第1章 母千夜子の死、叔父政夫との確執
1982年
過労で進の母・千夜子が急死。
進は、千夜子の兄である政夫に引き取られる。
政夫は、進の高校進学を認めない。
【凍てつく午後】
進が中学二年生になった立春の日。
暦の上では春が訪れるその日は、進の人生において最も冷酷な冬の始まりとなった。
二限目の休み時間。
静寂を切り裂くように教室へ駆け込んできた担任・伊勢の形相が、すべてを物語っていた。
「伊崎、いるか! 急いで病院へ行くんだ」
白い廊下を抜け、辿り着いた病室。
そこには、無数のチューブに繋がれ、肉体の檻に閉じ込められた母・千夜子の姿があった。
40ミリの脳出血。
「今夜が峠でしょう」
医師の言葉は、氷の楔となって進の胸に打ち込まれた。
まだ母・千夜子は38歳。
若すぎる肉体は、死の縁にありながらも、医師の予想に反して三日間、微かな鼓動を繋ぎ止めた。
病室で、ずっと寄り添う進。
しかし、千夜子が二度とその瞳を開くことはなかった。
最後に千夜子に相対したのは、隣人だった。
回覧板を届け、応対に出てきた進の母・千夜子は、いつにもなく、顔色が悪かった。
ほぼ休みのない毎日。
高血圧の身体は、既に限界を超えていた。
千夜子は、隣人に進のことを話した。
「相変わらず、理屈っぽいの」
そう言って笑う千夜子。
しかし、次の瞬間、千夜子は頭を抱えてうずくまった。
「伊崎さん、大丈夫?」
大丈夫ではなかった。
すぐに隣の家に戻り、救急車を呼ぶ隣人。
救急車が来たとき、もう千夜子は瀕死の状態にあった。
進は、ずっと病院で過ごした。
木曜日に倒れ、今日は土曜日。
ずっと学校を休んでいた。
担任の伊勢が病室にやってきた。
母・千夜子がベッドに横たわり、チューブが繋がっているのを見ると、どうしたら良いのか分からないという表情をした。
しばらく病室にいたあと、深く礼をして病室を去った。
母・千夜子は、日曜日の早朝に息を引き取った。
皆は、もう、薄々覚悟していたことだった。
ただ、現実をこうして突きつけられると、慌ただしく動かざるを得なかった。
その日の早朝。
進は病院のロビーにいた。
テレビからは、衝撃的なニュースが流れていた。
ホテルニュージャパンを焼き尽くす炎の映像。
母を乗せた車が自宅へと向かう。
道中、沈黙に耐えかねた1人がカーステレオのスイッチを入れた。
そこからは「逆噴射」という言葉が淡々と流れていた。
K機長の逆噴射事故。
進が、その衝撃な内容を詳しく知るのは、それからだいぶ時が過ぎてからのことだった。
【「春風夜佑信女」という遺言】
通夜の席。
進は棺の中に眠る千夜子を見つめ続けていた。
死化粧を施された母は、今にも「進、お疲れ様」と微笑みかけてきそうだった。
あの日、進の母・千夜子は、進に
「クルマに気を付けて行ってらっしゃい」
と言った。
それが、進が母・千夜子の声を聞いた最後だった。
奇跡の到来を、神の慈悲を、進はこれ以上ないほど強く願った。
「こんなの嘘だ。こんなことがあるはずがない」
だが、線香の煙はただ虚空に消えるばかりで、奇跡は起きなかった。
葬儀の最中、進の耳に届いたのは
「春風夜佑信女」
という戒名だった。
「夜」の街で働きながら「信」じ抜いた息子を「佑け」、春の風となって逝った母。
それがこの世に残した最後の名前であった。
【主な出来事】
ホテルニュージャパン火災
K機長逆噴射事件




