第四章③ 路上の福音と、声への目覚め
【宣告される「強制」の二文字】
美智子との静かな生活。
その幸福の裏側で、進の足元には底なしの沼が広がっていた。
大学を卒業し、司法浪人の道を選んだ進を真っ先に襲ったのは、かつて「跳ね橋」と呼んで自分を救ってくれたはずの、日本育英会からの督促だった。
アパートの固定電話の受話器を握る進の手は、微かに震えていた。
「……そこをなんとか、返済の猶予をいただけないでしょうか。今は司法試験の勉強に専念しており、まとまった収入が……」
電話の向こうの担当者は、事務的で冷淡な声を返した。
「規定ですので、例外は認められません。お支払いがない場合は、法的な手続きに基づいた強制徴収に移らざるを得なくなります」
進の背中に冷たい汗が伝わる。
「強制徴収」という言葉が、これから学ぼうとする法律の刃となって自分に向けられている。
さらに、担当者は追い打ちをかけるように言った。 「本人が無理であれば、当然、連帯保証人の方へ請求がいくことになります」
進の脳裏に、鹿沢慎之助の顔が浮かんだ。
自らも苦境にありながら、身寄りのない進を引き取り、高校へ行かせてくれた恩人。
かつて友人の連帯保証人となって夜逃げされ、辛酸を舐めたあの鹿沢さんに、今度は自分が迷惑をかけるのか。
(それだけは、死んでもできない)
受話器を置いた進は、暗い部屋で一人、決意を固めた。
勉強時間を削ってでも、金を稼がなければならない。
【三足の草鞋と、止まった時計】
美智子との生活を守りながら司法試験の頂を目指す日々は、進の肉体を極限まで摩耗させていった。
その一日は、まだ街が深い闇に沈んでいる午前4時前に始まる。
始発前の冷気に身を縮め、進が向かうのはサンドイッチ製造の工場だった。
午前5時から10時まで、ベルトコンベヤーから流れてくるパンに、機械的に具材を挟み続ける。
冷房の効きすぎた室内で、指先の感覚がなくなるほどの単純作業。
「1分1秒を惜しんで勉強したいのに、自分は何をしているんだ」
そんな焦燥を、マヨネーズの匂いとともに飲み込んだ。
10時に退勤すると、休む間もなく母校・黎明大学へと自転車を走らせる。
昼時は学内の弁当販売のアルバイト。
かつて自分が憧れた、そして今は自分の居場所であるはずのキャンパスで、進は「売る側」として声を張り上げた。
「お弁当、いかがですか!」
学生達が楽しそうに通り過ぎる横で、進は小銭を数え、生活を繋いだ。
午後、ようやく手に入れた「勉強時間」は、大学図書館の静寂の中にあった。
しかし、開いた『基本六法』の文字は、疲労の重みに耐えかねた瞼の裏へ消えていく。
(寝るな……寝てはいけない……)
必死に抗っても、朝からの重労働で体は鉛のように重い。
気づけば数時間が経過し、夕暮れの光が机を照らしている。
捗らない学習計画への絶望感。進は、己の不甲斐なさに奥歯を噛み締めた。
そして夜。
夕方からは学習塾での講師。
子供たちの前では「教育者」の顔を作り、正解を説く。
しかし、深夜にアパートへ帰り着く頃には、進の魂は抜け殻のようになっていた。
【跳ね上がった苛立ち】
しかし、運命は弱者にさらなる試練を強いる。
京都市内の学習塾で掴んだ非常勤講師の職。
そこは、進にとって「教育者」としてのプライドを保てる唯一の場所のはずだった。
だが、三足の草鞋による慢性的な睡眠不足と疲労は、進の自制心を確実に削っていた。
ある日、中学受験を控えた小学生のクラスを指導していた時のことだ。
あまりにやる気のない生徒たちの態度に、進の中で何かがぷつりと切れた。
「やる気がないなら帰れ!」
進は手近にあったパイプ椅子を、威嚇のつもりで強く床に叩きつけた。
しかし、椅子は進の予想に反して猛烈な勢いで跳ね上がり、あろうことか教室の天井を直撃した。
「ゴン!」
という鈍い音が響き渡り、教室内は凍りついた。
すぐに上の階の住人が「何事か」と血相を変えて降りてきた。
進は必死に事情を説明し、住人は渋々納得して引き下がったが、塾からは厳重注意を受けた。
この一件以来、進には「キレたら何をするかわからない怖い人」という不名誉なレッテルが貼られることになった。
【無給の山小屋、孤独な合宿】
追い打ちをかけるように、塾の恒例行事である「夏期勉強合宿」が始まった。
