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第2章 新しい朝と、記号という壁

【新しい朝】


 昭和55年。

 進の母・千夜子は二度目の決別を選んで半年が過ぎていた。

 千夜子の故郷、信州・松本。

 進の眼前に広がったのは、天を突く北アルプスの鋭利な稜線だった。


 冬は容赦なく凍てつき、軒先には巨大な氷柱が垂れ下がった。

 その街で、母と子は再び世界に二人きりとなった。

 千夜子は小さな水商売の店を切り盛りし、進は中学校入学が目の前に迫っていた。

 継父の暴力的な沈黙から解放されたこの街で、進は自分たちが守られるべき「聖域」に辿り着いたのだと信じていた。


 挿入曲:五十嵐浩晃『ペガサスの朝』

 新しい生活が始まった松本の朝。

 冷たく澄み切った空気の中、ラジオや街角から流れていたのは、透き通るようなハイトーンボイスが印象的な曲だった。


 眩しい朝日が、雪を冠した北アルプスの峰々を白銀に染め上げる。

 その光景は、過去の暗い淵から這い上がってきた母子にとって、新しい人生の幕開けを祝福するファンファーレのようでもあった。


「熱く燃える」という歌詞とは裏腹に、松本の朝は刺すように冷たい。

 しかし、千夜子が立てる朝食の湯気と、窓から差し込む力強いサンライズが、進の凍えていた心に確かな体温を戻していった。

 誰にも怯えることなく、自分たちの足で大地を踏みしめて生きる。

 その高揚感が、軽快なメロディとともに少年の背中を押し、未知なる未来へと誘うペガサスの翼のように感じられた。


【陽だまりの収穫】


 春の訪れとともに、信州の厳しい冬が緩み始めると、千夜子は進を連れて近くの堤防や土手へと繰り出した。


「進、見てごらん。あそこにたくさん生えてるわよ」


 千夜子が指さしたのは、野生の「ねんぶる(ノビル)」だった。二人は夢中になって土を掘り起こし、泥のついた白い球根を次々と袋に詰め込んだ。

 大量に収穫したねんぶるを抱えて帰宅すると、台所はたちまち野草の力強い香りに包まれた。


 千夜子は手際よくねんぶるを茹で、自家製の酢味噌和えに仕立てた。

 シャキシャキとした食感と、鼻に抜ける独特の辛みが、疲れた体に染み渡る。

 また、ある時は細かく刻んで油で炒め、香ばしい醤油の香りを立てた。


「これでおかずが一品増えたわね」


 千夜子は微笑みながら、浮いた食費の分だけ、少しだけ未来が明るくなったような顔をした。

 食卓には、春の苦みが鮮やかなふきのとうの天ぷらや、秋には山で見つけた紫色のアケビが並ぶこともあった。


 自然が与えてくれるこれらの恵みは、困窮する母子にとっての「命の贅沢」であり、同時に、千夜子が知恵を絞って守り抜こうとした、ささやかな生活の知恵そのものだった。


【「準2級」という名の希望と学歴社会の氷壁】


 千夜子には一つの「目算」があった。

 深夜、擦り切れるほど通信教育のテキストを捲り、英語を学び直した。

「進、ママね、塾の先生になろうと思うの」

 彼女は執念で英検準2級を取得した。

 中卒という学歴を背負いながら、自らの知性を証明する唯一の武器として。


 しかし、面接で待っていたのは冷酷な現実だった。

「うちは学習塾だ。講師が『中卒』だなんて、口が裂けても言えないよ」

 実力さえあれば道は拓けるという光は、一枚の卒業証書の前に粉々に砕け散った。

 トボトボと帰宅し

「また夜の仕事に行かなきゃ」

 と無理に笑う母を見て、進は言葉を失った。

 この社会は、何ができるかではなく「記号」で人を裁く場所なのだ――。

「せめて、短大くらいは出ている人でないと雇えない」

 母・千夜子が学習塾でそんな言葉をかけられたことを、進は後日知るのだった。

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