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第4章 脳内宇宙の目覚め

【深夜一時の聖域と、小坂明子の調べ】


 進にとって、深夜一時という時刻は重要だった。

 母・千夜子が仕事から帰ってくるからだ。

 千夜子は、生活を支えるために個人経営の飲み屋で、日付が変わるまで働いていた。

 進は暗い部屋で、母と交わした「一時には帰ってきて」という約束だけを命綱にしていた。

 そして、枕元に本を整然と積み上げて待っていた。


 深夜一時を回った頃、ガチャリ、と玄関の鍵が回る音がする。

 夜の街の喧騒と酒の匂いをまとった母が戻る。

 母の表情には疲弊がおりのように溜まっていた。

 その瞳には理想の家庭などという蜃気楼を追う色彩は一欠片も残っていなかった。

 しかし、その疲れ切った顔を見ることこそが、進にとっての安息だった。


 静まり返った茶の間のテレビをつける千夜子。

 できれば進が起きてこないように、小さい音量だ。

 テレビは、放送終了間際のエンディングタイムだった。

 2年ほど前に流行った、小坂明子の『あなた』が流れてきた。


 進はその時刻になると起きてきた。

 一旦は寝て、必ずこの時刻に起きることが進の日課だった。

 寝起きの進の耳に「あなた」の旋律は、この世に存在しない理想郷を弔う鎮魂歌のように響いた。

 大きな窓も、暖炉もない。

 あるのは、タバコの匂いの服と湿った壁、そして明日をも知れぬ不安だけだ。

 テレビの砂嵐が始まる直前の、あの独特の静寂が進の感覚を研ぎ澄ませた。


「進、ダメじゃないの。寝てなさい」

 進は言った。

「さっきまで寝てたよ。寝不足は良くないから」

「そういうことじゃないの。子どもがこんな時間に起きてちゃだめなの」

「分かってる。でも、この時間しか無理でしょ」

 進は、何が何でも千夜子に本の内容を解説したかった。

 母・千夜子は根負けした。

「解説は、30分だけよ」

 それが、疲れ果てた母が進に差し出せる、最大級の愛の妥協点だった。


【進の脳内の「宇宙」】


 進は母の上着を握りしめ、冷えた部屋で夢中でページを捲った。

 ロッキード事件の構造、火星人の来襲、宇宙の果ての無、そして歴史上の敗者たちの末路。

 進の口からは、8歳児という肉体の器を借りた、熱を帯びた「論理」が溢れ出した。


「お母さん、ロッキード事件はね、丸紅ルートが解明されたことで闇が暴かれたんだ。でもね、三木内閣の方針が田中元首相を追い詰めたんだよ」

 進は、自民党の派閥についても詳しかった。

 田中元首相が、どうやって田中派を率いてきたか。

 その卓越した手腕について語る進。

 三木武雄首相が、バルカン政治家である真相を語る進。

「H・G・ウェルズは、ただ火星人の話を書いたんじゃない。当時のイギリスの社会がいかにおかしいか、作品を通して訴えたんだ」

 H・G・ウェルズの他の作品にも話が移る。

 「『タイム・マシン』という作品では、地底人がでてくるが、これはイギリスの恐ろしい未来を警告しているんだ」

 進の話は、大宇宙にも及んだ。

「お母さん、いい? 宇宙が膨張しているってことは、いつかバラバラになるか、逆に縮んで潰れるか、そのどちらかなんだ」

 ハッブルの宇宙論について語る進。

 時空が歪んでいるという「特殊相対性理論」について語る進。

 「源義経はね、平氏を滅ぼしたあと、兄の頼朝と仲が悪くなるんだ。義経は朝廷から、兄頼朝に無断で官位を得ていたんだよ。」

 進の話は尽きない。

 「頼朝は怒って義経を追い詰めるんだ。義経は奥州平泉で死んだことになっているんだ。でもね、生きていたって噂もある。モンゴル帝国のチンギス・ハーンの正体は源義経だったという説があるんだ」

 「あとね、織田信長を本能寺で倒した明智光秀は、豊臣秀吉にやられてしまうんだ。でも、実は生き延びたって噂があるんだ。天海ってお坊さんがいてね、明智光秀じゃないかって言われているんだよ」

 進の話は、30分で終わらない。

 とても終わるような話ではなかった。


「ふ~ん、そうなんだね」

 母・千夜子が頷く。

 進は、母が理解しているかどうかは重要ではなかった。

 ただ、自らの思考をアウトプットし、母という唯一の観測者に承認されることで、自分の存在を繋ぎ止めていたのだ。


 母・千夜子はその講義を、薄明かりの中で静かに、祈るように聞き入っていた。

「この子は、氏政なんかじゃない。栴檀の木は、もう芽を出している」

 千夜子は進の頭を撫でながら、自分自身に言い聞かせるように呟いた。


 進を寝かしつけ、自分も寝ようとする母・千夜子。

 ふと見ると、進の本には、いっぱい鉛筆で印やラインが引かれていた。

 そばに、まとめ用に使ったのであろうノートが見える。

 「この子は、変な子だわ」

 千夜子は、本当は早く寝たかった。

 でも、息子・進の話を聞いていたいという気持ちもあった。

 だから、午前1時の講義は嫌ではなかった。


 進の瞳には、かつて母・千夜子が病室の夢に見た「大勢の前で熱弁を振るう男」の胎動が、確かに始まっていた。

 進にとって理屈を語ることは、これ以上のものはないほどの「最高の楽しみ」だった。

 でも、誰も聞いてくれなかった。

 だから、母・千夜子に聞いてほしかった。

 進の適性が活かされるのは、まだ、だいぶ先のことであった。

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