第七章② 鏡合わせの告白、そして「名前」のない痛み
【痛みの共有】
適応障害という診断書を前に、石のように固まっていた進の背中。
美智子は、辛島美登里さんの歌声が止んだ後の静寂の中で、ゆっくりと語り始めた。
「進君……。私ね、進君にずっと話せていなかったことがあるの」
それは、進が断片的にしか知らなかった、美智子という一人の女性が「普通」になろうとして、そのたびに砕け散ってきた、長い旅路の記録だった。
【壊れた時計と、逃げ出した夜】
美智子の回想は、故郷・岡山の高校受験から始まった。
数学が壊滅的にできず、第一志望に不合格となった彼女は、進と同じ定時制高校の門を叩いた。
しかし、そこでの寮生活は地獄だった。
男子と違い、女子寮は学年混合の相部屋。
厳格な上下関係のピラミッドの底辺で、1年生の美智子は息を詰めて暮らした。
耐えきれず、1年生のうちに2度、夜の闇に紛れて寮を逃げ出した。
「あの時もね、どうしてもみんなと同じルールで動けなかったの。何が悪いのか分からないのに、いつも誰かに怒られていた」
卒業後、新聞販売所、バスガイド、保険営業……。
職を転々とするたびに体と心を壊した。
彼女を待っていたのは、職場の人間関係だけではない、もっと残酷な「生活」という名の怪物だった。
【暴力の残響と、ファミレスの決別】
最初の転機は、大阪出身の飲食店員との出会いだった。
最初は優しかった男は、同棲を始めた途端、牙を剥いた。
日常的なDV。
逃げ出した美智子を、男はファミリーレストランに呼び出した。
「やり直そう。やっぱ、お前じゃなきゃダメなんだ」
男の背後、店内の有線放送から流れていたのは、やしきたかじんの『やっぱ好きやねん』だった。
♪やっぱ好きやねん やっぱ好きやねん 悔しいけどあかん♪
震える手で冷めたコーヒーを握りしめながら、美智子はその旋律を聴いていた。
かつて愛した男の涙も、切ないメロディも、今の自分を守るためには毒でしかなかった。
美智子は震える声で、しかし明確に拒絶を告げた。
情に流されれば、命が消える。そう本能が叫んでいた。
【「普通」になれない罪】
その後に出会った、生活力のある別の男性との婚約。
彼は「働かなくていい、家を守ってくれ」と言ってくれた。
美智子にとって、それは救いの手に見えた。
しかし、いざ「家事」という戦場に立つと、彼女の脳は反乱を起こした。
何度やっても部屋が片付かない。
計画的な買い物ができない。
料理の段取りを考えようとすると、頭の中が真っ白になる。
「なぜ、こんな当たり前のことができないんだ!」
男性の怒号が響く。
彼は美智子の怠慢を責め、別れを切り出した。
その時、頭の中で鳴り響いていたのは、松山千春の『恋』だった。
♪愛することに疲れたみたい 嫌いになったわけじゃない♪
「嫌いになったんじゃない、ただ、一緒にいるのが苦痛なんだ」
――そう突きつけられたような気がした。
自分が「普通の人」として生きるための機能が欠損しているのだと、突きつけられた夜だった。
【二人の夜明け】
「進君。私、どこに行っても『普通』になれなかった。努力が足りないんだって、ずっと思ってきた。でもね……」
美智子は、適応障害で横になる進の目を見つめた。
「今の進君を見ていると、昔の私を見ているみたいで苦しいの。二人とも、一生懸命なのに、どうしても上手くいかない場所があるだけなんじゃないかな」
進は、美智子の物語を初めて丸ごと受け止めた。
彼女の不器用さは性格ではなく、抗えない「特性」だったのではないか。
そしてそれは、今の自分を苦しめている「適応のしにくさ」と地続きなのではないか。
「……美智子さん」
進は、重い体を起こし、彼女の手を握った。
「僕と一緒に、病院へ行ってみないか。君がずっと苦しんできたことにも、きっと『名前』があるはずなんだ」
窓の外では、夜が明けようとしていた。
かつて「栴檀」の呪縛に苦しんだ進と、生活という戦場で傷だらけになった美智子。
二人の物語は、お互いの弱さを認め合うことで、本当の意味での「治療」へと向かい始めた。
それは、社会という大きな歯車から一度外れたからこそ見つけた、二人だけの新しい歩き方の始まりだった。




