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第2章 継父木島との日々の始まり

1975年〜1980年

継父木島との生活に進は疲弊してしまう。

母・千夜子は継父木島と離婚に至る伏線となる。

【歪んだ鏡の家】


 木島との三人での生活。

 それは、夜のとばりに消えていく母の背中を見送る孤独な日々への終止符のはずだった。

 そして「温かな家庭」という名の港へ辿り着くための再出発でもあるはずだった。

 しかし、その新居の扉の向こうに待っていたのは、安らぎではなかった。

 それは、じわじわと真綿で首を絞められるような、閉塞した地獄の予感であった。


 木島という男は、義務教育を終えると同時に左官の世界へ身を投じた、叩き上げの職人だった。

 だが、その胸の奥底には、学歴という名の拭いがたい劣等感が、黒いおりのように深く、重く沈殿していた。

 木島は、「中卒」というレッテルを誰よりも恐れ、

歪んだ形で自らの知性を誇示しようと躍起になっていた。

 彼は家では必ずニュース番組を見た。

 本を読むことはない。

 読めないのだ。

 木島は、難しい漢字や難しい語句がよく分からなかった。

 だから、本を読み、活字を追うのは無理だった。

 流れてくる映像と音声だけで手軽に世界を把握し、武装しようとした。


【ブラウン管越しの虚飾】


 茶の間に据えられたテレビは、木島にとっての祭壇であった。

 その青白い光に照らされながら、木島は今日も画面を凝視していた。

 イラン・イスラム革命。

 黒い法衣を纏った指導者ホメイニ師が、民衆を熱狂させる映像が流れる。

 木島はそれを見て、世界情勢をすべて理解したような、傲慢な表情で「フン」と頷いた。

 まるで自分が歴史の裏側を知る賢者であるかのように笑った。


 しかし、その傍らで図鑑や書物を読みふけってきた進は、木島の知識に物足りなさを感じていた。

 木島は知らない。

 なぜ近代化を急いだパフレビー国王が王座を追われたのか。

 何が敬虔な民衆の怒りに火をつけたのか。

 そして、千年以上も続くシーア派とスンニ派の血塗られた対立の歴史についても。

 テレビが映し出すのは、表面的な事象の断片だけであった。

 その背後に流れる歴史の重奏を、木島は読み解く術を何一つ持たなかった。

 それを進は分かっていた。

 

 やがて時代は、アメリカ大使館人質事件から、イラン・イラク戦争という泥沼の戦乱へと突き進んでいった。

 画面の中では、サダム・フセインが勇ましく兵士を鼓舞していた。

 木島はビール片手に

「フセインも大変だな、油の利権争いだ」

 と呟いた。

 その言葉の浅薄さに、進は、大きな違和感を感じていた。


【迷い込んだ沈黙】


 ある日の夕暮れ。

 木島は現場仕事の疲れからか、茶間の座椅子で深く首を垂れ、ウトウトと眠りに落ちていた。

 時刻は午後七時半を過ぎた頃。

 彼が熱心に見ていたはずのニュース番組はとうに終わり、画面には華やかな歌番組が映し出されていた。


 渡辺真知子の『迷い道』。

 テレビから流れる軽快なリズムと、伸びやかな歌声が、湿った部屋の空気を震わせる。

 ふと目を覚ました木島。

 木島は、自分が「知性の鎧」としていたニュースが終わり、流行歌が流れていることに一瞬狼狽した。

 彼の顔に、自分が無防備な姿をさらしていたことへの苛立ちが浮かぶ。

 その困惑を打ち消すように、彼は慌てた。

 そして、再びサダム・フセインについて、聞かれもしない解説を傲慢な口調で語り始めた。


「いいか進、戦争ってのは結局、力が強い奴が勝つんだ。フセインのやり方は荒っぽいかもしれんが、あのアラブの地じゃ、ああするしかねえんだよ」


【知識の城壁と無垢なる一矢】


 その時だった。

 進は、抑えきれない好奇心と、ただ純粋に「なぜ?」という疑問を解き明かしたいという衝動に従い、口を開いた。

 それは、木島が築き上げてきた虚飾の城壁に対する、無邪気かつ残酷な一矢だった。


「ねえ、お父さん。サダム・フセインとホメイニ師が、どうしてあんなに仲が悪いか知ってる? シーア派って何? スンニ派とどう違うの?」


 沈黙が部屋を支配した。

 木島の太い指が止まった。彼は答えられなかった。

 言葉を失い、口を半開きにしたまま、彼は凍りついた。

 自分を「無能な父」と同じ種だと断じた大人を否定したい。

 そんな思いで進は、ひたすら知識の城を築いてきた。

 それは進にとって、純粋な知識の確認であり、同時に自らの存在証明でもあった。

 進は、木島を攻撃したかったわけではない。

 ただ、彼が語る言葉が、あまりに浅はかで、曖昧であることに耐えられなかった。


【少年の講義と、沈黙の断罪】


 木島が口ごもるのを見計らったように、進は淡々と、しかし淀みなく「講義」を始めた。

 図書館で蓄積した知識の引き出しが、進の中で開かれていく。


「シーア派はね、預言者ムハンマドの血を引くアリーの子孫だけを正統な指導者だと考えている人たちのことだよ。でもスンニ派は、実力や合議で選ばれた人を認めるんだ。お父さん、今のイラン・イラク戦争は、その宗教的な対立に加えて、シャットゥルアラブ川の領有権争いが絡んでいるんだよ。複雑だよね」


 木島の顔が、屈辱で赤黒く染まっていくのを、進は見逃さなかった。

 進はそれに気づかぬふりをして、さらに高い壁を突きつけた。

 止められなかった。

 一度論理が動き出すと、進はそれを完遂せずにはいられない性質だったからだ。


「じゃあお父さん、イランのモサデク政権がどうして倒されたか知ってる? CIAが関与した『アジャックス作戦』についても教えてくれる? あと、石油の国有化が世界経済にどんな影響を与えたと思う?」


 (モサデク?アジャックス?何だそれは?)

 木島が戸惑いの表情を見せる。

 進は、図書館で貪るように読んだ知識を、一つひとつ丁寧に、そして残酷に披露してみせた。

 答えを待つまでもなく、僕はその背景にある国際政治の力学、地政学的な意味合いまでを解説し終えた。


「お父さん、テレビのニュースだけ見てても、こういう背景を知らないと本当のことは見えてこないんだね」


 最後の一言が、木島のプライドを完全に粉砕した。

【出来事】

イラン・イスラム革命

イラン・イラク戦争


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