第六章① 公務員試験対策講座へ
【予期せぬ呼び鈴】
宅建講師として確固たる地位を築き、受講生を次々と合格の地平へ導く日々。
進は、かつてない手応えを感じていた。
ある日の講義のない休日。
自宅のリビングで深くソファーに腰掛け、窓の外を眺めていた進の静寂を、携帯電話の震動が破った。
受話口から聞こえてきたのは、張り詰めた緊張感を持つ男の声だった。
「伊崎先生でしょうか。突然失礼いたします。予備校の公務員課でございます」
それは、運営サイドからの急を告げる打診だった。
「公務員講座で急遽、欠員が出まして。実力のある講師を至急探しておりました。伊崎先生の『難しい法律を誰にでも分かるように噛み砕く力』を高く評価する声が、学内でも圧倒的なのです」
男は一呼吸置き、本題を切り出した。
「公務員試験の主要科目――憲法、民法、行政法。これらを先生の手で、受験生に叩き込んでいただけないでしょうか」
それは、宅建よりもさらに広範で緻密な「知の総力戦」への招待状だった。
進の脳裏に、かつて聞いた『未来へ』の旋律が蘇る。〈ほら 前を見てごらん〉――あの歌詞が、今の自分を追い越していく。
「……分かりました。お引き受けします」
進の声に迷いはなかった。
それは安定を捨て、より険しい嶺に挑む、自らの意志で切り拓く「攻めの転身」だった。
【近畿一円の行脚、そして「黒板」の熱】
公務員試験講師となった進は、文字通り近畿一円を縦横無尽に駆け抜けた。
大阪の本校、都会の喧騒を見下ろす教室。
古都の面影が残る京都の大学。
滋賀、奈良、和歌山、時には金沢へ。
各地の大学の正門をくぐるたび、夜間高校から一念発起したあの頃の熱量が、進の胸を焦がした。
教壇に立つ進の手には、チョーク一本。
かつては黒板を真っ白に染め、やがて時代はプレゼンターへと移り変わる。
複雑な法律図解が鮮やかに映し出される中、進の「噛み砕く言葉」は、暗闇を歩く学生たちの灯火となっていった。
ある大学の講義終了後、一人の男子学生が教壇に歩み寄ってきた。
「先生、僕はずっと受験に失敗してきました。この大学も滑り止めだった。だから、公務員試験もダメなんじゃないかって……」
肩を落とす彼に、進はかつての自分を重ねた。
「大丈夫、何とかなりますよ」
進は穏やかに、しかし断固として続けた。
「私は定時制高校の出身で、当時は偏差値32だった。大学に行けるなんて誰も思わなかった。でも、信じて応援してくれる先生がいたんだ」
「僕の周りには、そんな人はいませんでした」と呟く学生に、進は真っ直ぐ目を見て答えた。
「今は違いますよ。講師一同、君が受かると思って指導している。信じてついてきなさい」
その言葉は、数ヶ月後、色づく並木道の下で「合格」という最高の結果となって花開いた。
【購買部の旋律】
「先生のおかげで、法律が『味方』になりました。僕、地元の県庁で頑張ります!」
晴れやかな笑顔を見送った後、進はふと、大学構内の購買部から漏れ聞こえてくるBGMに耳を澄ませた。
"If I could change the world, I would be the sunlight in your universe."
(もし世界を変えられるなら、君の宇宙を照らす太陽になろう)
(エリック・クラプトン チェンジ・ザ・ワールド)
アコースティックギターの軽快でいて切ない旋律が、秋の午後の空気に溶けていく。
かつてコンビニで聞いた『未来へ』が、母親や周囲に導かれる「道」を歌っていたのなら、今、購買部で流れるこの曲は、自分の手で世界を塗り替えようとする「意志」を歌っているように聞こえた。
自分の言葉一つで、目の前の若者の絶望を希望へと書き換える。
それはまさに、彼らにとっての「世界を変える(Change The World)」行為に他ならない。
進は深く息を吸い込み、次の講義へと向かう。
偏差値32から始まった男の物語は、今や誰かの宇宙を照らす光となって、この近畿の地を熱く照らし続けていた。
【亡霊との再会】
ある日の講義後、一人の受講生と談笑していたときのことだ。
その受講生は社会人で、5年ほど前に東京の大学で民事訴訟法を専攻していたと語り始めた。
「当時の担当教授が酷い人で……。20万円以上するパソコンを強引に買わされたり、高級ホテルのダンスパーティーにチケットノルマ付きで強制参加させられたりしたんです。本当にお金がなくて、苦しかったです」
進の背筋に、冷たいものが走った。
京都の、あの四畳半のアパートで、ワープロ代を工面するために深村に頭を下げ、ダンスパーティーのチケット代11,000円を「単位」のために差し出したあの屈辱。
「……その先生、芦田という名前ではありませんでしたか?」
「えっ、先生、どうしてご存知なんですか?」
進は驚愕した。かつての「助教授」は、東京の地で「教授」となり、さらに多くの学生たちに同じ理不尽を強いていたのだ。
【砕け散ったエリートの末路】
講師控室でその話をしていたとき、司法試験講座を担当している弁護士が会話に割って入った。
「芦田教授のことですか? 彼はその後、大学を去って弁護士に転身しましたよ。でもね、伊崎先生。彼、最後は悲惨でした」
弁護士の話によれば、芦田は依頼者と深刻な金銭トラブルを起こし、弁護士資格を返上せざるを得なくなったという。
エリートとしてのプライドを粉々に砕かれた彼は、逃げるようにアルコールに溺れ、体を壊してそのまま亡くなったという。
進は、ゼミの教室で「これくらい用意できないならゼミに来るな」と、傲岸不遜な態度でカラカラと笑っていた芦田助教授の姿を思い出していた。
他人の痛みも、苦学生のなけなしの一万円も、彼にとってはただの「娯楽」に過ぎなかったのか。
挿入曲:Every Little Thing『Time goes by』
控室の窓から見える夕焼けを眺めながら、進の頭の中でこの旋律が静かに流れた。
♪きっときっと誰もが 何か足りないものを 無理に期待しすぎて 人を傷つけている♪
芦田という男も、自らの中にあった「何か足りないもの」を埋めるために、立場の弱い学生を傷つけ、虚栄という城を築き上げようとしていたのかもしれない。
しかし、他人の犠牲の上に築かれた城は、時間という流れの中で脆くも崩れ去っていった。
進はそっと目を閉じ、祈るように息を吐いた。
自分を傷つけた男の最期を知っても、勝利の味はしなかった。
ただ、自分はあのような「人を傷つける法」ではなく、人を守り、背中を押すための言葉を紡ぎ続けようと、決意を新たにするだけだった。




