第1章 継父木島と過ごす決断
1973年〜1975年
進を苦しめる鈴木の言葉。
進は本を読み漁る子どもに。
母・千夜子にも本をねだり、解説をするように。
千夜子は再婚を決意する。
【漆喰の指先と、左官の掟】
そんな進と母の停滞した日常の前に、木島という男が現れた。
その男の手は、左官職人らしく分厚く、指の隙間には白く乾いた漆喰の跡が、まるで消えない刺青のように染み付いていた。
進はその手を見て、直感的に
「今まで出会っていないタイプの人間の手だ」
と感じていた。
「結婚したら、家を買ってあげる。ずっと家にいてほしい」
木島が放ったその言葉は、母・千夜子の心を揺さぶた。
ただ、進の耳にはその言葉が、実に武骨なものに感じられた。
実の父・俊郎とも違う。
俊郎の弟で叔父の慶彦とも違う。
職人としての木島の雰囲気は、獣のような荒々しさを持っていた。
木島の生い立ちは、進が図鑑で見た高度経済成長の影にある、むき出しの貧困そのものだった。
長屋暮らし、明日をも知れぬ日雇い労働の父。
彼は、中学校を卒業してすぐに鏝を握った。
「金と腕、そして段取りこそがすべて」
それが木島の価値観だった。
この考えは、職人として生きていく中で、骨の髄まで叩き込まれたものだ。
彼にとって「優しさ」とは、相手を守ることではない。
自らの強固な城壁の中に相手を支配し、中心としてすることだった。
進は、木島が時折見せる、教養の欠落を威圧感で塗り固める危うさに気づいていた。
木島は進が本を読んでいると、どこか不愉快そうに、しかし畏怖を含んだような視線を向けた。
木島は、読めない漢字が多い。
「壁材」を「かべざい」と読み、「田舎」を「たしゃ」と読む。
だから、難しい本が読めない。
それがコンプレックスになっていた。
【木島の拘り、前妻との離婚理由、そして世間体の実家】
木島には凄惨な離婚歴があった。
前の妻が去っていった理由は、木島のあまりに強固で偏った「正義」と、それに基づく過剰な規律にあった。
彼はそれを「厳しい世の中で生きていくために必要なこと」とし、独自のルールを家族に強要した。
木島が「教育」と呼んでいたルールも、世間の常識からはかなりかけ離れていた。
実の息子に対して、食事の際「二分で食え!」と怒鳴りつけた。
また、醤油以外の調味料を一切禁じた。
息子は萎縮し、妻は発狂寸前まで追い込まれた。
それが、木島が離婚して今独りでいる理由だった。
木島の実家も異常だった。
木島の母は、長年連れ添った夫を「年金運搬機」と呼び捨てていた。
そこに愛は、最初から無かった。
親が決めた結婚。
逆らえないから、結婚しただけの結婚だった。
ただ、離婚したら生活が大変で、世間体も悪い。
だから、一緒にいるだけの夫婦だった。
夫婦喧嘩なんて無かった。
そもそも口もきかず、顔も出来るだけ合わせない。
それが、木島の両親だった。
【木島の焦りと不器用な強がり】
木島にとって男の価値とは稼ぐ能力、すなわち「機能」であった。
それを持たぬ者は「ゴミ」であり「人間のクズ」だった。
だから木島は、進の母・千夜子に対し、不自然なくらい「稼ぐ力」を誇示した。
そうしなければ生き残るない。
そう本気で信じていた。
一方で、自分が無教養で頭の悪い人間だと蔑まれることを極度に恐れていた。
進はそんな木島を、幼い眼で冷徹に見抜いていた。
進にとって、木島は未知の生物だった。
父・俊郎のような脆さはないが、一歩間違えればすべてを粉砕する破壊力を秘めていた。
進は、この新しい「父」に、どう接したら良いのか、考え続けていた。
【二分の食卓、醤油という名のアイデンティティ】
進は、木島と暮らすようになり、奇妙な緊張感を感じ取っていた。
木島は、前の家庭崩壊と同じ失敗をすることを恐れていた。
(職人の世界の常識をそのまま家庭に持ち込み、強要すれば、また失敗する)
実の息子に、食事を「二分で食え!」と怒鳴りつけた過去が蘇った。
醤油以外の調味料を一切禁じた過去も蘇った。
こうした狂気じみた木島の態度が、息子を萎縮させ、妻を発狂寸前まで追い込んだ。
それが、離婚の理由であり、一家離散の原因であることを木島は十二分に理解していた。
【偽りの優しさと、テレビ番組への執着】
木島は、進・千夜子と暮らすようになると、ひたすら気を遣った。
木島は進に、二分での食事を強要しなかった。
調味料についても無理強いはしなかった。
彼は吠えなかった。
もう、家庭崩壊・離婚は絶対に嫌だった。
言いたいことがあっても、必死に堪えた。
(こんなふうに、食事に15分もかかるようじゃ、この「進」という子は、将来生きていけない)
(卵焼きにケチャップなんかかけるのが普通になってしまったら、将来、絶対に苦労する)
そう思ってめ木島は我慢した。
それは、保身のための気遣いだった。
そんな木島の気遣いも過去も、進は知らなかった。
進の母・千夜子も知らなかった。
3人での同居生活は、そろそろ半年を迎えようとしていた。
【譲れないプライド】
徹底的に妥協した木島であったが、絶対に譲れないことが1つあった。
それは、毎日、テレビでニュース番組を見ることだった。
木島は、バラエティ番組の笑い声を「くだらん、時間の無駄だ」と毛嫌いした。
そして、常に社会の動向を「情報」として貪ろうとした。
そのこと自体は、おかしいことではなかった。
ただ木島は、ニュース番組の表面的な内容だけを見て、満足していた。
ニュース番組を見れば、教養のない自分を言葉で武装出来る。
「俺は学校は行っていないが、教養はあるんだ。その辺の奴らと違うんだ」
それが木島の口癖だった。
【受け入れる覚悟と代償】
木島と3人の同居生活がそろそろ1年になろうとしていた。
母・千夜子は進に問いかけた。
「新しいお父さん、これからもずっと一緒でも、いいかな?」
進は深く頷いた。
何となくめんどくさい人だ。
でも、この人と暮らせば、母が夜の街に出なくて済む。
家で自分の話を、もっと長く聞いてくれる聴衆が一人増える。
進は、木島という男を、安全と引き換えの「契約」として受け入れたのだ。
だが、進が木島を受け入れた訳ではなかった。
進は、この彼が虚勢を張り、かついろいろ妥協していることに気付いていた。
オイルショックの傷跡が癒えてきた街で、進は自分の「正解」を求めて、新たな「父」を受け入れる決心をした。
昭和50年も終わろうとしていた。
【主な出来事】
ロッキード事件




