第六章② 静まり返ったキャンパスと、遮断された「声」
【舞台の灯が消える時】
公務員試験講師として、伊崎進は一つの「完成」の中にいた。
近畿各地の大学を鮮やかに渡り歩き、プレゼンターが放つ光の矢で、複雑に絡み合う法律の迷宮をスクリーン上に解き明かしていく。
チョークを置き、デジタルを操るその姿は、次世代の講義スタイルを確立した自負そのものであった。
学生たちの熱気、重なり合う筆記音、そして講義の終わりを告げる安堵のざわめき。進は、その渦の中心で、自らの鼓動を感じていた。
しかし、2020年初春。その眩い日常は、目に見えないウイルスの影によって、あまりにも呆気なく断ち切られた。
【白白と消えゆく予定表】
もともと、緊急時以外に電話が鳴ることはほとんどなかった。
連絡はすべてメールで完結する機能的な日常。
だが、その静かな端末が、これほどまでに残酷な「沈黙の武器」になるとは思わなかった。
春の陽光が虚しく差し込む自宅で、進が見つめていたのは、受信トレイを埋め尽くす【重要】【中止】【延期】という無機質な文字列だ。
「……春学期の学内講座はすべて休講と決定いたしました。講師派遣も見合わせることとなります」
一通届くたび、カレンダーを埋めていた「出講予定」が、指先一つで白地へと塗りつぶされていく。
滋賀、京都、大阪。
各地のキャンパスで待っているはずだった何百もの瞳が、一瞬にして遠のいた。
「仕事が、消えたな……」
独り言のように呟いた進の背後に、美智子が静かに立っていた。
彼女は、画面に並ぶ「中止」の文字をじっと見つめ、それから進の力なく垂れた肩に手を置いた。
「進君。また、あの時みたいだね。1995年の、あの時みたい」
美智子の声は震えていたが、そこには共に災厄を潜り抜けてきた者だけが持つ、奇妙な落ち着きがあった。
「ああ。でも、今度はどこにも逃げ場がない。地球ごと止まってしまったみたいだ」
「…大丈夫だよ。あなたは、何もないところからでも、いつも何かを見つけてきたじゃない」
美智子の不器用な励まし。
進は、その言葉を噛み締めながら、プレゼンターのライトが消えた暗転したステージに一人取り残されたような感覚に耐えていた。
【原稿用紙のささやき、最後の命綱】
講義という主戦場を奪われた進に残されたのは、膨大な量の「論文・作文添削」だった。
かつては教室の最前列で、不安に揺れる学生の瞳を見つめながら直接言葉をかけられた。
しかし今、彼らとの唯一の境界線は、データで送られてくる無機質な原稿用紙だけだ。
一添削あたりの報酬は、教壇に立つことに比べれば驚くほど乏しい。
それでも、この文字のやり取りこそが、今の進にとっての「物理的な糧」であり、社会と繋がるための「命綱」であった。
進は、画面上の解答一行一行に目を凝らす。
「負けるな」などという、上から目線の強い言葉は使わない。
ただ寄り添うように、いつも通りの丁寧な筆致で、
『がんばりましょう』
と書き添える。
それが今の進にできる、精一杯の連帯だった。
夜、独りパソコンに向かう進の耳に、中島みゆきの鋭い歌声が響く。
FMラジオの音楽番組だ。
「今夜泣いてる人は 僕一人ではないはずだ…」
「笑顔になるなら 見えないところにしてよ 妬ましくてあなたを 恨みかけるから」
「プラス・マイナス 他人の悲しみをそっと喜んでいないか」
(中島みゆき『幸福論』より)
進の胸中は、複雑な泥濘の中にあった。
自分だけが苦しいのではない。
けれど、モニター越しに伝わる「まだ未来がある若者」への微かな嫉妬や、同じように仕事を失った同業者への、暗い共感と裏返しの安堵。
人間の心の奥底にある「プラス・マイナス」の残酷な計算。
みゆきの歌は、そんな進の醜ささえも暴き出し、同時に抱きしめる。
「……僕も、ただの人間なんだな」
美智子が淹れてくれた冷めかけた茶を啜りながら、進は再び原稿に向き合う。
たとえ世界が止まっても、この一枚の添削の向こう側には、必死に「明日」を掴もうとしている誰かがいる。
