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第三章③ 大学生活と届かない司法試験

1987年〜1991年

進は黎明大学に入学し、寮に入るが、後に出て安いアパートで暮らす。

司法試験予備校に行こうとするが、資金がなく断念。

友人の高橋と資金を出し合い、予備校講師の講義テープを購入。

司法試験には合格できないまま大学卒業。

【滑り止めの溜息と、死守した門】


1987年4月。

古都・京都の春。

進は、念願の黎明大学の門をくぐった。

法学部――そこは、亡き母と約束した「正義」への入り口のはずだった。

しかし、期待に胸を膨らませて踏み入れた学生寮で、進は予期せぬ冷気に晒されることになる。


寮生の多くは、誰もが名の知る有名進学校の出身者たちだった。

彼らにとって、この大学は「不本意な着地点」に過ぎない。

「なんで、こんな大学に……」

同期たちがこぼす、

隠しきれない選民意識と妥協の溜息。

働きながら小銭を貯め、母の命日に合格を誓った進にとって、その言葉は鋭い棘となって胸に刺さった。

彼らが「滑り止め」と蔑むこの場所は、進が血を吐くような思いで掴み取った、唯一無二の聖域だったからだ。

古都の春、冷ややかな視線


1987年4月。古都・京都の街は、淡い桜色に包まれていた。 進は、念願の黎明大学の門をくぐった。法学部――そこは、亡き母と約束した「正義」への入り口のはずだった。


しかし、期待に胸を膨らませて踏み入れた学生寮で、進は予期せぬ冷気に晒されることになる。寮生の多くは、誰もが名の知る有名進学校の出身者たちだった。彼らにとって、この大学は「不本意な着地点」に過ぎない。 「なんで、こんな大学に……」 同期たちがこぼす、隠しきれない選民意識と妥協の溜息。働きながら小銭を貯め、母の命日に合格を誓った進にとって、その言葉は鋭い棘となって胸に刺さった。彼らが「滑り止め」と蔑むこの場所は、進が血を吐くような思いで掴み取った、唯一無二の聖域だったからだ。


【「三流」と蔑む仮面】


そんな寮生の中でも、福岡県出身の細田という男の放つ言葉は、とりわけ進の神経を逆撫でした。 細田は九州でも有数の最難関高校を卒業していた。地元の誇りである九州大学を目指し、一浪して再チャレンジしたが、結果は無残な不合格。やむなく滑り止めとして黎明大学に入学した彼は、ここを「本来自分がいるべき場所ではない」と頑なに信じていた。


細田は大学の講義には目もくれず、毎日大学図書館の片隅に陣取った。机の上に広げられているのは、黎明大学の教科書ではなく、九州大学の赤本だ。 ある日、図書館で鉢合わせた進に、細田は冷笑を浮かべて言い放った。 「伊崎、よくこんな三流大学の学生でいて恥ずかしくないな。俺は一刻も早くここを脱出するよ」


その言葉を背中で聞きながら、進は拳を握りしめた。定時制高校の夜、煤けた教室で一人机に向かった日々。あの時の進にとって、この「三流」と呼ばれる場所さえ、天に届くほど高い嶺だったのだ。


