事情を抱えた住人ばかりだ。お互いに助け合って、身を寄せ合って暮らしている。君のことも、深い事情は聞かずに、みんな受け入れてくれるだろう。私が口を利いてあげよう。」
「でも…」
「もちろん、君がここに暮らしていることは誰にも話さず、秘密を守る。出産は、麓の町から産婆を呼ぶしかないが、まぁおそらく何とかなるだろう。
この施設の職員は、万年人手不足でね。私は厳密には後見人だから職員ではないんだが、時々駆り出されて介助を手伝うこともあるんだ。」
「でも、私、…妊娠中で…」
「分かってる。妊娠中でも、無理のない仕事を回してもらおう。それだけでも、皆大歓迎だと思うよ。悪くない話だと思うけどな。」
ユキは、少し考え込んだ。
「…もしここにいさせてもらえるなら、とてもありがたいです。この施設の雰囲気が、私にとって、とても落ち着くなと思っていたんです。…でも…
私がいることで、いつかこの集落にも、迷惑をかけてしまうかもしれない。」
孤児院の子供たち、ミタライ、そして官庁街の無差別テロ。
ユキはもう、大切な人が傷つくのを、見たくなかった。
「ユキさん。その点でも、この土地は身を隠すのに適していると思うよ。何せ辺鄙な場所で、ここにたどり着くまでに1本道しかない。不審者が近づいてこれば、すぐに分かる。
それに、さっきここの住人には訳ありが多いと言ったけどね。…私もそうだけど、能力者の端くれも、それなりにいるんだ。いざとなれば、役に立つかもしれない。」
「………」
確かに、聞けば聞く程、この土地がユキとお腹の赤ちゃんにとって最適な場所のように思われる。
ユキの心は揺れた。
「…本当に、いいんでしょうか…」
ハルオミは微笑みを浮かべながら、大きく頷いた。




