第四章① 阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件の交錯
【飢えとタイ米との格闘】
黎明大学の門を出た進を待っていたのは、法曹界への輝かしいレッドカーペットではなく、泥を啜るような困窮の淵であった。
司法試験予備校という「聖域」の門を潜るには、当時の彼にとって天文学的な受講料が必要だった。
進は、己の生存コストを極限まで削ぎ落とし、その血肉を学習時間へと変換する苦行を選んだ。
当時は記録的な冷夏による米不足の真っ只中だった。
緊急輸入されたタイ米は、独特の匂いと食感から世間では不評を極め、スーパーの棚には半額以下のシールが貼られた袋が山積みにされていた。
進にとって、それは救いのクモの糸だった。
彼はわずかな小銭を握りしめ、誰も見向きもしないその袋を買い漁った。
最初は我慢して口に運んでいたが、日に日にその香りに胃が拒絶反応を示し始める。
そんな折、たまたまつけたテレビで「活性炭を入れて炊くと匂いが消える」という知恵を授かった。
進はすぐさま活性炭を準備し、米とともに炊き上げた。
確かに匂いは劇的に改善したが、パサパサとした粘りのなさはどうにもならない。
そこで彼は、スーパーで無料配布されている牛脂をもらい受け、チャーハンにすることに活路を見出した。
しかし、毎日油ぎった米を喉に流し込むのは、三十路を前にした体には酷だった。
飢えと不味さの狭間で、進は本屋の立ち読みで最後の手がかりを掴む。「少しだけ餅米を混ぜる」という秘策だ。
安価なタイ米に、わずかな餅米を足して炊き上げる。
ついに彼は、格安で「食べられるご飯」を錬成することに成功したのだ。
しかし、皮肉にもその「極貧の黄金比」を完成させた頃、米不足は解消に向かっていた。
スーパーからあの安価なタイ米が消え、高価な日本米が棚を占拠し始めたとき、進が感じたのは、安堵ではなく生存の糧を失うことへの深い絶望だった。
空腹という獣が牙を剥く夜、唯一の「ご馳走」は、近所のパン屋で分けてもらったパンの耳だった。
それを囓りながら、進は擦り切れた基本書の文字を、眼光で射抜くように読み耽った。
【正論は禁句】
しかし、運命は弱者にさらなる試練を強いる。
京都市内の学習塾で掴んだ非常勤講師の職。
ある日の講義の合間、進は生徒たちに良かれと思って語りかけた。
「試験前は、インスタント食品やスナック菓子は控えなさい。添加物の摂りすぎは脳の働きを鈍らせる。君たちの合格のためを思って言っているんだ」と。
進は知っていた。
自分自身が偏った食事故に体調が悪く、頭が働かないことを。
だから、生徒達にはきちんとしたものを食べて実力を出してほしい。
そういう善意からの言葉だった。
だが、この「正論」が、ある家庭の地雷を踏み抜くことになった。
その家は過酷な共働きで、親が食事を作る余裕がなく、子供の夕食は毎晩のようにカップ麺とポテトチップスで賄われていたのだ。
「うちの家庭環境への当てつけか!」
と、保護者は怒り心頭で塾へ怒鳴り込んできた。
その結果、仲の良かった他の3家庭を巻き込み、計4名の生徒が連鎖的に退塾する事態に発展した。
事態を重く見た塾長は、進を呼び出し、顔を真っ赤にして激怒した。
「君の余計な一言で、経営にどれだけの穴が開いたと思っているんだ! 正義感か何か知らんが、自分の給料がどこから出ているか考えろ!」
塾長の声は、狭い事務室に低く、執拗に響いた。
「いいか、減給だ。文句があるなら言え。ただし、減給が嫌なら、責任を持ってあの家へ毎日通い、君が自腹で栄養満点の夕食を作ってやれ。できないんだろう? できないなら、他人の家庭の事情に土足で踏み込むような贅沢な口を叩くな。教育以前に、まずはメシを食わせる親の大変さを知れ。それができない者に、生徒の生活を否定する資格などない!」
塾長の主張は、困窮する進の心に、減給という処分以上の重い楔を打ち込んだ。
奨学金の返済、そして予備校の受講料。
追い詰められた進は、塾の合間を縫って深夜の製造工場や建設現場へと身を投じるしかなかった。
【1枚300円の聖職】
学習塾の減給と不条理な扱いに喘いでいたとき、進は塾の事務職員から紹介を受け、新たな糧として通信教育の「赤ペン先生」の添削業務を始めた。
担当は中学生と高校生の国語。
それは、未来ある子供たちの記述力や感性に「対話」を書き込む、教育者としての誇りを感じられる仕事に思えた。
しかし、現実は、進の乏しい生活時間をさらに細かく削り取る、過酷な労働であった。
センターからは、余白を埋め尽くさんばかりの「こと細かいコメント」が要求された。
生徒の書いた文章の行間を読み、語彙の選択を導き、励ましの言葉を朱筆で添える。
進は生来の生真面目さから、一枚の答案に魂を込めた。
しかし、難解な現代文の添削となれば、1枚を仕上げるのに1時間弱の時間を要した。
「……1時間で、300円か」
深夜、赤インクで汚れた指先を見つめ、進は虚無感に襲われた。
この1時間があれば、司法試験の過去問を解けたはずだ。
割に合わないという不満が、澱のように心に溜まっていった。
【「値」の重み、官僚的な指弾】
そんなある日、進は添削事務局から呼び出しを受ける。
そこには「添削をチェックする係」なる者が存在し、進の仕事に重大な瑕疵があったという。