【折れた翼と、消えた影】


しかし、細田の強気は、自分自身を追い詰めるための「劇薬」でしかなかった。

一年生の冬が訪れる頃、細田の姿は図書館から消えた。

模試の結果が振るわず、何度解いても赤本が高い壁となって立ち塞がる。

執着という名の鎖は、いつしか彼の精神を蝕んでいた。


細田はメンタルクリニックに通い始めたが、時すでに遅かった。

かつて「脱出」を豪語した男は、皮肉にもその「滑り止め」のキャンパスに通うことさえできなくなり、大学を休学した。


それ以降、細田からの連絡は途絶えた。

荷物が引き払われたマンションの部屋には、使い古された九州大学の赤本だけが、主を失ったまま一冊残されていたという。

消息不明となった細田の噂を聞きながら、進は冬の京都の冷たい風を吸い込んだ。


学歴という記号に囚われ、今いる場所を愛せなかった男の末路。

進は、自分が死守したこの門の重みを改めて噛み締めた。

自分にとっては、ここが戦場の最前線であり、母に捧げるべき勝利の証なのだ。

細田が捨てた「三流の看板」を、進は誇り高く背負い、再び法律の書物を開き始めた。


【「情報の格差」という断崖】


大学生活は、華やかな喧騒とは無縁の「労働の連鎖」であった。

給付される奨学金は、未来への投資である学費へと消えていく。

日々のパンを購い、屋根を維持するためには、幾つものアルバイトを綱渡りのように掛け持ちしなければならなかった。

講義が終われば、街のどこかにある現場へと走り、深夜に疲労困憊の体を引きずって寮へ帰る。


司法試験合格――。

その悲願の前に立ちはだかったのは、学力以前の「情報の壁」だった。

予備校に通い、洗練された攻略法を手に取るエリートたち。

一方、進が目にした予備校の受講料は、彼が額に汗して貯めた蓄えを、一瞬で灰にするほど無慈悲な額だった。

「……無理だ」

立ち尽くす進に、一筋の光を投げかけたのは、友人の高橋だった。

「二人で教材を出し合おう」という提案。

彼らは、一年型落ちゆえに二割引で投げ売りされていた予備校のカセットテープを買い求めた。


進は、その元テープを丁寧にダビングし、複製したテープを自分の相棒とした。

安物のカセットレコーダーから流れる講師の声。

それを進は、それこそ「正義」への唯一の糸口であるかのように、テープが擦り切れ、磁気が劣化するまで、何度も、何度も繰り返して聴いた。


【奨学金という名の「見えない鎖」】


月5,000円の寮費は魅力的だったが、進はあえて孤独なアパート暮らしを選んだ。

寮の喧騒や付き合いは、彼から「法と向き合う時間」を容赦なく奪ったからだ。

自室を持てたのは、大学の学生課が紹介してくれた企業による給付制奨学金の恩恵だった。

月に30,000円。

だが、それは救済であると同時に、冷徹な契約でもあった。

「一定以上の成績を維持しなければ、即打ち切り」 一度でも足を踏み外せば、この学び舎から放り出される。

その強烈なプレッシャーが、進の背中を常に机へと縛り付けた。


本来なら、サークルで仲間と議論し、法理を戦わせたかった。

だが、その時間はすべてアルバイトに削り取られた。

一日の勉強時間は、捻り出しても二時間が限界。

在学中に挑んだ試験の結果は、無情にもすべて「不合格」であった。


【法学の「格差」と友の情】


3年生のとき、民事訴訟法のゼミで進は新たな壁に直面した。

富裕層が多く通う東京の私立大学出身の芦田助教授は、当時は珍しかったワープロでのレポート作成を学生に強要した。

ワープロは一台10万円はする代物だ。


進は芦田に金欠で買えない旨を直訴したが、「それくらい用意できないならゼミに来るな」と言わんばかりに聞き入れられない。

その窮状を、友人の深村に話した。

深村は京都・寺町の中古電化製品店でアルバイトをしていた。


「進、これを使え」

深村は店長に掛け合い、特別優待カードを作ってくれた。

おかげで中古とはいえ新品同様のワープロを、新品の半額以下で手に入れることができた。

深村の無言の友情が、芦田の冷徹なエリート意識に傷ついた進の心を救った。


しかし、芦田の横暴は続いた。

今度は高級ホテルでのダンスパーティーへの全員参加を命じたのだ。

チケットは男性は1枚4,000円、女性は3,500円。

しかも1人4枚のノルマが課された。

自分の分を除いた3枚を売らなければならない。

進は友人の元山に1枚売ることができたが、残りは売れなかった。

自分の分も含め、計11,000円。

単位を盾に取られた進にとって、それは血を吐くような出費だった。


【夕暮れのキャンパスと、静かなる『Liberte』】

1991年、卒業の季節。夕闇に沈むキャンパスを、進は一人歩いていた。

思うように進まぬ学習、同期との埋まらぬ温度差。

どれだけ手を伸ばしても指をすり抜けていく「司法試験合格」という名の二文字。

周囲が就職という安定したレールへ乗り換えていく中、進は依然として、終わりの見えない知の断崖に立っていた。


進はウォークマンを装着し、カセットテープが回転する小さな音を聴いた。

再生されたのは、岡村孝子のアルバム『Liberte』のタイトルチューン。


挿入曲:岡村孝子『Liberte』


♪形のないものを 信じられずに モラルだけが 残ったけど 今 勇気がほしい 昨日を捨てる 未来だけを信じて♪


透き通るような、しかし芯の強い歌声が、焦燥に波立つ進の心に、静かな凪をもたらした。

一体、自分は何のために戦ってきたのか。瓶を拾い、小銭を数え、擦り切れたカセットテープの声を追いかけた、あの狂気じみた日々。

世間から見れば、それは単なる「報われない苦労」に過ぎないのかもしれない。しかし、進の心は凪いでいた。


一度たりとも、この険しい道を歩んだことを後悔したことはなかった。


【孤独を背骨に変えて】


「昨日を捨てる……」


進は小さく呟いた。 過去の貧しさを呪う自分も、父の影に怯える自分も、この四年間、黎明大学の図書館で法律と格闘し続けた時間が、すべて洗い流してくれたような気がした。

結果こそ伴わなかったが、歯を食いしばり、独りで踏ん張ったという事実こそが、これからの人生を支える強固な背骨になる。


校舎を見上げる進の顔に、冬の京都の風が吹き抜けた。

その風は、どこか進の孤独を労うように優しかった。

大学という章は終わる。

しかし、法という名の高嶺を目指す、進の長い旅路は、今ようやく始まったばかりだった。

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