第五章② 孤独な喝采と、断ち切られた糸
【聖域の光、背後の闇】
教壇に立ち、何百人もの視線を一身に浴びる快感。
それは、極貧の浪人生活を送り、社会の周縁を彷徨ってきた進にとって、初めて手にした正当な「居場所」であった。
自ら心血を注いだレジュメが受験生たちのバイブルとなり、教室に満ちる真剣な眼差しが熱気となって押し寄せる。
合格実績という冷徹な数字が、進の正しさを証明する勲章のように積み上がっていった。
しかし、その眩い光の影で、進の足元には深い亀裂が走っていた。
夜、深夜まで明かりを灯し、憑りつかれたように教材研究に没頭する進。
その傍らで、美智子は心配そうに彼を見つめていた。
美智子は竹内まりやの曲をCDプレーヤーで聴いていた。
「何かに追われるように 生き急ぐ理由を 聞かせて」 「ふいに見せる微笑みが どこまでも淋しいのはなぜ」 (竹内まりや『真夜中のナイチンゲール』より)
進を突き動かしているのは、情熱か、それとも過去の飢餓感への恐怖か。
美智子には、教壇で喝采を浴びる進の笑顔の奥にある、癒えない孤独が透けて見えているようだった。
【資格試験界という「寄港地」】
進が足を踏み入れた資格試験予備校の世界は、彼が理想とした「教育の聖域」とは少し趣が異なっていた。
講師室を見渡せば、そこには独特の諦念が漂っている。
宅建や行政書士の講座を担当する講師の多くは、かつて司法試験という巨大な壁に挑み、そして敗れた「断念組」だった。
彼らにとって教壇は、情熱を傾ける舞台ではなく、夢破れた後の食い扶持であり、一時的な「寄港地」に過ぎない。
より高い報酬や好条件を提示されれば、昨日まで「合格させます」と誓った受講生を置いて、渡り鳥のように別の予備校へと飛び去っていく。
そんな講師たちの背中を、進は冷めた心地で見つめていた。
(僕は違う。僕は、誰かに勝つためではなく、この言葉を届けるためにここにいるんだ)
しかし、その純粋すぎる情熱こそが、かつての恩師や友には「理解不能な狂気」として映っていた。
【中学時代の担任教師伊勢の沈黙、個展の夜】
その少し前。
中学時代の恩師であり、進の才能を誰よりも信じてくれた伊勢を、進は久々に訪ねた。
伊勢は美術教師としての顔を持つ傍ら、その独自の色彩感覚で個展を開くほどの腕を持つ芸術家でもあった。
信州・松本のギャラリーに並んだ伊勢の絵画は、静謐でありながら、どこか「本質を射抜く」厳しさを湛えていた。
「進、立派な仕事をしていると聞いたよ。だが……」
伊勢は、自ら筆を置いたばかりのキャンバスを見つめたまま、静かに口を開いた。
「私は君が、社会の理不尽を正す、孤高の法律家になると信じていた。予備校の講師として、ただ『効率』や『点数の取り方』を教えるだけの存在で、本当に君の魂は満足しているのかね」
進は言葉を失った。伊勢の言葉は、美術家らしい審美眼で進の生き方の「歪み」を指摘しているようだった。
「伊勢先生、私は今の場所で、法律の盾を持たない人々を救うための第一歩を教えているつもりです」
「それは、単なる技術の伝達ではないのか。今の君は、麓の広場で喝采を浴びているだけで満足しているように見える。残念だよ」
恩師から投げつけられた「残念」という名の氷の楔。
それは、進が守り抜いてきた自負を無惨に引き裂いた。
【旧友高橋の断罪、歪んだ「応援」】
追い打ちをかけたのは、大学時代の戦友・高橋だった。
高橋は在学中に司法試験を諦め、現在は大手金融機関でエリート街道を歩んでいた。
深夜、携帯のスピーカーから漏れる彼の声は、かつての温かな激励とは似ても似つかない、冷酷な響きを帯びていた。
「おい、伊崎。お前、正気か? 予備校講師なんて、結局は資格試験の添え物じゃないか。お前が極貧で喘いでいた時、俺がどれだけ電話代を使ってお前を励ましたか分かってるのか。俺は、お前という『司法試験合格者』に投資していたんだ。それを……お前はドブに捨てたんだぞ」
「高橋、お前の言う応援は、俺を縛り付けるための借用書だったのか。お前が見ているのは『俺』じゃない。お前のエゴを投影した幻影だ」 「勝手なことを言うな! 組織で戦っている俺に比べれば、お前のやっていることは、ただの『教えるごっこ』だ。そんな世俗的な成功、何の価値もない」
【決別の赤いアイコン、そして暗転】
「……もういい、高橋。お前には、俺の場所は見えていないんだな。俺は、俺の人生を生きることに決めたんだ」
進は画面上の赤いアイコンを力強くタップした。
通話が切れたスマホの画面は、ただ黒く沈黙している。
部屋を支配するのは電子音ではなく、耳の奥で速く打ち鳴らされる自らの鼓動だけだった。
「……進君?」
背後から、控えめな声がした。美智子だった。
彼女は部屋の隅で、進が激昂し、そして静まり返るまでを、息を潜めて見守っていたのだ。
進は肩を落とし、力なく椅子に座り込んだ。
「伊勢先生にも、高橋にも……今の僕は、道を外れた落伍者に見えるらしい。僕が積み上げてきたものは、彼らにとっては『ゴミ』なんだ」
進が絞り出すように言うと、美智子は不器用な足取りで近づき、そっと進の背中に手を置いた。
彼女はしばらく黙っていたが、やがていつになくはっきりとした口調で言った。
「あの人たちは、今のあなたの声を聞いていないわ。私は……あなたの講義の準備をする後ろ姿を毎日見ている。あんなに一生懸命、誰かのために言葉を探している人が、間違っているはずがない」
美智子の言葉は、法律のような論理的な裏付けこそなかったが、今の進にとってはどんな最高裁の判例よりも重く、温かかった。
【「主人公」としての宣誓】
孤独だ。
しかし、この孤独こそが進の選んだ「自由」の代償であった。
進は立ち上がり、古いCDを取り出した。
あの歌を聴きたくなったからだ。
スピーカーから、さだまさしの透き通るような声が流れる。
♪…もちろん 今の私を悲しむつもりはない 確かに自分で選んだ以上 精一杯生きる…♪
♪…小さな物語でも 自分の人生の中では 誰もが皆主人公…♪
(さだまさし『主人公』より)
伊勢先生の描く壮大な風景画の主人公ではなく、高橋の望むエリートの物語の主人公でもない。
たとえ予備校の教壇という、他人から見れば限られた舞台であっても。
そこで悩み、葛藤し、自らの意思で言葉を紡ぐ今の自分こそが、伊崎進という物語の唯一無二の主人公なのだ。
進は、隣で見守る美智子に小さく頷いた。
過去の絆を自らの手で葬り去った悲しみは消えない。
しかし、進の眼差しは前を向いていた。
自分の人生という舞台で、自分だけの歌を歌いきるために。
進は黒い画面の携帯を置き、明日、受験生たちに語るべき言葉を、再び手元のノートに書き記した。




