表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/25

第七章② 鏡合わせの告白、そして「名前」のない痛み

【痛みの共有】


適応障害という診断書を前に、石のように固まっていた進の背中。

美智子は、辛島美登里さんの歌声が止んだ後の静寂の中で、ゆっくりと語り始めた。


「進君……。私ね、進君にずっと話せていなかったことがあるの」


それは、進が断片的にしか知らなかった、美智子という一人の女性が「普通」になろうとして、そのたびに砕け散ってきた、長い旅路の記録だった。


【壊れた時計と、逃げ出した夜】


美智子の回想は、故郷・岡山の高校受験から始まった。

数学が壊滅的にできず、第一志望に不合格となった彼女は、進と同じ定時制高校の門を叩いた。

しかし、そこでの寮生活は地獄だった。

男子と違い、女子寮は学年混合の相部屋。

厳格な上下関係のピラミッドの底辺で、1年生の美智子は息を詰めて暮らした。

耐えきれず、1年生のうちに2度、夜の闇に紛れて寮を逃げ出した。


「あの時もね、どうしてもみんなと同じルールで動けなかったの。何が悪いのか分からないのに、いつも誰かに怒られていた」


卒業後、新聞販売所、バスガイド、保険営業……。

職を転々とするたびに体と心を壊した。

彼女を待っていたのは、職場の人間関係だけではない、もっと残酷な「生活」という名の怪物だった。


【暴力の残響と、ファミレスの決別】


最初の転機は、大阪出身の飲食店員との出会いだった。

最初は優しかった男は、同棲を始めた途端、牙を剥いた。

日常的なDV。

逃げ出した美智子を、男はファミリーレストランに呼び出した。


「やり直そう。やっぱ、お前じゃなきゃダメなんだ」


男の背後、店内の有線放送から流れていたのは、やしきたかじんの『やっぱ好きやねん』だった。


♪やっぱ好きやねん やっぱ好きやねん 悔しいけどあかん♪


震える手で冷めたコーヒーを握りしめながら、美智子はその旋律を聴いていた。

かつて愛した男の涙も、切ないメロディも、今の自分を守るためには毒でしかなかった。

美智子は震える声で、しかし明確に拒絶を告げた。

情に流されれば、命が消える。そう本能が叫んでいた。


【「普通」になれない罪】


その後に出会った、生活力のある別の男性との婚約。

彼は「働かなくていい、家を守ってくれ」と言ってくれた。

美智子にとって、それは救いの手に見えた。

しかし、いざ「家事」という戦場に立つと、彼女の脳は反乱を起こした。


何度やっても部屋が片付かない。

計画的な買い物ができない。

料理の段取りを考えようとすると、頭の中が真っ白になる。

「なぜ、こんな当たり前のことができないんだ!」

男性の怒号が響く。

彼は美智子の怠慢を責め、別れを切り出した。


その時、頭の中で鳴り響いていたのは、松山千春の『恋』だった。


♪愛することに疲れたみたい 嫌いになったわけじゃない♪


「嫌いになったんじゃない、ただ、一緒にいるのが苦痛なんだ」

――そう突きつけられたような気がした。

自分が「普通の人」として生きるための機能が欠損しているのだと、突きつけられた夜だった。


【二人の夜明け】


「進君。私、どこに行っても『普通』になれなかった。努力が足りないんだって、ずっと思ってきた。でもね……」


美智子は、適応障害で横になる進の目を見つめた。

「今の進君を見ていると、昔の私を見ているみたいで苦しいの。二人とも、一生懸命なのに、どうしても上手くいかない場所があるだけなんじゃないかな」


進は、美智子の物語を初めて丸ごと受け止めた。

彼女の不器用さは性格ではなく、抗えない「特性」だったのではないか。

そしてそれは、今の自分を苦しめている「適応のしにくさ」と地続きなのではないか。


「……美智子さん」

進は、重い体を起こし、彼女の手を握った。

「僕と一緒に、病院へ行ってみないか。君がずっと苦しんできたことにも、きっと『名前』があるはずなんだ」


窓の外では、夜が明けようとしていた。

かつて「栴檀せんだん」の呪縛に苦しんだ進と、生活という戦場で傷だらけになった美智子。

二人の物語は、お互いの弱さを認め合うことで、本当の意味での「治療」へと向かい始めた。

それは、社会という大きな歯車から一度外れたからこそ見つけた、二人だけの新しい歩き方の始まりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