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第2章 栴檀の呪い、北条氏政の呪縛

【鈴木ふさゑの呪詛】


 離婚後のある日、進は母に連れられ、鈴木ふさゑという女性の邸宅を訪ねた。

 そこは、名古屋の路地裏とは無縁の、立派な門構えを持つ家だった。

 しかし進は、その豪奢な応接間に漂う空気が、冬の諏訪湖の底のように冷え切っていることを察知した。


 母が用事で席を外した、その刹那だった。

 鈴木は、氷のような微笑を浮かべ、小さな進をじっと見つめた。


「……進君、栴檀は双葉より芳し、という言葉を知ってる?」


 進が知らないと答えると、彼女の声は、逃げ場を奪うように低く沈み込んだ。

「大人になってからね、うまくいく人といかない人がいるの。進君のお父さんはうまくいかない人よ」

 進は思った。

(その通りだ)

 鈴木は続けた。

「大人になってから、うまくいく人かどうかって、小さい頃から分かるのよ」

「どういうこと?」

 進は聞き入った。

 彼女は言う。

「栴檀っていう、良い香りがする木があるの。知ってる?」

「知らない」

 進は答えた。

「栴檀はね、まだ双葉のときから良い香りがするの」

 鈴木が続ける。

「他の木は、双葉では香りなんかしないわ。大人になる前に分かるの」

「そうなんだ。面白い!」

 進は、すっかりその話に引き込まれていた。


 鈴木ふさゑは博学だった。

「北条氏政の、汁かけご飯の話、知ってる?」

「知らない」

 進が答えた。

「昔、北条氏康というお殿様がいたの。その息子は氏政って名前だったの」

「それで?」

「2人は、ご飯を、食べてたの。その日は、汁かけご飯だったの」

「ふ~ん」

「氏政少年はね、何度も何度も汁をご飯にかけたの。それを見た父の氏康は悲しんだの」

「なんで?」

「だって、どのくらい汁をかけたら良いのか、最初に考えてかけないといけないでしょ。先のことを考えてないの」

「そうだね」

 進はなるほどと思う。

「お父さんの氏康はね、それを息子の氏政に教えていたんだけど、氏政は出来なかったの。だから」

 鈴木は、急に真顔になった。

 そして進の瞳の奥を覗き込んだ。


「大人になってどうなるかはね、子供の時に分かるの。君はパパにそっくり。だから、パパと同じように、仕事のできない、ダメな大人になるのよ」


 進の小さな胸に、冷たい針が深く突き刺さった。

(パパみたいに……?)

 進にとって、父は反面教師ですらなかった。

 ただの「欠けた人」だった。

 それと同じ色に自分が染まっているという宣告は、進の幼い心を根底から揺さぶった。


【母・千夜子からの絶縁と余韻】


 母が戻り、進の青ざめた顔を見て鈴木を激しく問い詰めた。

「鈴木さん、あなた、進に何を話したの」

 鈴木は悪びれずに答えた。

「進君にね、厳しい現実を教えてあげたの」

「どういうこと?」

「進君はね、あなたに似てないの。前の旦那さんに似てるの」

「だから?」

「だから、あんたの前の旦那さんと同じ人生を辿るって教えてあげたのよ。親切にね」

「なんてことを」

 母・千夜子は激怒した。

「あなた、そんな人だったの」

「そうよ。そんなふうに私に自由を見せつけてさ。反吐が出るわ」

「なんでそんなことを言うの?」

「ずっと思ってるいたことよ。全部進君に伝えたわ。あースッキリした」

 母・千夜子はその場で絶縁を突きつけた。

 もう、何を言っても無駄だ。

 母・千夜子は、進の手を引いてこの忌まわしい家を飛び出した。


「進、あんな人の言うことを信じちゃダメ。あなたは、あなたなのよ」


 夕暮れの道を、母は痛いほど強く進の手を握りしめて歩いた。

 しかし、進の心に刻まれた「栴檀」と「北条氏政」の呪いは、容易には消えなかった。

(僕の中に、あの父さんの血が流れている。いつか僕も、あんなふうに無能になるのか……?)


 進は、沈みゆく夕日を見つめながら、拳を固く握りしめた。

 血筋や幼少期の性質で未来が決まるのか。

 未来を変える方法はないのか。

 もっと学べば、運命を、書き換えることができるのか。

 鈴木ふさゑが放った残酷な呪詛は、皮肉にも進の中に、狂おしいほどの「克己心」という火を灯したのである。

 進は思った。

「僕は北条氏政になりたくない」

 自分という存在を、世界が認めざるを得ない「正解」へと、自力で作り変えていくのだと。

 昭和49年の晩秋。

 いつの間にか進は、小学校に入学する年齢になっていた。

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