京都北部の峻烈な自然に囲まれた山小屋で2泊3日。
進はこの合宿に講師として駆り出されたが、それは驚くべきことに「完全無給の奉仕活動」であった。
自分の生活費さえ削っている進にとって、無給で拘束される時間は拷問に等しかった。
山小屋の夜、静寂の中で受験生たちが眠る横で、進は一人、翌月の奨学金返済の計算をしていた。
教育という聖域の名の下で行われる搾取。
進の心は、教え子たちへの情熱と、自身の困窮の間で激しく揺れ動いていた。
【立ち退きという名の追い風】
司法試験という名の長いトンネルを歩み続けていた進。
そんな彼に、ある日、風変わりな転機が訪れる。
住み慣れた京都の安アパートが、都市計画による道路拡張の対象となったのだ。
「立ち退いてほしい」
役所の担当者から提示された補償金は150万円。
それは、極貧生活を続けてきた進にとって、天から降ってきた巨万の富にも等しかった。
「150万……。美智子さん、これがあれば、君に苦労をかけずに済むかもしれない」
通帳に刻まれた数字を見つめ、進が呟くと、美智子は不安そうに首を傾げた。
「引っ越すの? この部屋、狭いけど、私は好きだったよ。伊崎君がいつもここで勉強してたから」
「ああ、でもこれはチャンスなんだ。新しい場所で、やり直せる」
二人は新たな転居先を探し、運良く20万円ほどの費用で引っ越しを終えた。
手元に残ったのは、130万円の純然たる「軍資金」である。
進はその半分を奨学金の返済に充て、心の重荷を下ろした。
そして残りの半分を、かつてはパンの耳を囓りながら見上げるだけだった、司法試験予備校の正規受講料へと注ぎ込んだ。
正規の講義、最新の教材。それらは独学で泥を啜ってきた進の知識に、瞬く間に血を通わせた。
受講後ほどなくして、進は難関とされる司法試験の択一試験に合格を果たす。
「受かったよ、美智子さん! 一次試験を通った!」
進が合格通知を掲げると、美智子は弾かれたように立ち上がり、パタパタと進の元へ駆け寄った。
「すごい……すごいね。伊崎君、ずっと夜中まで頑張ってたもんね。お祝い、何がいい? 私、頑張って何か作るよ」
「ありがとう。でも、ご馳走は最終合格まで取っておこう。今は、この扉が開いただけで十分だ」
【停滞する日々、夜空の旋律】
しかし、合格の二文字を掴みかけたその時、進の心にある変化が生まれていた。
自分が解けるようになること以上に、法律の面白さを「誰かに伝える」ことに、抗いがたい魅力を感じ始めていたのだ。
進は次々と資格を制覇し、ライセンスを掌に収めた。しかし、現実は甘くない。
ありとあらゆる予備校に履歴書を送り続けたが、返ってくるのは冷ややかな不採用通知ばかり。
美智子を養うためのアルバイトに追われ、講師への夢が夕闇に溶ける幻影のように思えた夜、進は深夜のラジオから流れるある曲に耳を止めた。
キンモクセイ『二人のアカボシ』
「あの高速道路の橋を 駆け抜けて君連れたまま 二人ここから遠くへと 逃げ去ってしまおうか」
明星が輝く夜空の下、進はこの歌詞を噛み締めていた。
立ち退きによって新しくなったはずの道路も、今の自分にはどこへも続いていないように思えた。
美智子を連れて、この出口の見えない現実からいっそ逃げ出してしまおうか。そんな弱気が、ふと頭をよぎる。
横で眠る美智子の寝顔を見つめながら、進は拳を握りしめた。
「逃げるんじゃない。この道を、僕たちが歩くための道に変えるんだ」
【沈黙の果てに届いた封書】
そんな葛藤の日々に、ついに終止符が打たれる。
一通の白い封書が、アパートの郵便受けに刺さっていた。
これまでの薄い定形外封筒とは違う、独特の重み。
震える指で封を切ると、そこには力強い言葉が並んでいた。
「講師職の面接、および模擬講義の案内」
それは、大手公務員試験予備校からの招聘状であった。
誰も見向きもしなかった進の経歴の中に、泥を啜りながら這い上がってきた「執念」を、見抜いた者がいたのだ。
進は、その紙を握りしめ、隣で洗濯物を畳もうとして戸惑っている美智子を強く抱き寄せた。
「美智子さん、呼んでくれた。僕の声を聞きたいと言ってくれる場所があったよ」
京都の冷たい冬が終わりを告げようとしていた。
進の人生という名の「講義」が、ついに最初のチャイムを鳴らそうとしていた。




