第2章 叔父・政夫との確執
【叩き上げの暴君】
天涯孤独となった進を引き取ったのは、隣町で工場を経営する叔父の政夫だった。
中卒から這い上がり、裸一貫で成功を掴んだ政夫は、学問を「人生の無駄」と断じる男だった。
「松本まで電車で通えばいい。定期代くらいは出してやる」
その言葉に進は安堵し、希望を抱いた。
しかし、それは慈悲ではなく、進を自らの支配下に置くための準備に過ぎなかった。
進が名門・髙志高校を目指していることを知ると、政夫の本性が牙を剥いた。
「高校など行くな。時間の無駄だ。俺の工場で汗にまみれて働け。それが人生だ」
進は絶望し、担任の伊勢に相談した。
伊勢は進の才を惜しみ、政夫を説得しようと試みた。
しかし叩き上げの自負に凝り固まった男の耳に、教育者の言葉は届かなかった。
「高校なんか行く金がもったいない。それだけの金を稼ぐのに、どれだけ汗水垂らして働かなきゃいけないか。バカらしい」
高校進学の金がもったいない。
下らないことには、金を使いたくない。
政夫は、そう言って聞かなかった。
【待合室の独房、あみんの調べ】
伊勢が差し出した最後の切り札は、私立・真澄ヶ丘高校の特待生枠だった。
「学費が免除される特待生なら、叔父さんも文句は言えまい。タダで高校に行けるんだから。だが、学年三位以内が条件だ」
進の心に再び火が灯った。
しかし、学年3位以内はかなり高い壁だった。
同学年の生徒は約280人。
その中で3位以内だ。
しかも進は、家での勉強を禁じられていた。
進は、松本駅の待合室で勉強することにした。
学校の行き帰り、ここで過ごす。
冬の駅舎。有線放送からは、あみんの『待つわ』が繰り返し流れていた。
皮肉な歌詞が、自身の境遇と重なる。
冷たいベンチ、行き交う旅人の足音。
だが、そこは進にとって唯一の安息地でもあった。
政夫は、車でしか移動しない。
だから、この場所に現れることは万に一つもない。
進は、見つかる恐怖から解放されたその場所で、執念をペン先に込めた。
「何が何でも特待生になる」
進の信念は、目の前の教材に込められた。
進の一学期の中間テストの結果は、学年二位という驚異的な快挙だった。
「これなら特待生になれる」
そう進は思った。
担任の伊勢も喜んだ。
「これで叔父さんを説得できるな」
しかし、現実の壁はさらに高くそびえ立っていた。
【本という名の殉教】
進の担任・伊勢からの提案に、叔父・政夫は激怒していた。
「先生、いい加減にしてくれませんか」
政夫は激怒していた。
「あのね、うちは高校は行かさない方針なんです。前に話しませんでしたか」
伊勢が学費免除の話をする。
しかし、政夫は、「そんなことはどうでも良い」と突き放した。
「金の問題じゃない。高校など行かんでも生きていけるんだ!何度同じことを言わせるんですか」
政夫は特待生の承諾印を、嘲笑とともに拒絶した。
伊勢の説得に対し、政夫は静かにこう言い放った。
「何度でも言います。これは、うちの方針なんです。進をイジメているわけじゃありません。うちには他に2人の息子がいるが、高校なんか行かせません」
伊勢は、高校進学率が今は9割を超えていること、進は学力があるから、高校から大学に進学してほしいことを話した。
しかし、政夫は、それをキッパリと拒絶した。
「うちは、学問をやった奴は皆、不幸になってるんでね。お断りです。周りも、いっぱい不幸にしてるから。もう、うんざりなんですよ。学問とやらは」
伊勢は、今時は工場経営者も高校や大学に行く時代だと話した。
それても政夫は聞かなかった。
「そうやって下らんどうでも良いことばかり勉強して、無駄な金と時間を使って…そんなヒマがあるなら働け。働かざる者食うべからずだ」
伊勢の説得は、失敗に終わった。
その夜。
進の叔父・政夫は、進に非情な宣告を下した。
「今日、しつこい進の担任にハッキリ、キッパリ言ってやった。進も、隠れて勉強してたんだろう。フザケた真似するんじゃない」
政夫は続けた。
「そんなに不幸になりたいのか。あの、ナマクラオバア(進の祖母・智代のこと)のようになりたいのか。そんなにまでして、周りに不幸を振りまきたいのか。どうなんだ」
進は黙っていた。
(この人には、何を言っても無駄だ。)
政夫は続けた。
「進、部屋の隅にあるその本、全部捨てろ。目障りだ」
「……えっ」
「紙を食って生きていけるのか? こんなものは、お前の人生には要らねえんだ」
(どうして?この本は関係ない)
