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第3章 因縁の社名、そして崩落の序曲

【鉄錆の教室と、因縁の社名】


 平穏は長くは続かなかった。

 学校という小さな社会もまた、進にとっては荒野であった。


 クラスメイトの加登が、進に向かって嘲笑を投げた。

「おい、伊崎。お前の母親、キャバレーで働いてる水商売の女なんだろ?」

 母の献身を汚された進は、反射的に抗議した。

 激昂した加登は進に殴りかかり、二人は床を転げ回る取っ組み合いの喧嘩となった。

 目の上を強く殴打された進は、大事をとって医師の診断を受け、数日学校を休むことになった。


 千夜子は激怒した。

 加登の母親を呼び出し、対峙する。

 加登の母親は、暴力については形式的に謝罪したが、その口調には隠しきれない優越感が滲んでいた。 「殴ったことは悪かったわ。でもね、息子は本当のことを言っただけでしょ?」

 千夜子の剣幕に押され、しぶしぶ治療費を支払った加登の母親は、帰り際、勝ち誇ったように言い放った。

「うちはあんたのところと違って、一流企業に勤めてるの。身分が違うのよ」


 その口から出た会社名を聞いた瞬間、進の心臓は凍りついた。

 それは、かつて「無能」と切り捨てられた父・俊郎が勤め、祖父が重役として君臨していたあの精密機器メーカーの名だった。

 捨て去ったはずの「血」の因縁が、信州の地で形を変えて進を追い詰めていた。


 翌日、学校に戻った進の机には、悪意に満ちた二通の手紙が残されていた。

『伊崎君は男らしくない。加登君は平気で学校に来たよ。君は弱虫だ』

『毎日偉そうに本の解説なんかしてるからこういう目に遭うんだよ』


 担任の伊勢は激怒し、「書いた奴は許さん」と教室を震撼させたが、犯人は特定できなかった。

 怪しい人物はいた。

 だが、決定的な証拠はないまま、教室には重苦しい沈黙だけが澱のように溜まっていった。


【荒野に流れる調べ】


 夕闇に染まる北アルプスの山々が、行く手を阻む巨人のように見下ろしていた。

 その夜、店から戻った千夜子が、疲れ果てた体をソファーに沈めながら深夜ラジオをつけた。


 挿入曲:谷村新司『昴 ―すばる―』

 静かに、重厚に響き渡る谷村新司の声。

 進は、隣で目を閉じている母の横顔を見ていた。

 学歴の壁に阻まれ、夜の街へと戻らざるを得ない母。

 「見も知らぬ道」を一人で歩き続ける彼女の背中が、この壮大なメロディと重なり、子供心に痛いほど切なく映った。


 今の自分たちは、闇夜の荒野を彷徨う旅人のようだ。

 けれど、母はこの歌のように「さらば昴よ」と、散りゆく運命を受け入れながらも、誇り高く道を選ぼうとしているのではないか。

 その凛とした旋律が、冷え切った四畳半の部屋を一時だけ、どこか別の銀河へと連れ出してくれるようだった。


【崩落の前奏曲】


 信州・松本での平穏な暮らしは、千夜子の献身という名の人柱ひとばしらの上に成り立つ危うい均衡だった。

 深夜に及ぶ立ち仕事、独りで家計を支える重圧。重労働は、千夜子の肉体を内側から確実に蝕んでいた。


 千夜子には、時折、身体を襲う原因不明の麻痺があった。

 自転車で転倒しても痛みすら感じない異変もたびたびだった。

 しかし彼女は「進に心配をかけたくない」とそれを隠し通した。

 常に異常な数値を叩き出す血圧は、命を繋ぐ管が限界に達している悲鳴だった。


 それでも母・千夜子は、進の前では微笑みを絶やさなかった。

 血を吐くような努力で守り抜いた息子との平穏。

 だが、運命はあまりに無慈悲だった。

 進が中学2年生に進級し、春の兆しを待つ立春の日。その日を境に、進の人生から色彩が永遠に奪われる悲劇が、音もなく背後に忍び寄っていたのである。

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