第七章① 斜陽の教室と、摩耗する魂
【砂の城の崩壊】
2025年。かつて公務員試験という名の追い風を孕んで膨らんでいた進の帆は、時代の変遷という無慈悲な凪に捕らえられていた。
大規模な制度改革の波は、進が心血を注いできた「法律」という学問の城壁を、容赦なく削り取っていく。
市役所試験は従来の教養試験を捨て、知能検査に近いSPIやSCOAへと舵を切った。
専門試験を排した「教養区分」が拡大し、国家公務員試験でさえ、知識系科目の配点はわずか6問という寂寥たる数字にまで縮小された。
「来期、法律科目のコマ数は半分になります」
事務局からの通告があるたびに、進の居場所は物理的に奪われていく。
かつて週15時間、喉を血に染めるほど語り尽くした教室は、今や無機質な沈黙に支配されていた。
【第一の戦場:インバウンドの戦慄】
還暦を目前に、進は激減した収入を補うため、派遣登録という未知の戦場へ踏み出した。
最初の派遣先は、会社の代表電話から観光案内まで幅広く請け負うインバウンドのコールセンター。
そこは、法律の論理など欠片も通用しない、速度と効率だけが正義の「戦場」だった。
壁の巨大なモニターには、待機中の受電数が刻一刻と表示される。呼び出し音が鳴り、受電までの秒数が伸びると、フロアには怒鳴り声に近い催促の掛け声が飛び交う。
「取って!」「早く!」 進は必死だった。
少しでも入力を早くしようと、自宅でタイピングを猛練習し、独自のマニュアルまで作成して持ち込んだ。しかし、それが裏目に出る。
「伊崎さん、外部書類の持ち込みは情報漏洩対策で禁止です。常識でしょ?」
上司からの叱責。
さらに、周囲の派遣社員たちからは容赦ない嫌味が飛ぶ。
「パソコン操作、遅すぎじゃない?」
「観光案内なんて臨機応変にやればいいのに、なんでそんなに固いの?」
彼らは、進がかつて数百人の前で法理を説いた講師であることなど、知る由もない。
ただの「使えない高齢の新人」として扱った。
5ヶ月が経とうとする頃、派遣元から「期間満了」という名の戦力外通告を受けた。
残りの消化期間、平成元年生まれの若い責任者は、吐き捨てるようにタメ口で言い放った。
「……てか、交通費かけてまで無理して来なくていいよ、もう」
進は法律論で反論することもしなかった。
ただ、唇を噛み締め、生活費のために最後までその席に座り続けた。
【第二の戦場:断絶の受話器】
次に紹介されたのは、インターネット回線の電話営業。
求人票には「ノルマなし」とあった。
しかし、現実は違った。
フロアの壁には個人の架電数と成約数が張り出され、静かな、しかし逃げ場のない「詰め」が毎日続く。
リストの先にいるのは、大半が独居高齢者だった。「安くなりますよ」という誘い文句は、彼らにとって今や詐欺のトリガーでしかない。
「うちの親父を騙そうとしたな! てめえ、名前を名乗れ! 警察に突き出すぞ!」
怒号とともに叩きつけられる受話器。
恐怖で架電のペースが落ちると、管理システムですべてを把握している上司が背後から囁く。
「伊崎さん、データ止まってるよ。怠けないで」
1ヶ月が限界だった。進は派遣元に事情を話し、身を引く決意をした。
しかし、組織の連携すら取れていないその会社は、退職の手続きをした後も「なぜ今日出勤しないのか」と無神経な電話をかけてきた。
「僕は、何をやっているんだろう……」
心臓の鼓動が耳元で鐘のように鳴り響く。
朝、体が鉛のように重い。
心療内科の診断書に記された文字は、「適応障害」。
それは、正義という鎧が砕け散った男の、敗北の証明のようだった。
【第三の戦場 ベルトコンベアの地獄】
「僕は、何をやっているんだろう……」
言葉を失い、それでも生活のために次に足を踏み入れたのは、宅配便の仕分けアルバイトだった。
巨大な倉庫、絶え間なく流れるベルトコンベア。
そこにお中元の品を、配送先ごとに仕分けて乗せていく。
単純作業のはずだった。
だが、進の手は震え、動きは鈍かった。
次々に流れてくる荷物の波に、思考が追いつかない。
「おい! 止めるなよ!」
「もっと早く動け!」
怒号が響く。
コンベアの行き着いた先で台車に荷物を積み込む作業に回されたが、そこでも進の不器用さが仇となった。
効率を考えたパズルのような積み込みができず、不安定な荷物は崩れかける。
結局、見かねた社員がやってきて、進が積み上げたものをすべて崩し、一から積み直した。
周囲を見渡せば、60代、70代の年配者たちが、流れるような動作でテキパキと働いている。
自分よりも年長の人々にさえ及ばないという、剥き出しの事実。
全身を襲う激痛と、何一つ役に立てないという無力感に、進はわずか3日でリタイアした
【渇かない瞳、FMラジオの慈雨】
薄暗い部屋で、進はただ虚無を見つめていた。
その時、美智子が静かに部屋に入ってきた。
彼女は進の震える肩に、そっと古いブランケットをかけた。
「進君……。少し、横になってなよ」
「……情けないよ、美智子さん。法律を教えて誰かを守るはずだったのに、今は詐欺師と呼ばれて。僕は、空っぽだ」
進が絞り出すように言うと、美智子は少し首を傾げ、部屋の隅にある古いラジオのスイッチを入れた。
FMラジオから流れてきたのは、辛島美登里さんの『あなたの愛になりたい』だった。
♪うれしいこと せつないこと いっぱい感じられるように ♪渇かない瞳を もって ひとは生まれてきた
清らかなピアノの調べと、澄み渡る歌声が、冷え切った進の心を震わせる。
今の進には、奮い立たせる軍歌はいらなかった。
ただ、この切なさを感じていいのだと、傷ついたままの自分でいいのだと許してくれる、柔らかな光が必要だった。
「渇かない瞳……」
進の目から、堰を切ったように熱いものが溢れ出した。
自分を追い詰め、心を石のように固くして耐えてきた日々。
けれど、この歌だけは「悲しんでもいい、泣いてもいい」と語りかけていた。
「自分を許していいのか」
診断書の上に、涙が静かに落ちて滲む。
美智子は何も言わず、進の背中をゆっくりと、一定のリズムで叩き続けた。
冬の足音が聞こえる季節。
進はまだ、このどん底の先に「タロ」という相棒との出会いがあることも、YouTubeという新たな教壇が待っていることも知らない。
けれど、辛島さんの歌声に抱かれ、進は初めて、止まっていた心臓の音を穏やかに鎮めていくことができた。




