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第3章 救済の「もうひとりの少年」と、夜行のメロディ

1982年〜1983年

鹿沢慎之助が現れ、進を引き取る。

高校に行けると喜んだのも束の間、政夫は友人の連帯保証人になり、友人が夜逃げ。

進は大阪の全寮制定時制高校を受験する。

【鹿沢という灯火】


 信州の冷え切った大地に、絶望という名の霜が降り積もっていた。

 伯父・政夫の家での日々は、進にとって「知性の死」を意味していた。

 母・千夜子が命を削って守り抜いた蔵書を、無価値な紙屑として焼却炉に投げ込まれたあの日から、進の心は凍てついていた。


 そんな絶望の底にいた進の前に、ひとりの男が現れた。

 鹿沢慎之助。

 松本で小さな店を営むその男の瞳には、政夫のような怜悧な利己主義の光ではなく、底知れぬ深い哀愁が宿っていた。

 鹿沢もまた、十四歳という若さで母を亡くしていた。

 そして、経済的な理由から学問の道を断念せざるを得なかった。

 叩き上げの成功を誇り、弱者を「自己責任」と切り捨てる政夫とは対照的に、鹿沢は自らが手放さざるを得なかった「夢」の不在を、今も消えない心の傷として抱えていたのである。


「俺たちが、この子を高校に行かせてやる」


 鹿沢の粘り強い、そして魂を削るような説得に、政夫はついに進を解き放った。

 松本への帰還。

 それは進にとって、闇から光への脱出だった。

 鹿沢の妻は「息子が一人増えた」と泣きながら進を抱きしめ、幼い兄妹たちは「新しいお兄ちゃん」の誕生を、無邪気に、そして全身で喜んだ。

 温かい味噌汁の匂い、家族の笑い声に包まれた生活が始まった。

 進が何より嬉しかったのは、夜、自分の机に向かい、本を開くことができる自由があることだ。

 それは尊い奇跡だった。

 一度すべてを奪われた経験を持つ進には、その平穏が痛いほど、そして壊れやすいガラス細工のように感じられた。


【降りかかる連帯保証の影】


 しかし、運命という名の脚本家は、時として悪意に満ちた反復を好む。

 進がようやく「高校進学」という光を掴みかけた矢先、鹿沢家を激震が襲った。

 鹿沢が最も信頼を寄せ、兄弟のように育った幼馴染の親友が、ある日突然、家族もろとも消息を絶ったのだ。


「……夜逃げ、だと」


 鹿沢の絞り出すような声が、冷え切った居間に虚しく響いた。

 親友の身勝手な遁走。

 それは、連帯保証人となっていた鹿沢の肩に、三千万円という当時としては天文学的な負債を突きつけた。

「夜逃げ」――その不穏な響きに、進の脳裏には幼い日の記憶が鮮烈に蘇った。

 かつて岡崎から名古屋へ、母・千夜子と父・俊郎に手を引かれ、闇に紛れて家を捨てたあの夜の記憶。

 追われる者の焦燥、逃げる者の惨めさ、そして喉の奥にこびりつく鉄の味。

 あの時の絶望が、今、恩人である鹿沢の家を侵食しようとしていた。


 債権者との壮絶な折衝の末、何とか分割返済の合意は得られた。

 しかし、月々の返済額は鹿沢の生活基盤を根底から揺さぶるものだった。

「大丈夫だ。進、お前は約束通り高校へ行け。俺がなんとかする」

 鹿沢は崩れ落ちそうな心を必死に支え、無理をして微笑んでみせた。

 しかし、進はその背中を見逃さなかった。

 そこには、隠しようのない疲弊と、最も信じていた友に裏切られたという魂の傷跡が深く刻まれていた。

 鹿沢の妻も、深い溜息をついていた。


【進の苦渋の決断】


 進は、暗闇の中で自問した。

(恩義あるこの家族を、自分の夢のために破滅させていいはずがない。僕がここに居続けることは、この家族の首を絞めることにならないか)


