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第四章② 古都の再会と、不器用な「奇跡」

1996年

【鴨川のほとり、幻影の再来】


1996年。

京都の冬は、骨の髄まで冷える静寂を纏っていた。

進の安アパートに、不意の報せが届く。

かつて大阪の定時制高校で、共に夜を分け合った美智子が、東京から自分を訪ねてきているという。


京都駅の喧騒の中で再会した彼女は、かつての面影を残しながらも、どこか壊れかけた陶器のような危うさを漂わせていた。

婚約の破棄、東京での挫折、そして地下鉄での九死に一生。

彼女が背負ってきた空白の時間は、進が基本書を捲り続けてきた指先よりも、深く、痛々しくひび割れていた。


「伊崎君。私、もうあそこにはいられないの」


彼女は絞り出すように言った。

進は、狭いアパートの机に積み上がった、埃をかぶった司法試験の参考書を見つめた。

「美智子さん。僕はまだ、暗闇の中にいるんだ。君を構ってあげる余裕なんて、どこにもない。試験に受かるまでは、自分のことで精一杯なんだ」


冷徹な拒絶のつもりだった。

だが、美智子はただ、静かに首を振った。

「構わなくていいの。ただ、あなたのそばで、あなたのページを捲る音を聞いていたいだけ」


【空回りする献身】


二人の共同生活が始まった。

美智子は、自分を「普通」の、あるいは「良き伴侶」の枠に嵌めようと必死に足掻いた。

結婚式も、結婚指輪も、新婚旅行もない。

そんな結婚生活だった。


美智子は京都の街でパートタイムの仕事を探し、幾つもの面接を受けた。

だが、運命は非情だった。


職場の人間関係が読み解けない。

複数の指示が、霧のように彼女の頭の中で混ざり合う。

時計の針を意識すればするほど、体は硬直した。

結局、どの仕事も数週間と持たず、彼女は震える手で退職の電話を繰り返した。


家事もまた、彼女にとっては峻烈な迷宮だった。

洗濯物の山を前に立ち尽くし、料理を始めれば火加減と味付けの優先順位を見失う。

進が勉強から顔を上げると、部屋は混沌の中にあり、美智子は膝を抱えて泣いていた。


進の心には、焦燥があった。

なぜ、当たり前のことができないんだ。

自分の勉強時間さえ、彼女の涙に削り取られていく。

だが、それ以上に彼を動かしたのは、彼女が放つ「孤独の共鳴」だった。

あの日、タイ米を炭で炊き、パンの耳を囓っていた自分と同じ、世界から見放された者の震え。


【叔父・政夫の壮絶な学問への憎しみ】


その光景を見つめながら、進の脳裏には、かつて叔父・政夫が吐き捨てた言葉が蘇っていた。

叔父は、自身の母親――進の祖母を激しく恨んでいた。

祖母は名家である元庄屋のお嬢様育ちで、没落した後も難しい本や新聞ばかりを読み耽り、知識人との交流を好む女性だった。

しかし、その一方で家事は一切できず、生活は破綻。祖父との喧嘩は絶えず、ついには一代で伊崎家の財産を食い潰してしまった。


「本なんか読んで何になる。そんなものは人生を狂わせるだけだ」


政夫が進から本を取り上げ、学問を徹底的に否定した理由。

それは、家を壊した

「学識ある、家事のできない母」

への恐怖と嫌悪の裏返しだったのだ。

進は後に、祖母の実家が没落した旧家であったことを知り、彼女もまた慣れない世俗の荒波に呑まれた犠牲者であったと理解した。

叔父が正義だと信じた「労働」という名の盾。

けれど、その盾は今、目の前で泣き崩れる美智子をも、かつての祖母のように「無能」として斬り捨てようとしている。


(……叔父さん、僕は、あなたのようにはならない)


【決断という名の「奇跡」】


ある夜、電球の切れた暗い部屋で、進は美智子の肩を抱き寄せた。

彼女は「役立たずでごめんなさい」と、呪文のように繰り返している。

社会の歯車になれない彼女。

家事という日常すら回せない彼女。

それでも、あの死の淵を歩いた1995年を経て、今ここに生きている。


進は、自分が追い求めている「法」が救うべきは、こうした「生きづらさ」の淵で溺れかけている魂ではないかと考えた。

「美智子さん。もう、頑張らなくていい」


進は結婚を決意した。

それは合理的な選択ではなかった。

むしろ、司法試験という難関を目指す者にとっては、さらなる重荷を背負う無謀な賭けだったかもしれない。

だが、その時。進の脳裏には、ある旋律が流れていた。


♪大きな愛になりたい あなたを守ってあげたい♪

(さだまさし『奇跡〜大きな愛のように〜』より)


二人が生きて出会えたこと自体が、数多の惨劇を潜り抜けた先の奇跡なのだ。

何かができるから愛するのではない。

そこに存在し、共に命を繋いでいること。

その一事いちじだけで、愛する理由には十分だった。


進は、美智子の不得手や空回りを、もはや責めることはしなかった。

後に、彼女の不器用さには「発達障害」という名が付くことになる。

しかし、診断名が下るずっと前から、進は知っていた。

彼女が流す涙は、誰よりも純粋に「正しくありたい」と願った証であることを。


「君は、君の歌を歌えばいい。僕がその調べを、一生かけて守り抜く」


古都の小さなアパート。

司法試験の六法を枕元に置きながら、進は美智子とともに、不器用で、しかし誰よりも深い慈しみに満ちた、新しい人生のページを捲り始めた。

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