第10話 受胎告知
「うん。大きな外傷はなさそうね。」
再び目が覚めたユキを、往診に来たミカゲが改めて診察する。
「ご飯、食べられそう?」
「…はい。」
蚊の鳴くような声で、何とかユキが返答する。
「じゃあ、点滴もお終いにしましょう。あとは体調を見て、少しずつ散歩でもして、体力を戻そうね。」
3週間近く監禁されていたことで、ユキの体力はかなり落ちてしまい、支えがないと歩けない程だった。
「他に、体調で何か気になることは、あるかしら?」
「…………」
ユキは、何かを言いたげにミカゲを一瞥し、また俯いた。
「ユキさん…?」
ユキは、両手をギュッと握った。
「先生…わたし…」
よく見ると、ユキの顔色は真っ青で、何かに怯えるように小刻みに震えている。
ミカゲはユキのそばに座り直して、落ち着かせるようにユキの手を取った。
「どうしたの…?」
優しく問いかけるが、ユキはなかなか話し出せず、躊躇している。
そして、ふと、タケルの方を見た。
ミカゲはその目線から、何かを察する。
「タケルくんに…席を外してもらいましょうか?」
こくん、と、タケルと目を合わさずにユキが頷く。
タケルはやや憮然としながらも、ミカゲに促されると、立ち上がって部屋を出て行った。
タケルが去った後も、ユキはしばらく黙りこんだままだった。
ミカゲは、ユキが話し始めるのを、辛抱強く待ち続けた。
「…された…」
聞き取れない程小さな声で、ようやくユキが何か言葉を口にした。
「…ユキさん…?」
「レイプ、された。」
今度は、はっきりと聞こえた。ミカゲは息を呑む。
「毎日、中に、…」
そのたった短い一言で、ミカゲは全てを察した。
ミカゲは、そっとユキを抱きしめる。
「ユキさん…辛いことを、教えてくれて、ありがとう。…怖かったね。」
途端、ユキの目から涙が溢れ出した。嗚咽が漏れる。
「先生…わたし…」
ミカゲが、すぐにユキの不安を察知する。
「そうね。…念のために検査、しましょうか。いいかしら?」
ユキは頷いた。
ミカゲは往診かばんから紙コップを取り出して、ユキに手渡す。
ミカゲに付き添われて、トイレまでよろよろと歩く。
何とかコップに採尿して、再び部屋に戻り、布団に横になる。
ミカゲが往診かばんから試験紙を1本取り出して、コップに浸す。
結果が出るまでの数分が、何時間にも感じられた。
ミカゲが、試験紙を見る。
くっきりと、浮かび上がる線。
ユキは、リヒトの子供を妊娠していた。
ミカゲは一瞬言葉を失ったが、深呼吸をして、静かに「陽性ね。」と告げた。
ユキは表情を失い、一言も発さずに、焦点の合わない瞳で虚空を見つめ続けた。
永遠に続くとも思われた長い長い沈黙の後に、ミカゲはユキに尋ねた。
「ユキさん。…この事は、まだ皆には内密にしておきましょう。ただ、…タケルくんだけには、話した方がいいと思う。
私から、話をしましょうか?」
ユキは顔を上げて、虚ろな瞳でミカゲを見た。
そして、ゆっくりと首を振った。
「わたしが…自分で、話します。」
*****
ミカゲが、別室で待機していたタケルに声をかける。
ミカゲの顔色がさっきより青ざめているのを見て、タケルはユキに何か良くないことが起きたのだと察した。
「ユキさんが、部屋で待っています。…今すぐ、行ってあげて。」
タケルが急いで部屋に戻ると、ユキは起き上がって、ぼんやりと庭を眺めていた。
タケルは、ふとユキがどこか遠くへ消えてしまいそうな錯覚に囚われて、思わず声をかけた。
「…縁側に、座るか?」
ユキが振り向いて、タケルを見上げた。
布団から出て、いつかのように縁側に並んで座り、2人で庭を眺める。
タケルはユキの顔を見たが、表情からは何も読み取ることができなかった。まるで、感情が欠落してしまったようだった。
タケルは思わず、ユキに廃人となったサクラの姿を重ねた。
孤児院と、官庁街でのテロの時に、ユキは無理やり増幅能力を使わされた。タケルがなるべくユキの心を守りたいと願う気持ちが、仇となった。
「…いい、天気。」
ぽつり、とユキが、独り言のように呟く。
確かに、雲一つない、気持ちの良い秋晴れだった。
「閉じ込められてた部屋は、窓がなくて。外の天気も、昼なのか夜なのかも、わからなかった。」
「……そうだったのか。」
ユキが、初めて監禁中のことを口にした。タケルは慎重に、相槌を打つ。
「時計もなくて。小さなシャワーと、トイレはついてたんだけど。この客間と同じくらいの広さで、大きめのベッドがあって。」
タケルは頷きながら、耳を傾ける。
「そこで、ずっと、リヒトと2人きりだった。」
タケルは思わず、ユキの顔を覗き込んだ。
2人きり?