「伊崎先生、このコメントですが。『価値観』の『値』の字、書き間違えていますね」
事務局の担当者は、進が心血を注いだ解説の内容には目もくれず、たった一文字の誤字を鬼の首を取ったかのように指差した。
「なぜ、このような間違いをしたのか。納得のいく理由を説明してください」
進は困惑した。
連日の過労、深夜の作業。単なる不注意による書き間違いだ。
「申し訳ありません。ただの書き間違いです。深い理由などありません」
しかし、担当者は執拗だった。
「理由がないなんて、そんな説明では納得できません。正当な理由がない、つまり指導体制に問題があるのなら、特別な研修を受けていただきます。もちろん、研修に報酬は出ません」
【決別と、沈む夕陽】
進の中で、何かが音を立てて切れた。
時給換算300円にも満たない奉仕に近い労働を強いておきながら、一文字の誤字を理由に無給の拘束を命じる。
人の「価値観」を育む国語の添削を、記号的なチェックでしか評価できないというのなら、この仕事に、これ以上捧げる時間は1秒もない。
「……結構です。本日限りで辞めさせていただきます」
進は激怒を押し殺し、その場で身を引いた。
紹介してくれた塾の事務員は、後日、「不快な思いをさせて申し訳ありませんでした」と深々と頭を下げた。
進はその謝罪に、この社会の底辺で働く者同士の悲哀を感じた。
1994年の暮れ。赤ペンを置き、指にこびりついたインクを洗い流すと、掌には荒れた皮膚だけが残った。
翌1995年1月。誰もが予想だにしなかった大震災が
この歪んだ日常のすべてを薙ぎ倒す瞬間が、すぐそこまで迫っていた。
【猛毒の眠りと、神戸の誘い】
肉体労働は、進からもっとも貴重な財産である「時間」を容赦なく奪い去った。
極度の睡眠不足は鉛のような睡魔となって襲いかかる。
進は「オールP」や「エスタロンモカ」といったカフェイン剤を、まるで魔術の霊薬のように胃に流し込んだ。
心臓が早鐘を打ち、胃壁がキリキリと悲鳴を上げる。
薄れゆく意識の糸を、法律の条文という冷徹な杭に縛り付け、彼は辛うじて「自分」という存在を繋ぎ止めていた。
そんなある夜、同僚の講師が誘いの手を差し伸べた。
「進さん、今夜うちへ来ないか。たまには息抜きをしよう。神戸の自宅でゆっくり飲み明かそう」
孤独な波間にいた進にとって、その温かな誘いは甘美な誘惑だった。
一晩語り明かし、そのまま一階の客間で泥のように眠る。
そんな休息が、今の彼には必要だった。
だが、翌朝の早朝には製造業のシフトが入っていた。
「……申し訳ありません。明日の朝、早いんです」
断腸の思いで頭を下げ、進は京都の寒々しいアパートへと独り帰った。
1995年1月17日、午前5時46分。
大地が咆哮し、すべてを薙ぎ倒した。
阪神・淡路大震災。
後日、進は背筋が凍る事実を知る。
あの夜招かれた神戸の家は、激震によって一階部分が無惨に押し潰され、全壊していた。
もし、あの誘いに応じ、一階の客間で眠っていたら。
進は、剥き出しになった生の実感を前に、震える手を握りしめるしかなかった。
【砕かれた約束と、熱に浮かされた朝】
同じ頃、東京の美智子もまた、別の地獄を彷徨っていた。
美智子は定時制高校を卒業後、東京で働いていた。
仕事がなかなか続かなかったが、1人の男性と出会い、婚約した。
彼女を支えていたささやかな幸福。
しかし、その婚約という約束が、音を立てて砕け散った。
「君とは、家庭を築くイメージが持てない」
冷徹な断絶の言葉は、彼女から生きる気力を根こそぎ奪い去った。
美智子は家事すら手につかず、職も長続きしなかった。
自分は社会の余剰物ではないか。美智子は自己嫌悪という名の泥沼に、独り沈んでいた。
美智子は、父親に電話した。
美智子の両親も、進と同じように離婚していた。
美智子は父親に引き取られたのだ。
「お前は昔からそうだ」
父親が言う。
「お前が悪い。もう少しだけがんばってみろ」
美智子は、何も言い返せなかった。
「もう一度だけ、抗ってみよう」
彼女は震える指先で、都心でのアルバイト面接を予約した。
当日の朝、営団地下鉄に乗り込み、新しい自分を始めるはずだった。
だが、当日目覚めると、暴力的な悪寒が彼女の体を貫いた。
体温計は38度を超える熱を示していた。
「……申し訳ありません、熱が出てしまって。面接を辞退させてください」
受話器を置いた彼女は、自らの不甲斐なさに涙を流した。
どのくらいたったのだろう。
少しだけ身体が楽になり、美智子は這うようにしてテレビをつけた。
画面に映し出されていたのは、地獄の光景だった。
築地、霞ケ関、神谷町。
地下鉄のホームに崩れ落ちる人々。
地下鉄サリン事件。
もし、彼女が健康で、予定通りにあの車両に乗り込んでいたなら、その命が明日を迎えることはなかった。
【二人の「回避」、見えざる糸】
進は関西で、美智子は関東で。
二人は互いの存在すら知らぬまま、それぞれの絶望の淵に立たされていた。
しかし1995年という未曾有の災厄は、紙一重のところで二人を「回避」させたのである。
それは、残酷な神の気まぐれだったのか。
それとも、いつか二人が出会い、ひとつの物語を編み上げるための、運命による峻烈な采配だったのか。
死の影に触れながら生き残った二人は、まだその邂逅の意味を、夢にも思っていなかった。




