第三章① 黄金の狂騒と、砂を噛むような沈実
1983年〜1986年
進は無事に定時制高校に入学。
そこで美智子に出会う。
進は大学進学費用を必死で貯める。
4年間ですっかり学力が低下し、大学進学が危うくなる。
【聖なる祝宴、そして孤独な越境】
結局、合格の吉報を掌にしたのは進一人だった。
郁代は解答欄を埋められぬまま不合格の通知に沈み、鹿沢慎之助は進の門出を喜びながらも、姪の行く末を案じて深い溜息を吐いた。
自身の14歳での挫折が、郁代の姿に重なって見えたのかもしれない。
連帯保証という目に見えぬ鎖に縛られながら、彼はただ、進という一筋の希望が濁流に飲み込まれぬよう祈るしかなかった。
「うちの姉貴は、そういうやつだから」
鹿沢に促され訪ねた郁代の家で待っていたのは、暗い食卓ではなく、満面の笑みをたたえた郁代の母であった。
彼女は娘の落胆よりも、共に大阪へ挑んだ「身内」の勝利を尊び、温かな祝宴を用意していたのだ。
「これ、本でも買いなさい」
差し出されたのは、決して裕福とは言えない暮らしの中から捻出された図書券だった。
他人の仕合わせを自分のことのように祝える人々の情熱。
進の目には、その紙片が黄金よりも眩しく映った。
母の遺志を抱き、進は一人、夜の高速バスに乗り込んだ。
信州の山影に別れを告げ、バスは重苦しい排気音を響かせて、光と影の渦巻く浪速へと向かった。
【労働の旋律と、異邦人の朝】
大阪での生活は、夜間定時制高校の宿命ともいえる、労働と学びの二重奏であった。
進は昼間、ある大学の図書館職員として働いた。
静謐な書架に囲まれ、背表紙を整理しながら「いつか自分もこの世界の住人になる」と心に誓う。
日が暮れれば、重い足取りで定時制の教室へ向かう。
定時制高校の男子寮の起床の合図は、早朝6:30に流れる、あの物悲しくもエキゾチックな旋律だった。
挿入曲:久保田早紀『異邦人』
♪私 ただの通りすがり… ちょっと振り向いてみただけの 異邦人♪
まだ夜の気配が残る早朝、この曲がスピーカーから流れるたび、進は自分がこの大都会で孤独な「異邦人」であることを再確認した。
しかし、学校の教室で顔を合わせる美智子の存在が、その孤独を少しずつ溶かしていった。
彼女もまた昼間は大学の寮で働き、夜に学ぶ同志だった。
「明日もがんばろうね」 「がんばろう」
天涯孤独な進にとって、学校で交わす美智子との会話は、明日を繋ぎ止めるための細いが決して切れない命綱だった。
【一年生という名の「奴隷」】
孤独を癒やす学校とは対照的に、男子寮は鉄の規律が支配する「軍隊」であった。
同学年の4人部屋、階ごとに学年が分かれたその建物では、上級生の言葉は絶対の法だった。
一年生は廊下で上級生に会えば、即座に足を止め、腹の底から気合を入れた挨拶を絞り出さなければならない。
朝の『異邦人』を流すのも一年生の役目だ。
掃除の放送、食事の準備、さらには出勤時間を告げる放送に至るまで、寮の時計を動かす雑務はすべて一年生の肩にのしかかっていた。
最大の地獄は、定期的に行われる「食事会」だった。
中庭にひちりんが並び、焼肉の煙が立ち込める。
しかし一年生にとって、それは親睦の場ではなかった。
ある日の会で、進はとりわけアクの強い先輩の正面に座らされた。
「おい、伊崎。俺が盛ってやったメシが食えないのか?」
大きな茶碗に山盛りにされた白米。
それを平らげるや否や、間髪入れず次の一杯が叩きつけられる。
限界をとうに超え、喉元まで米が詰まっている進に、先輩は冷酷な笑みを浮かべて「お代わり」を強要した。
進は胃の腑を裂かれるような苦しみに耐え、フラフラになりながら完食した。
完食した瞬間に込み上げたのは、達成感ではなく、人間の尊厳を削り取られた空虚な屈辱だった。
【時代の転換点】
この惨状を知った鹿沢慎之助は激怒した。
「そんな野蛮な教育があるか!」
と寮へ乗り込まんばかりの勢いだったが、進はそれを必死でなだめた。
「いいんです、おっちゃん。ここで事を荒立てたら、僕の居場所がなくなってしまう」
進は、理不尽を理不尽として飲み込み、耐えることで嵐をやり過ごそうとした。
しかし、時代は動き始めていた。
進が二年生に進級する頃、学校側により「悪習へのメス」が入り、上級生による過度な締め付けは急速に影を潜めていった。
かつての「奴隷」だった進たちは、平穏な寮生活を手に入れたのだ。
