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第六章④ 明日に架ける橋―再起の社会人ゼミナール

【斜陽の教室と、新たな航路】


かつて、溢れんばかりの学生で熱気に満ちていた公務員試験予備校。

しかし、容赦ない少子化の波と、皮肉にも好景気がもたらした民間企業への人材流出。

そして深刻な人手不足。

それは、教壇からの景色を変えてしまった。

空席の目立つ教室。

時代の移ろいが、冷酷に映し出された光景だった。


「伊崎先生、社会人向けに舵を切りたいと考えています。経験者採用、そして氷河期世代……。もう一度人生をやり直したいと願う大人たちのためのゼミを、あなたが率いてくれませんか」


予備校からの提案。

それは、かつて自らも「敗者」の烙印を押されながら、法の盾を求めて足掻いた進にとって、断る理由のない宿命のような誘いだった。


【挫折を誇りに変える場所】


集まったのは、若者たちのような「未来への期待」に満ちた顔ぶれではなかった。

そこにいたのは、組織の荒波に揉まれて疲弊した者、不運な時代に翻弄され続けた者――。

背負ってきた重荷の分だけ、その瞳には深い沈黙が宿っていた。


40代の会社員の主婦。

彼女は家事と育児、そして激務の合間を縫ってゼミに通い詰めた。

国税庁の経験者採用試験。

法律の専門試験はなく、問われるのは教養科目と、自らの歩みを言葉にする論作文、そして人間性を見る面接のみ。

「私には、何も武器がないんです」

そう俯く彼女に、進は言い切った。

「あなたが家庭と仕事を両立させ、今日まで戦ってきたその『日常』こそが、何にも代えがたい武器です」

彼女は、自らの人生を論理的に語る術を学び、見事に国税庁への切符を掴み取った。


そして、50代の男性受講生。

彼はかつて、国家公務員と政令指定都市の両方に合格した。

しかし、政令指定都市を選んだのが失敗だった。

職場への不適合から退職。

親の介護もあり、10年以上のブランクを抱えていた。どこの予備校も「合格の見込みなし」と門前払い。

しかし、彼を、進は受け入れた。

「10年の空白は、あなたが自分自身を見つめ直すために必要な時間だった。それを、国家のために活かす道は必ずあります」

かつて合格した場所へ、四半世紀の時を経て「氷河期採用」として返り咲いたその時、男性は進の手を握り、言葉にならぬ涙を流した。


さらに、50代の女性受講生。

新卒で入った会社がブラック企業で、短期離職。以後、派遣と契約社員の不安定な波間に漂ってきた彼女。

「私はずっと、社会の隅っこにいました」

彼女は、神戸市への合格を決めた。

倍率は50倍。

不安定な非正規雇用の日々を耐え抜いた彼女の粘り強さは、市民の痛みに寄り添うための「優しさ」という名の資格へと昇華されたのだ。


【帰り道の旋律】


夜の講義を終え、進は家路に就く電車に揺られていた。

窓に映るのは、講師としての誇りを取り戻し、かつての自分と同じように「再起」を願う人々を送り出した男の顔だ。


進はスマートフォンを取り出し、イヤホンを耳に挿した。

流れてきたのは、サイモン&ガーファンクルの不朽の名作『Bridge Over Troubled Water(明日に架ける橋)』


"Like a bridge over troubled water, I will lay me down." (荒れ狂う激流に架かる橋のように、私はこの身を捧げよう)