その誰かのために、そして自分自身が「恨み」や「妬み」に飲み込まれないために。進は朱を入れる手を休めなかった。
【暴かれた「言葉」の虚構】
コロナ禍という未曾有の静寂が世界を包み込み、教壇という名の主戦場を奪われた進は、かつてないほど濃密な「孤独」という時間の中にいた。
外界との接触が絶たれ、ただ一人書斎で論文添削に没頭し、合間にふと手にした百科事典や歴史考証の資料を読み進めていた、ある午後のことだ。
進の目を釘付けにしたのは、幼少期から己を縛り付けてきた、あの「栴檀」にまつわる事実だった。
(……そんな馬鹿な)
進は、自分の呼吸が浅くなるのを感じた。
彼を数十年にわたり、「父と同じ無能な大人になる」という呪いの淵へ繋ぎ止めていた、あの鈴木という女の言葉。
「栴檀は双葉より芳し」――。
しかし、植物学の冷徹な事実は、その言葉の根底を無残に、そして鮮やかに覆した。
香木として名高いインドの「白檀」、別名・栴檀は、確かに芳醇な香りを放つ。
だが、その若葉や新芽に香りは宿らない。
成長し、年輪を重ねて初めて、その心材に香りが蓄積されるのだ。
一方で、日本のあちこちに自生する「センダン」は、そもそも香りと呼べるほどの匂いすら持たない、全く別の種類の木であった。
つまり、あの女が放った言葉は、植物としての実態を欠いた、空疎な「ことわざ」という名の借り物に過ぎなかったのだ。
【北条氏政の幻影】
さらに進が追い討ちをかけるように知ったのは、後北条氏四代目・北条氏政にまつわる「二度汁」のエピソードだった。
食事の際、汁を一度でかけきれず、二度かけて調節した氏政を見て、父・氏康が「毎日食事をしていながら、汁の量も測れぬとは、北条も我が代で終わりか」と嘆いたという、あの有名な話だ。
進は、このエピソードを自身の「無能への恐怖」に重ねて生きてきた。
自分は汁の量を測り間違えるような、父譲りの「不器用な人間」なのではないか、と。
しかし、近年の歴史考証によれば、この逸話は後世の創作である可能性が極めて高いという。
氏政は実際には有能な民政家であり、領土を最大版図に広げた名将であった。
氏政の「無能」というレッテルもまた、後世の人間が物語を面白くするために、死者に着せた虚像に過ぎなかったのだ。
【コロナ禍の恩寵――呪縛からの卒業】
窓の外では、春の風が静かに吹いている。
かつてなら、講義の予定に追われ、自らの内面を深く掘り下げる余裕などなかっただろう。
皮肉にも、目に見えないウイルスが社会の機能を止めたことで、進は初めて「言葉の化け物」から解放されるチャンスを得た。
「……なんだ。全部、嘘だったのか」
進は自嘲気味に笑った。
父に似て無能だという予言も、栴檀の香りも、氏政の失態も。
すべては実体のない、不確かな情報の繋ぎ合わせでしかなかった。
進が怯えていたのは、自分自身の欠点ではなく、他人が勝手に作り上げた「負の物語」という影だったのである。
「栴檀は双葉より芳しくなどない。なら、これから香ればいいんだ」
進は朱の筆を置き、大きく背伸びをした。
父への恐怖、血への嫌悪、そして「人生を舐めている」という他者の刃。
それらすべてが、この未曾有の休講期間という真空の中で、音もなく消え去っていくのを感じた。
教壇という舞台が消えたとき、進は自分自身の中心にある、静かな、しかし確かな「芯」にようやく触れることができた。
もう、何者にも似る必要はない。
栴檀が時間をかけて香りを蓄えるように、自分もまた、この空白の時を経て、自分だけの「正義」を磨き上げていけばいい。
コロナ禍の静まり返った部屋で、進は初めて、自分という人間を本当の意味で受け入れた。
呪縛を解いたのは、皮肉にも世界を止めた災厄だった。
明日から書く論文添削のコメントは、これまで以上に力強く、そして温かいものになるだろう。
自分を縛っていた糸が切れた今、進の物語は、ようやく本当の「自立」へと歩み出したのである。




