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第五章③ 孤独な取締役の救い

【未来への足取り】


2003年。伊崎進は、宅建講師という新たな舞台に立っていた。

ある日の夕暮れ、講義に向かう途中で立ち寄った駅のコンビニ。自動ドアが開くと、店内のスピーカーからKiroroの『未来へ』が流れてきた。


〈ほら 前を見てごらん あれがあなたの歩く道〉


かつて目指した弁護士という肩書き。しかし、極貧生活の中で泥を啜るようにして法律を学んだ歳月は、進にある一つの真理を教えていた。

「法廷で裁くこと」以上に、「法という武器を人々に分け与え、未然に悲劇を防ぐこと」こそが、自分の真に果たすべき役割ではないか。進にとって講師への道は、敗北による妥協ではなく、自らの意志で選んだ「攻めの転身」だった。


(俺の歩く道は、ここにある。この知識を、誰かのための『盾』に変えるんだ)

レジで手渡された温かい缶コーヒーの重みを握り締め、進はこれから向かう研修先へと、力強い足取りで踏み出した。


【「伝える」ことの絶壁、そして教え子の教え】


しかし、講師としての現実は決して華々しいだけのものではなかった。

宅建講座を始めた当初、進は「伝える」という行為の難しさに、幾度となく打ちのめされていた。

どれほど熱弁を振るっても、受講生の瞳が曇っていく。

法律を「法律のまま」語ることは、砂を噛むような作業に思え、教壇に立つのが辛くて仕方ない夜もあった。


そんな時、進の脳裏には定時制高校時代の苦い記憶が蘇っていた。

新任の生物教師、高木による、淡々と教科書をなぞるだけの授業。

若き日の進は、教壇のすぐ下で堂々と別の科目の「内職」に耽っていた。

大学受験が近くなっていた進は、この時間を受験勉強のために使っていた。


「伊崎君。私の授業を聞きなさい」

見つかった進は、高木に呼び出された。

進は、悪びれもせず言い放った。

「先生の授業は、聞かなくても教科書を読めば分かります。同じ内容なら、自分のペースで読んだ方が早いです」

高木は顔を真っ赤にし、ムッとしたまま何も言い返せなかった。

進の言葉は、残酷なほど正論だったからだ。


それから十数年後。

進は母校の近くの企業で研修があった。

久しぶりに母校を訪ねてみた。

昔と変わらない校舎だった。

私立高校なので、先生達の異動は少ない。

進は、偶然にも非常勤講師として勤めていた高木と再会した。

「あの時は生意気を言ってすみませんでした」

進が頭を下げると、高木は意外な表情で笑った。

「いや、謝りたいのはこっちだよ。あの一件は、私にとって大きなショックだった。でもね、君の言った通りだったんだ。あんなことを言われる授業をしていた自分が情けなくて、あれから徹底的に勉強し直したんだよ」


今や高木は、各校を回って授業改善を指導する研修講師として活躍していた。

「教える」ことへの執念を教えてくれたのは、皮肉にもかつての自分の傲慢さだったのだ。

(俺も、あの時の高木先生のように、俺にしか語れない言葉を掴まなければならない)

進は、自分にそう言い聞かせた。


【「血」の重圧に喘ぐ取締役】


その日の仕事は、ある中堅ゼネコンの企業研修だった。

最前列で肩をすぼめ、困惑した表情でテキストを見つめる初老の男。

その男は、前社長の息子であり、現社長の弟という立場の取締役だった。

いわゆる「家系」で役員に据えられ、周囲からは「社長の弟だから」という色眼鏡で見られ、実力を疑問視され続けてきた人物である。


「伊崎先生、私はもうダメだ。

民法の『制限行為能力者』だの『善意無過失』だの、テキストをいくら読んでも記号にしか見えん。

兄貴からは『役員のくせに資格一つ取れないのか』と罵られ、私はこの会社に居場所がないんだ」


男の悲痛な吐露は、進の胸を突いた。

かつて進もまた、「人間の本質は父親似だ」という呪いの言葉に苛まれてきた。

目の前の取締役もまた、血縁という逃れられない記号に縛られ、自分の価値を見失っていた。


「取締役。その難しい説明を『暗記』しようとするのはやめましょう。法律は暗記するものではなく、使いこなすものです。この条文は、実はあなたがこれまでこの会社で見てきた、人間模様そのものですよ」


進は学術的な定義を鮮やかに解体し、日常の言葉へと翻訳していった。

「この条文は、要するに『騙されたお人好しと、何も知らずに買った人を天秤にかけたら、どっちを助けるべきか』を言っているだけなんです。あなたがこの状況の審判なら、どちらを救いますか?」


男の目が、ふわりと見開かれた。

「……そうか。これは単なる文字じゃない。血の通った人間同士の、必死のやり取りなんだな」

記号が、生きた「物語」へと変わった瞬間だった。


「それから、宅建業法は取りこぼさないことです。ここは、業界にいる方の強みです」

取締役が言う。

「実務と違うから、間違えてしまうんです」

「確かに、そういうところはあるかもしれません。ただ、運転免許の試験と同じです。真面目に法律を守ったらどうなるか、イメージしましょう」

男の目は真剣だった。

今度こそ。

その熱い意欲は、宅建試験合格の確かな力に変わっていった。


【ページを捲る音、二人の夜】


研修を終え、夜遅くアパートに帰ると、美智子が小さな明かりの下で進を待っていた。

進は今日起きたことを、熱を込めて彼女に話した。


「美智子さん、今日、ある人が『法律が初めて言葉になった』と言ってくれたんだ。僕の言葉が、その人の絶望を救ったのかもしれない」


美智子は、不器用な手つきで進に茶を差し出した。

彼女は深く理解しているわけではないのかもしれない。

しかし、その瞳は優しく揺れていた。


「……進君、よかったね。あなたの言葉が、その人の『明日に架ける橋』になったのね」

「橋、か。そうだね。僕が拾った一リットル瓶も、あの苦しいタイ米の日々も、すべてはこの一瞬のためにあったのかもしれない」


美智子は小さく頷き、進の使い古したテキストをそっと撫でた。

「私、難しいことは分からないけど……。あなたが誰かを助けている時、あなたの声は、お父さんや誰かの影じゃなくて、進くん自身の声になっていると思うわ」


その一言が、進の心の奥底に沈んでいた呪いを、静かに溶かしていくようだった。


【講師という天職】


数ヶ月後、その取締役から予備校に電話が入った。

「受かったよ、伊崎先生! 兄貴も…現社長も、初めて私を認めてくれた。人生で初めて、自分の足で立てた気がする」


受話器の向こうで溢れる歓喜の声。

それは、弁護士として一人の依頼人を救うことと同等、あるいはそれ以上の価値を、進に実感させた。

法律を「特権階級の記号」から「誰しもが自分を守れる盾」へと超訳して手渡すこと。

それこそが、伊崎進が過酷な半生を経て辿り着いた、真の使命だった。


コンビニで聞いた『未来へ』のメロディが、今度は確信を伴って胸に響く。

父に似て無能だと蔑まれた少年は、自ら選んだ教壇という場所で、誰かの絶望を「希望」へと翻訳し続けていく。

伊崎進の本当の物語は、この誇り高き転身から、再び力強く加速していった。

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