荒れ狂う時代の激流の中で、行き場を失い、溺れかけていた受講生たち。

進が教えたのは、単なる試験のテクニックではない。

彼らが向こう岸へと渡るための「橋」の架け方だった。


かつて進自身も、千夜子を失い、親友に背を向けられ、タイ米を噛み締めていた。

あの時、誰も橋を架けてくれなかったからこそ、今の自分がある。


電車が淀川を渡り、街の灯が流れていく。

「明日に架ける橋」の荘厳なピアノの旋律を聴きながら、進は静かに目を閉じた。

教え子たちが掴んだ「新しい人生」が、どうか穏やかなものであるように。

そして、自分もまた、彼らのための橋であり続けられるように。


進の頬を、一筋の温かいものが伝わった。

それは、長い旅路を歩んできた自分への、そして共に闘った同志たちへの、祝福のしずくだった。

だが、そんな穏やかな時間もまた、静かに終わろうとしていた。


【教室の異変、そして「看板」の重み】


だが、そんな穏やかな時間もまた、新たな現実によって塗り替えられていく。

社会人ゼミの成功を受け、予備校から新たな打診があった。

大阪府内にある私立大学の正課講座。

警察官や消防官を目指す学生たちを対象とした学内講義だ。


教壇に立った進の前にいたのは、かつての予備校の受講生たちとは毛色の違う若者たちだった。

やる気に満ちた瞳もあれば、一方で「勉強は大嫌いだが、親に言われて公務員を目指している」という投げやりな空気も混在している。


ある日の講義中、進は教室の後方に異様な光景を見た。

最後列の学生が、あろうことか授業中にカップラーメンを啜っていたのだ。

立ち上る湯気と、教室に漂うジャンクな香りに、進は一瞬言葉を失った。

目が合うと、学生は気まずそうに容器を抱え、逃げるように教室を去っていった。


後日、大学の公務員コース担当教授と、予備校の営業担当者を交えた話し合いの席。

教授は深く溜息をつき、進と営業担当者に頭を下げた。

「申し訳ない。今後、不適切な態度があればすぐ私に伝えてください」

教授の表情には、焦燥の色が混じっていた。

この大学は高い退学率と休学率に悩まされていた。

強く叱りすぎれば学生が辞め、進や予備校の立場を悪くしてしまう。

そして、それは教授自身の学内での立場にも影を落とすことを、進は敏感に察した。


予備校の営業担当者が、「厳しく指導しなければ合格実績は伸びません」と進言した。

すると、教授は重い口を開いた。

「……仰る通りです。ですが、大学としては『こうした専門講座を開講している』という事実自体が、広報上の大きな売りなのです。極論を言えば、合格者数よりも、講座を組んでいる体制そのものが重要なのですよ」


その言葉に進は、教育の現場が抱える別の種類の「歪み」を見た。

実績よりも看板を優先する大学側の本音。

それでも進は、目の前の学生一人ひとりを「実績のための駒」でも「看板のための背景」でもなく、一人の人間として見つめ続けた。


結果は、周囲の予想を大きく裏切るものだった。

そのクラスの学生たちは、試験当日まで進の「超訳」に食らいつき、これまでの実績を大幅に塗り替える内定者数を叩き出したのだ。

大学側は一転して手のひらを返し、コースの増設を依頼。進の担当コマ数も飛躍的に増えていくこととなった。


看板が欲しかった大学、実績が欲しかった予備校。

だが、その狭間で本当に「橋」を渡りきったのは、ラーメンを啜りながら迷走していた、あの不器用な若者たちだった。


【十分間の真剣勝負】


実績を叩き出した進の噂を聞きつけ、今度は別の私立大学から学内講座の打診が舞い込んだ。

しかし、その依頼内容は、進がこれまで経験してきたどの難問よりも奇妙なものだった。


「先生、ガイダンスは『十分』で終わらせてください」


大学の担当者は真顔で言った。

理由は単純明快だった。

「それ以上、彼らの集中力が持たないから」という。

本来、公務員試験の全体像を語るには、どんなに端折っても六十分はかかる。

進はそれを十分という極限まで凝縮するため、血の滲むような工夫を凝らした。


当日、壇上に立った進は、法律や経済といった重厚な専門科目の話を一切封印した。

「SPIやSCOAで受けられる、一発逆転の自治体がある。筆記よりも面接、つまり君たちの人柄が評価される枠があるんだ」

そう、喉を枯らさんばかりに「出口」を示した。


しかし、教室の光景は凄惨だった。

進が命を削って言葉を投げかけている間、多くの学生は机に伏して眠りについていた。

ノートを取る者は皆無。

それどころか、鞄から筆記用具すら出さない者が大半だった。

「ペンを持っていない」という、学びの場ではあり得ない事実に、進は眩暈めまいを覚えた。


「それでも、伊崎先生にお願いできないでしょうか」 担当者の懇願を受け、予備校側でも会議が繰り返された。

「手がかかりすぎる、お断りしよう」と突き放す社員と、「彼らの中にも、まだ火種はあるはずだ」と食い下がる社員。議論は平行線を辿った。


【教育の限界点】


しかし、後日、大学の担当者から漏らされた一言が、予備校側の営業担当者を、そして進をも絶句させた。


「……先生、実は、もっと手前の段階で悩んでいるんです。彼らにどうやって、自主的に『受験申込書』を書かせるか。そして、試験当日にどうやって『試験会場』まで足を運ばせるか……。その方法を教えていただけませんか」


それは、教育や指導という概念を根底から覆す問いだった。

勉強がわからない、解けないという次元ではない。

スタートラインに立つための「靴を履く」ことすら、大学側が代行しなければならない。

合格という「橋」を架ける以前に、橋に向かって歩き出す意志そのものが欠落していた。


営業担当者は、静かに首を振った。

「……それは、私たちが提供できるサービスの範疇を越えています」


その大学での学内講座は、結局、開講されることなく白紙となった。


進は、暗い学内講座の教室を後にしながら、かつて自分が定時制高校の寮で、瓶を拾いながら一字一字、世界史や英語、古文の単語をノートに書きなぐっていた夜を思い出した。

自分を突き動かしていたのは、誰かに与えられた「看板」ではなかった。ここではないどこかへ行きたいという、悲鳴のような渇望だった。


「歩かせることはできても、歩きたいと思わせることはできないのか……」


重い鞄を肩に食い込ませ、進は夕暮れのキャンパスを歩いた。

予備校で救えるのは、せめて「戦う意志」を持つ者だけなのか。

教育者としての深い無力感が、春の冷たい風と共に進の胸に吹き込んだ。

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