第1章 父・俊郎との決別
【アイスコーヒーと決別の儀式】
昭和49年、名古屋。
潜伏生活という名の再出発は、案の定、父・俊郎の散財癖によって瞬く間に破綻した。
俊郎にとって「お金」とは、湧き水くのように無限であるはずのものだった。
そういう俊郎の幼少期からの感覚は、どうしても拭い去れないものであった。
たとえそれが、母・千夜子が身を削って得たわずかな現金であったとしても、散財癖は変わらなかった。
結婚生活は、もう、限界に達していた。
真夏のある日、母・千夜子は進を連れて、近所の古びた喫茶店に入った。
冷房の効いた店内に流れる、琥珀色の空気。
進は、千夜子と二人で外食をすることの珍しさに、本能的な緊張を覚えた。
テーブルの上には、スーパーのくじ引きで当たったという喫茶券が置かれていた。
それは、母・千夜子が進に宛てた「最後の審判」への招待状だった。
運ばれてきたのは、二つのアイスコーヒーだった。
白いミルクが黒い液体に混ざり合い、混沌とした渦を巻く。
スピーカーからは、越路吹雪の『サン・トワ・マミー』が流れる。
そのメロディは甘美な響きで、店内に満ちていた。
「……進。パパと、別れてもいいかな?」
母・千夜子はいきなり進に切り出した。
進は、千夜子を見た。
千夜子の瞳は、進をまっすぐに見つめていた。
そこには迷いも、揺らぎもなかった。
進は、予感していた。
いずれ、こんな日が来ることを。
進は、ミルクで白濁したグラスの底を見つめ、静かに、しかし明確に首を縦に振った。
「うん。いいよ」
その一言は、進の人生から「荒川俊郎」という実の父親を、精神的に切り離した瞬間だった。
進が飲み込んだアイスコーヒーは、喉を刺すほど冷たく、苦く、不思議な味がした。
【俊郎の拒絶と離婚】
進の父・俊郎は、絶対に千夜子と別れたくなかった。
千夜子から別れを切り出されても、首を縦に振らなかった。
しかし、進は父・俊郎にハッキリと告げた。
「パパはズルい。ママをずっと悲しませてばっかり」
俊郎は「違う」と強く否定した。
「子どもが大人の話に口を挟むもんじゃない」
俊郎が続けた。
「パパは心の病気なんだよ。だから働けないんだよ」
進は、俊郎に言った。
「それは嘘だ」
「嘘じゃない」
俊郎の目が見開く。
「パパは病気だって言いながら、パチンコに行くじゃない。それ、ママが稼いだお金だよ」
俊郎は反論できなかった。
進が続ける。
「パパは病気なんだよね。お医者さん、行ったの?」
「お金が無くて行けないんだよ」
「違うよ」
進が反論した。
「パパは、お医者さんに行くわけにいかないんだ」
俊郎が、目を背けた。
「パパは、お医者さんに行ったら、もう治ったって分かってしまうんだ。働かないといけなくなるんだ。だから、お医者さんに行かないんだ」
図星だった。
俊郎は、もう反論できなかった。
離婚届けが提出された。
進はそれまで「荒川進」だった。
これからは「伊崎進」になるのだ。
名前が変わるのは、変な気がした。
でも、それは、父・俊郎との別れの結果。
進はそれを受け入れることで、新しい自分になれる気がした。
それは、新たな可能性と新たな生活、新たな希望であると進は信じた。
進は、小学校2年生になろうとしていた。