「リヒトの、私室だって言ってた。私のこと監視しながら、いつもPCで何か作業してた。
それから、ベッドで、何回も私のことを、抱いた。」
ヒュッ、とタケルが息を呑む。
言葉が、出ない。
かつてアカデミーの医務室で、眠っているユキに口づけしたリヒトの後ろ姿を思い出す。
「…ごめんなさい。」
「…何で、謝るんだ。ユキは何も悪くない、」
「妊娠してるの。」
まるで、時が止まった、ようだった。
ユキの言葉が、すぐに頭に入ってこない。
文字通り、頭の中が真っ白になる。
ミカゲの青ざめた顔を思い浮かべる。
そういう、ことだったのか。
ユキの頬に涙が一筋つたうのを見て、タケルはハッと我に返った。
「ユキ…」
「ねぇ…私のこと、もっと責めてよ…!もっと、怒って、嫌いになって…!」
ユキが嗚咽を漏らす。タケルは思わず、ユキを抱きしめる。
「大丈夫…大丈夫、だから…」
タケルが宥めるが、ユキは首を振って慟哭する。
「もっと、…何でもっと、抵抗しなかったんだって、
…あんなに好き勝手されるくらいなら、しんだほうがよかったっ、て…」
タケルはユキを抱きしめる力を強くした。
「違う…!
…いいんだ。ユキは間違ってなかった。
ユキが生きていてくれて、本当に嬉しい。
想像もつかないくらい、辛かったと思う。怖かった、だろう。
…でも、生きていてくれて、生き抜いてくれて、俺は嬉しい。…ありがとう。」
タケルの本心だった。
婚約者が、監禁されて、無理やり妊娠させられた。
状況だけ見れば、確かに地獄だ。
だけどどんな状態でも、ユキはいまタケルの隣で、手の触れられる距離で、息をしている。
もうそれだけで、いい。
それだけでいいんだ。
過呼吸を起こしかけたユキの背中を、タケルは優しくさすり続けた。
少しずつ、ユキが落ち着きを取り戻す。
ふと思い出したように、タケルが懐から何かを取り出して、ユキの左手をとった。
そして、薬指に指輪をはめた。
「……あ……」
ユキが、小さく反応した。
「孤児院で、拾っておいたんだ。」
ユキは、指輪を穴が開くほど見つめた。
やがてユキが、ぽつりと呟いた。
「監禁中も…何度も、ブーストを強制された。」
まるで睡眠薬の代わり、といった程度の気軽な感覚で、リヒトはユキにブーストを強いた。
それが、ユキの精神をさらに消耗させたのか。タケルは理解した。
「…怖かったな。」
ユキはタケルの顔を見た。
わずかに、ユキの瞳が哀しみで揺れるのが分かった。
「ごめん、なさい。」
ユキは俯きながら、また謝った。
「謝るなって。…ユキは、何も悪くない。」
タケルは、念を押すように繰り返した。
「大丈夫。…大丈夫だから。
一緒に、考えよう。
俺は、もう絶対にユキのそばを離れない、から。」
タケルは、自分に言い聞かせるように言った。
*****
その日以降、タケルは一層献身的にユキに付き添った。
テロの事後処理で仕事も多忙を極めていたが、業務の合間を縫って、頻繁にユキの様子を見に帰った。
使用人からユキが食事に手をつけないことを聞くと、自らお膳を運び、ユキの食事介助をした。
天気が良ければ、一緒に庭を散歩した。
夜はユキの隣に布団を敷いて、一緒に眠った。
ユキは時折、夜中に悪夢を見て飛び起きることがあった。タケルが気配を察して目を覚ますと、ユキは汗をびっしょりかいて、目を見開いて震えていた。何かから逃げるように、悲鳴を上げることもあった。
PTSDだ、とミカゲは言った。
そんな時、タケルはとにかく、無我夢中でユキを抱きしめた。ユキが落ち着くまで、ずっと。
そして、ユキがまた眠りにつくまで、そばに付き添った。
寝不足が続くことなど、タケルにとってはどうでも良かった。
何とかユキの苦しみを、軽くしてあげたい。
その一心だけだった。
ミカゲが極秘で連れてきた医師は、ポータブルエコーでユキを診察して、妊娠6週だと告げた。
ユキはその宣告を、存外に冷静に受け止めているように見えた。
医師は、もし堕胎を希望するならば、早い方が体の負担が少ないことを言葉少なに告げて、アザイ家を後にした。
その頃から、ユキにつわりの症状が見られ始めた。
一日中吐き気があり、食事量もさらに減った。
目に見えてやつれていくユキを見て、タケルは自分の無力さを呪った。
ユキの妊娠は、極秘事項だった。本人と医師とミカゲとタケル以外に、その事実を知る者はいない、はずだった。
しかし、ユキの様子から、使用人長のナガイは目敏く妊娠初期症状を疑った。
そこから噂が回るのは、あっという間だった。