だが、食堂の片隅で進の同期たちは、皮肉な表情でこうぼやいた。
「今年の二年生はラッキーだな。それに比べて、下に入ってきた一年生は甘やかされすぎだ。俺たちの苦労は何だったんだよ」
理不尽を耐え抜いた者たちが、今度はその理不尽がなくなったことを嘆く。
進はその言葉を聞き流しながら、やはり自分はここでも「異邦人」なのだと感じていた。
誰かを苦しめることで成り立つ秩序など、守る価値はない。
進は静かに茶碗を置き、図書館での仕事へ向かうため、まだ薄暗い廊下へと足を踏み出した。
【1985年、血と熱狂の境界線】
1985年の夏から秋にかけて、大阪の空気は異常なまでに殺気立ち、そして沸騰した。
6月、寮の目と鼻の先で「豊田商事会長刺殺事件」が起きる。
白昼堂々、マスコミの眼前で繰り広げられた惨劇。
現場周辺は野次馬と警察車両で騒然とし、進は「法」が機能せぬ暴力の生々しさに身を震わせた。
追い打ちをかけるように8月、御巣鷹山に日航機が墜落した。
テレビから流れる絶望的な速報。
実は、進の高校の社会科担当の教師がその便に乗る予定だった。
しかし、たまたま予定が変わり、間一髪で難を逃れていた。
「生と死は、紙一枚の偶然で決まる」 その理不尽なまでの現実が進の胸に突き刺さる。
そんな陰惨なニュースをかき消すように、秋の大阪は阪神タイガースのリーグ優勝、そして日本一への狂騒に包まれた。
道頓堀に飛び込む若者たち、鳴り止まない六甲おろし。
しかし、狂騒に沸く街の片隅で、進は新聞の片隅に踊る「外国為替」の四文字を冷徹に見つめていた。
【執念の錬金術】
進は、なけなしの全財産をドル預金へと投じた。
為替の変動をチェスの盤面のように注視する日々。
数字が30万円を超えた頃、世界を揺るがす「プラザ合意」が発表される。
急激な円高の奔流。
進は奇跡的な直感で直前に資金を定期預金へと移し、九死に一生を得た。
しかし、大金を注ぎ込んだ同室の大村は失意のどん底へ突き落とされた。
レーガン政権の動向、保護主義への傾斜。
進の脳内には、世界の構造がロジックとして組み立てられていた。
進の執念は為替だけに留まらなかった。
彼は毎週、寮の各部屋を回り、空の1リットル瓶を回収した。
一本30円。毎週1000円のノルマ。
試験前には勉強を教える代わりに得た菓子やジュースを他人に売る、徹底した換金生活。
進はついに、受験料と入学金の目処を立てた。
ただ、初年度の学費を払うにはもう少し頑張らないといけなかった。
【突きつけられた「0」の烙印】
資金は揃いつつあった。
あとは学力だ。
しかし、定時制高校の寮から大学の図書館勤務へと通い、労働に追われた日々の代償はあまりに大きかった。
4年制である定時制高校の3年目。
大学受験を見据えて初めて受けた1月の模試の結果を手に、進は凍りついた。
「偏差値32。英語・数学、0点」
愕然とした。頭を殴られたような衝撃だった。
瓶を拾い、小銭を稼いできたこの3年間は、知性を退化させるための時間だったのか。
「定時制高校進学」という決断の重さが、母を亡くしたあの日以上の暗い影となってのしかかる。
【夜の静寂と、微かな福音】
深夜の寮。
消灯後の暗がりのなかで、進はただ天井を見つめていた。
昼間の図書館勤務で使い果たした体は鉛のように重く、心は模試の結果という冷徹な数字に切り刻まれている。
挿入曲:レベッカ『Maybe Tomorrow』
寮の誰かが小さく鳴らしていたのか、それとも自分の記憶が再生した幻聴か。
NOKKOの切なくも力強い歌声が、進の鼓膜を震わせた。
♪汗にまみれてただがむしゃらで 夢はまた遠い1日だった♪
♪だけど明日はきっといいこと あると信じてたいの Maybe Tomorrow♪
ひとりぼっちで歩き始めたあの日から、もう振り返ることはできない。
灰色の日常に行き詰まっても、あきらめることだけは許されなかった。
「……0点なら、あとは上がるだけだ」
夜に吸い込まれそうになる心を、歌詞の一節が繋ぎ止める。
偏差値32。
それは現在地であって、目的地ではない。
進は暗闇の中で、静かに、しかし固く拳を握りしめた。
明日もまた、瓶を貰い、そして参考書を開く。
その先にしか、光はないのだと自分に言い聞かせながら。
【主な出来事】
豊田商事社長殺害事件
日航機墜落事故
阪神タイガース優勝




