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第六章③ デジタルな静寂と、海を越える声

【予期せぬ「沈黙」と再起の儀式】


季節が巡り、2021年初夏。ようやく予備校側から、一通の「攻め」のメールが届いた。

「オンライン講義、配信開始決定」


進が向かったのは、自宅ではない。

予備校の離れに急造された配信専用の別室だった。

窓のない小さな部屋。

そこには学生の姿も、あの懐かしい黒板もない。

あるのはパソコンと、使い慣れたプレゼンター、そして無機質なモニターだけだ。


しかし、アナログの極致で生きてきた進にとって、そこには見えない「壁」が立ちはだかっていた。

「ええと、まずはZOOMを立ち上げて……この『ミーティングを開始』をクリック、と」


画面に自分の顔が映り、マイクのインジケーターが振れるのを確認する。

次にプレゼンターの映像を共有する。

一つひとつの手順を、進は震える手元で確認した。

かつてチョーク一本で世界を支配した男が、今はマウスのポインタを動かすだけで額に汗を浮かべている。


ようやく始まった第一回の配信。

チャット欄に「頑張ります!」という反応が流れたとき、進はレンズ越しに確かな熱気を感じた。


【痛恨のミスと、独りの聖域】


しかし、講義終了から数時間後、予備校の担当者から一本の電話が入った。

「伊崎先生、お疲れ様でした。……あの、大変申し上げにくいのですが、レコーディング(録画)ボタン、押されていましたでしょうか?」


進は絶句した。

欠席者用の録画。

デジタルに不慣れな自分があれほど注意していたはずの、その一押しが抜け落ちていた。

「……申し訳ない。私のミスです」


数日後、進は再びあの別室にいた。

本来の受講生たちはすでに「近畿」「金沢」「高知」と、それぞれの地域ごとに設定された別日程で待機している。

しかし、今日この時間は、目の前に誰一人いない「欠席者用録画」のためだけの撮り直しだ。


別途報酬が発生するということが、かえって進の自尊心を削った。

「気まずいな……」 誰もいない画面に向かって、進は深く一礼した。

しかし、一度プレゼンターのライトを点灯させれば、進の魂にスイッチが入った。


レンズ越しに届ける図解は、かつて大教室のスクリーンに映していたものと同じ情熱が宿っている。

たとえ今、この瞬間に見ている学生がいなくとも、後でこれを再生する誰かの「盾」になるのだ。


密閉された小さな別室から、進の声は再び、近畿、北陸、そして瀬戸内を越えた四国へと響き渡っていった。


【講義を終えて聴くカーペンターズ】


配信機材の熱が残る体を冷ますように、進は阪急淡路駅の改札を抜けた。

向かったのは、慣れ親しんだ大阪市東淀川区の淡路本町商店街だ。

頭上の高いアーケードからは、優しく、どこか切ないメロディが降ってくる。


挿入曲:Carpenters『Yesterday Once More』

カレン・カーペンターの伸びやかな歌声が、昭和の面影を残す商店街の空気に溶け込んでいく。


「Every Sha-la-la-la, Every Wo-o-wo-o,...」


進はゆっくりと歩を進めた。

口ずさむようなリズムに合わせて、進の頭にはさきほど画面越しに繋がった受験生たちの光景が浮かぶ。

淡路という大阪の一角にいながら、自分の声は今、高知の山あいや金沢の街角へと届いている。

かつての大教室よりもずっと広く、それでいて一人ひとりの手元に届く、新しい教育の形。


「……悪くないな」


ふと足を止め、進は閉まった文房具店のショーウィンドウに映る自分を見た。

コロナ禍という荒波に揉まれ、黒板を奪われたときは途方に暮れた。

録画ミスをして落ち込みもした。

しかし、今こうしてカーペンターズを聴きながら歩く夜道は、かつてよりもずっと視界が開けているように感じられた。


失われた昨日(Yesterday)を懐かしむ歌を聴きながら、進が見据えていたのは、画面の向こうに広がる「明日」を生きる受験生たちの姿だった。

進は一つ深く息を吸い込むと、軽やかな足取りでアーケードの先へ踏み出した。


【見えないノイズと、板挟みの悲哀】


しかし、配信という新しい形は、技術的な問題以上に「人間関係」という厄介なノイズを孕んでいた。


対面とオンラインを併用するハイブリッド形式で再開した、ある大学の学内講座。

そこの職員担当者は、極めて感情の起伏が激しく、些細なことで「キレる」人物だった。

進は講義の内容以上に、その担当者の顔色に神経を磨り減らす日々を強いられた。


運の悪いことに、その講座では配信がたびたび途切れるトラブルが頻発した。

マニュアル通り、困ったときは担当者を呼ばねばならない。

進は意を決して電話を入れるが、現れた担当者は不機嫌を隠そうともせず、教室内に険悪な空気が立ち込めた。


講義終了後、進は予備校の営業担当者に窮状を報告した。

その営業担当者も、この職員には以前から手を焼いていた。

「契約の責任者ですから、こちらからも強いことは言いにくくて……」

電話越しに聞こえる彼の声には、疲労と申し訳なさが滲んでいた。


進は、彼が大学と講師の間で板挟みになり、限界まで追い詰められていることを察した。

進は現状だけを淡々と伝え、決して彼を責めないよう言葉を選んだ。

それが、同じ「働く者」としてのせめてもの配慮だった。


しかし、その数ヶ月後。

懸命に調整を続けていた予備校の営業担当者は、ついに心を病んで休職し、そのまま退職してしまった。

一人の誠実な人間が去っていく現実を前に、進の心には深い悲しみが広がった。


ところが、奇妙な転機が訪れる。

ある日、進がその大学へ赴くと、あの「キレやすい担当者」の姿がなかった。

彼は別のキャンパスへと異動になったという。


新しく赴任してきた担当者は、驚くほど穏やかで理知的な人物だった。

進はそれまでの緊張から解放され、ようやく平穏な日々を取り戻した。

そして不思議なことに、担当者が変わってからは、あれほど頻発していた配信トラブルが一度も起きなくなったのである。


目に見える機材の不調さえも、その場に漂う歪んだ「空気」が引き起こしていたのではないか――。

そんな錯覚さえ覚えるほど、教室には静かな調和が戻っていた。

ただ、そんな進に、公務員試験そのものの変容という、より根深い「次の危機」が静かに迫っていた。

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