第五章① 白亜の教壇と、眠っていた記憶
【盲点と、焦燥の試験場】
進は、一世一代の勝負服である安物のスーツに身を包み、大手公務員試験予備校の門を叩いた。
胸に秘めたのは、泥を啜りながら磨き上げた「伝える」ことへの情熱。
しかし、その高揚感は受付で手渡された一枚の用紙によって、瞬時に凍りついた。
「模擬講義の前に、基礎知識の筆記試験を行います」
案内の端に記されていたその一文を、進は見落としていた。
試験科目は、宅建業法、権利関係、法令上の制限。宅建試験に合格してから、すでに二年の月日が流れていた。
民法の論理は司法試験の学習で血肉となっていたが、暗記要素の強い業法の細かな数字や、建築基準法の複雑な規制は、記憶の彼方へと霧散していた。
(まずい。これでは教壇に立つ資格すらないと見なされる……)
焦燥の中でペンを握る。設問を読み進めても、確かな手応えが返ってこない。
覚えたはずの知識が、指の間から零れ落ちる砂のように、輪郭を失っていく。
冷や汗が掌を濡らし、解答欄を埋める鉛筆の音が、死刑宣告の秒読みのように響いた。
【風に立つ孤独】
模擬講義では持てる力のすべてを注ぎ、法理の「なぜ」を熱く語った。
しかし、校舎を出て阪急電車に揺られる進の心は、冬の京都の空のようにどんよりと曇っていた。
進は座席に深く身を沈め、iPadを取り出した。
画面をスワイプし、音楽再生アプリを開く。
選んだのは、椎名恵のアルバム『ダブル・コンチェルト』。
その中の一曲、森瑤子が詞を編んだ『風物語』が、イヤホンを通じて流れ出した。
♪明日は また明日の風が吹くと人は言う♪
♪でも今は1人 立ち尽くす 恋の終わりなの♪
透明感のある歌声が、今の進の孤独を鋭く突き刺す。
誰もが「次は大丈夫」と慰めるだろう。
けれど、今この瞬間に感じている「準備を怠った自分」への情けなさ、そして夢が指の隙間から滑り落ちていく恐怖に、立ち尽くしているのは進一人だけだった。
窓の外を流れる淀川の景色が、滲んで見えた。
【茶の静寂と、美智子の背中】
アパートへ帰ると、美智子がいつものように迎えてくれた。
「……駄目だったかもしれない」
進がぽつりと零すと、美智子は不器用な手つきで茶を淹れ、隣に座った。
「案内を見落としてたんだ。準備不足だ。教壇に立つ資格なんて、僕にはまだ無かったんだよ」
進は自嘲気味に吐き捨てた。
美智子は、温かい湯呑みを進の手に握らせると、伏せていた目をゆっくりと上げた。
「……分からないけど。伊崎君が今まで、あんなに一生懸命やってきたことは、無駄にならないと思う。私は、あなたの背中を見てきたから」
その静かな肯定が、かえって進の胸を締め付けた。
【研修の終わり、明かされた真実】
翌日、進の携帯が鳴った。
それは、思いがけず届いた「採用」の報せだった。
進は狐に包まれたような心地で、一ヶ月に及ぶ過酷な研修を戦い抜いた。
最終日、進は担当マネージャーに疑問をぶつけた。
「初日の試験、散々な出来だったはずですが……なぜ私を?」
マネージャーはふっと口角を上げた。
「散々な出来? 伊崎さん、あなたのスコアは30問中29点。圧倒的なトップですよ」
「……えっ」
絶句する進の脳裏に、あの試験場の光景が蘇った。
進は、生存本能のように正解を導き出していたのだ。
報われた歳月
その夜、進は美智子に結果を報告した。
29点という数字を伝えると、彼女は少しだけ目を丸くし、それから春の日差しのような微笑みを浮かべた。
「ほらね。無駄にならなかった」
「……ああ。美智子さん、ありがとう」
窓の外には、新しい季節の光が溢れていた。
偏差値32から始まり、泥を啜るようにして生きてきたあの日々。
そのすべてが、この「29点」という数字の中に、そして明日から立つ教壇の中に、報われる瞬間を待っていた。
進は、自分の大きな掌を見つめた。
その胸には、かつて母が夢見た、大勢の聴衆を前に堂々と「正義」を語る自分の姿が、確かな輪郭を持って浮かび上がっていた。
【ファミレスの予言と、真の天職】
採用の報せを握りしめ、29点という数字を噛み締めていた進の脳裏に、ふと、ある会話が蘇った。
それは、黎明大学への合格が決まった直後、春の宵のファミリーレストランで聞いた、古い恩師の声だった。
向かいに座っていたのは、定時制高校で長年教鞭を執っていた家庭科担当の軽部先生だ。
彼女は、進の大学合格を自分のことのように喜び、当時まだ珍しかったファミリーレストランへ連れ出して、ささやかな祝宴を開いてくれた。
ハンバーグの湯気の向こうで、軽部先生はグラスを置くと、ふと真剣な眼差しを進に向けた。
「進君、これからはあくまで私の独り言として聞いてね」
彼女は前置きをしてから、静かに言葉を繋いだ。
「私はね、進君は弁護士より、教師の方が向いているとずっと思ってきたの」
進は驚き、手にしていたフォークを止めた。
「……それは、学校の先生ということでしょうか」
「いいえ、違うの」
軽部先生は首を振った。
「そこが自分でもうまく説明できないんだけど……。進君はね、たぶん『やる気のない子』を無理やり向かせるのは、あまり得意じゃないかもしれない。でもね、やる気はあるのに理解が追いつかない人や、情熱はあるのに勉強の要領が掴めない人を教えるのは、本当に天才的よ。家庭科の授業の時だって、隣の子に教えている姿を見て、私より上手いなと思ったくらいなんだから」
「とんでもないです……」
進は恐縮して顔を赤らめた。しかし、軽部先生は言葉を止めることなく、続けた。
「たぶん、小中学校の先生は向いてないわね。あそこは勉強以前の指導が多すぎるから。でも、もっと別の……『何かを掴みたい』と切望している大人たちを相手にした時、進君の言葉は誰よりも強い光になる気がするのよ」
【繋がった点と線】
あの時、進はまだ「司法試験」という輝かしい頂を目指すことしか頭になかった。
法律家こそが正義であり、母との約束を果たす唯一の道だと信じて疑わなかったからだ。
しかし、今。
30問中29点という圧倒的な数字。
そして、宅建講師から公務員試験講師へと続く、学生たちに法律という「武器」を授ける日々。
(軽部先生、あなたはあの時、今の僕が見えていたんですか……)
進は、自分の掌を見つめ直した。
弁護士バッジを胸に輝かせることではなく、暗闇で立ち往生している受験生たちの手を引き、理路整然とした法律の論理で彼らの世界を照らし出すこと。
「やる気はあるが、要領が悪い人を救う」
その言葉こそが、進が歩むべき「正義」の真の形だったのだ。
進は、夜の窓に映る自分の姿を見つめ、静かに、そして深く頷いた。