それは、夜の街で働きながら、千夜子が一つひとつ買い与えてくれた「母の化身」とも呼べる書物たちだった。
母が亡くなったときでさえ堪えた涙が、堰を切ったように溢れ出した。
明日には、これらの思い出たちがゴミとして捨てられる。
かろうじて繋がっていた母との絆が、今、断ち切られようとしていた。
「こんなものがあるから、進は高校に行きたくなるんだ。高校に行けば、大学に行きたくなるに決まっている。そうやって、あのババアのような汚らわしい人間が出来上がる。いい加減、気付け、進!」
あのババア…それは進の祖母・智代のことだ。
かつて、政夫の母・智代は、伊崎家の財産を食い潰した。
智代の実家は元庄屋で、智代はお嬢様育ちだった。
だから、家事をほとんどせず、本ばかり読んで、文化人と交流し、散財してしまった。
そのため、伊崎家は貧しかった。
政夫は、それを恨んでいた。
母・智代への恨みは、学問や学歴・学校への恨みに転化していた。
進は、それを受けて、高校進学を諦めさせられたのだ。
進は泣き腫らした目で、本をダンボールに詰めた。
しかし、一冊の本だけを鞄の奥底に隠した。
『挫折で人は強くなる』
この本だけは、どうしても取っておきたかった。
松下幸之助、大山康晴、やなせたかし。
暗闇の中で光を見つけ、絶望を力に変えてきた先人たちの物語。
進は、鞄の中のその一冊を指先でなぞった。
「そうだ。皆、いろんなことを乗り越えてきたんだ」
自分にそう言い聞かせ、彼は唇を噛んだ。
だが、窓の外には依然として、星一つ見えない信州の漆黒の夜が広がっていた。
高校進学という「夢」が、音を立てて崩れ去っていくのを、進はただ、掌の中に残った一冊の重みだけを頼りに耐え忍んでいた。
【漆黒の団欒】
その日の土曜日の夕食。政夫の家の居間では、昨日『宇宙刑事ギャバン』に興じていたのと同じ家族が、テレビを取り囲んでいた。
画面の中では『クイズダービー』が佳境を迎えていた。
はらたいらが鮮やかに全問正解を決める。
一方で、篠沢教授がまたしても的外れな解答を出し、ポカンとした表情を晒している。
教授にすべてを賭けていた出場者が、持ち点を全没収され、天を仰いでいた。
「この教授とやら、つかえねぇな」
政夫が吐き捨てるように言うと、家族たちは
「そうだそうだ」
と追従するように頷いた。
「大学なんか行ったって、このざまだ。世の中を知らんのだ。こういう大人になるなよ。お前たち」
2人の従兄弟が、大きく頷いた。
進は、黙って下を向いていた。
続いて始まったのは『オレたちひょうきん族』だった。
島田紳助が流暢な喋りで笑いを取り、片岡鶴太郎が似ても似つかない近藤真彦の物真似で歌い踊る。
ビートたけしのタケちゃんマンと、明石家さんまのブラックデビルの茶番に、茶の間は爆笑に包まれていた。
しかし、進の心は氷のように冷え切っていた。
テレビから流れる笑い声が、自分を嘲笑う風の音にしか聞こえない。
エンディングに流れる女性歌手の歌声が、どこか現実味を欠いたまま部屋に響く。
進の意識が遠のくなか、叔母が心配そうに声をかけてきた。
「すーちゃん、今日は美味しかった? おばさんね、すーちゃんが麻婆茄子が好きだって聞いてたから作ったのよ」
進は自分が何を口に運んでいたのか、今の今まで全く気づいていなかった。
しかし、叔母の僅かな善意に抗う気力もなく、絞り出すように答えた。
「……美味しかった。ありがとう」
【暗闇の懐中電灯】
翌日、進は「学校行事がある」と嘘をつき、冷たい冬の空気の中へと逃げ出した。
独りになれる場所を見つけ、鞄から唯一守り抜いた本を――『挫折で人は強くなる』を取り出す。
震える指でページを捲った。
若き日の松下幸之助が、結核という死病に冒されながら、休む間もなく働き、病と戦い抜いた日々。
将棋の名人大山康晴が、積み上げた全タイトルを一度は失いながらも、焦土から再起を果たした不屈の記録。
そして、人生に絶望していた若き日のやなせたかしが、暗闇の中で何気なく自分の手のひらに懐中電灯を当てたとき、皮膚の下を流れる赤い血の輝きを見て『手のひらを太陽に』
の詞を紡ぎ出したエピソード。
進は自分の掌を、信州の寒空にかざしてみた。
自分の中にも、まだ熱い血が流れている。
本を捨てられ、言葉を奪われようとしても、この血の流れまでは政夫に止めることはできない。
「……もう少し、粘ってみよう」
絶望の淵で、進は自分自身にそう誓った。
捨てられる運命の書物たちが最後に残してくれたのは、明日を生きるための、微かな、しかし消えない「火」だった。