 進は自ら、この過酷な連鎖を断ち切るための道を探し始めた。

 そして見つけ出したのが、大阪にある全寮制の夜間定時制高校の存在だった。

 学費と寮費を全額免除する特別な制度――そこが、彼に許された、そして彼が選ぶべき「最後の砦」だった。


 この頃、進はある思いを持つようになっていた。

 それは、法律を学んで弁護士になりたいという思いだ。

 それは、静かだが消えない「青い炎」のように灯る志だった。

 鹿沢は善良だったが、法律の無知ゆえに苦しんでいる。

 それは、「連帯保証」という悪魔の契約の重さを知らなかったからだ。

 亡き母・千夜子もそうだった。

 母子家庭であれば、市役所に申請すれば、公的支援の手立てがあった。

 千夜子は、それを知らずに命を削って働いた。

 だから、あんなことになってしまった。


「真面目に生きている人が、無知ゆえに不条理に泣かされる。そんな世界を、僕が変える」


 弁護士になる。

 進の思いは固まった。

 自らへの呪縛を解き、恩人を守る。

 そのために、何としても学びたい。

 ただ、幸せな家庭を犠牲にして成功しても、何の意味もない。

 全寮制の定時制高校で学ぶのは、キツいかもしれない。

 でも、それが現在、考えられる最善の道だ。

 修羅の地でも良い。

 己を鍛え抜き、何としても定時制高校から大学に進んで法律家になる。

 それが進の出した、14歳の結論だった。


 進の決意を聞いた担任の伊勢は、しばらく窓の外の景色を眺め、重い沈黙を守っていた。

 やがて、彼は震える声で言った。

「……伊崎。お前なら定時制からでも、必ず大学へ行ける。私は信じている。そこで学んで、立派な弁護士になれ。そして、誰かを救ってやれ」

 その言葉は、師からの免状のように、進の凍えた胸に深く、温かく刻まれた。


【高速バスの『Sweet Memories』】


 大阪での受験に向かう夜行の高速バス。

 車内は微かな振動と、乗客たちの寝息に包まれていた。

 進はシートに深く身を沈め、備え付けのオーディオ機器のイヤホンを耳に差し込んだ。

 チャンネルを回すと、流れてきたのは松田聖子さんの『Sweet Memories』だった。


 カセットテープ特有のわずかなノイズを含んだ、甘く切ない歌声。

 鹿沢さんの家で囲んだ、あの温かい食卓。

 自分を本当の息子だと言ってくれた鹿沢さんの涙。

 妹たちの笑い声。それらを思い出すたび、進の胸は張り裂けそうになった。

 もし今、誰かに「幸せか」と聞かれたら、進はなんと答えるべきだったか。

 家族の温もりを得たことは、人生最高の幸福だった。

 しかし、その幸福を、自分の存在という「重荷」で壊したくないと願い、自ら愛する人々を捨てる道を選んだ。

 この歌は、少年のつく「優しい嘘」を、残酷なまでに美しく暴いていた。

 進は窓の外を流れるハイウェイの光を見つめ、声を出さずに泣いた。


【大阪、春の予感と沈黙】


 定時制高校の受験は、鹿沢の姪である郁代との二人旅となった。

 郁代は勉強が大の苦手だった。

 地元の公立高校は内申点が足りず、受験すら危ういと言われた少女。

 彼女にとって、この定時制受験は「どこにも行く場所がなくなる」ことを回避するための、切実な挑戦だった。

 人気がなく、定員割れの地元の私立高校も受験はした。

 ただ、学費が高いのと「不良が多い」という噂に、大阪の定時制高校のほうに気持ちは傾いていた。


「二人とも、受かってくれよ」

 鹿沢は祈るように二人を送り出した。

 実をいうと鹿沢は、進については心配していなかった。

 ただ、郁代については、その学力の乏しさを誰よりも案じていた。


 試験当日。

 解答用紙を前にした進は、ある種の虚脱感に襲われた。

 配られた問題は、あまりにも、あまりにも平易だった。

 数学、英語、国語……。

 鉛筆を走らせるたびに、満点の確信が積み上がっていく。

 これまで孤独の中で、母が遺した難解な文学や、独学で齧った専門書で鍛え上げてきた「知の筋肉」を使うまでもない。

 すべてが掌の上で転がるように解けていく。

「罠があるのではないか」

 進は何度も読み返した。

「どこかで引っ掛けようとしているに違いない。問題が簡単過ぎる」

 しかし、そこにあるのは、教育の機会を奪われた者たちへの、最低限の「救いの手」としての基本問題ばかりだった。


 試験を終えた教室の外。

 待っていた郁代は、今にも泣きそうな顔で力なく呟いた。

「進君、私、全然わかんなかった。問題の意味すら分からなくて……途中で眠くなっちゃった」


 進は、自分が感じた「簡単すぎる」という確信を、喉の奥深くへと飲み込んだ。

「そうか……お疲れ様」

 ただ短くそれだけを返し、彼は大阪の夕暮れを見上げた。


 定時制という場所。

 そこは、進のように「知を武器に戦おうとする者」もいれば、郁代のように「学びの入り口で立ち往生している者」もいる場所。

 それぞれが、他人には計り知れない重さの荷物を背負って辿り着く、終着駅であり、始発駅でもある。


 明日の合格発表を待つ、大阪の夜。

 進は、母が遺した「春風」のような優しさと、自らが選んだ「修羅の道」の険しさを噛みしめながら、静かに目を閉じた。

 彼の心にある青い炎は、大阪の街の灯りに負けることなく、静かに、だが激しく燃え続けていた。

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