第1章 定時制高校進学と、寮生活の日々
1983年〜1986年
進は無事に定時制高校に入学。
そこで美智子に出会う。
進は大学進学費用を必死で貯める。
4年間ですっかり学力が低下し、大学進学が危うくなる。
【聖なる祝宴、そして孤独な越境】
結局、合格の吉報を掌にしたのは進一人だった。
郁代は解答欄を埋められぬまま不合格の通知に沈み、鹿沢慎之助は進の門出を喜びながらも、姪の行く末を案じて深い溜息を吐いた。
自身の14歳での挫折が、郁代の姿に重なって見えたのかもしれない。
連帯保証という目に見えぬ鎖に縛られながら、彼はただ、進という一筋の希望が濁流に飲み込まれぬよう祈るしかなかった。
結局、郁代は、定員割れの地元の私立高校に行った。
意外なことに、不良はほとんどいなかった。
学費の額の大変さに悩まされながらも、郁代は楽しい高校生活を送ることができたのだった。
そんなある日。
進は、郁代の母・鹿沢の姉から家に招待された。
「何の用事だろう」
進は不審に思った。
鹿沢が言った。
「うちの姉貴は、そういうやつだから」
何のことやら分からない。
でも、鹿沢が言うには、鹿沢の姉・郁代の母は根っからの善人だと言う。
鹿沢に促され訪ねた郁代の家で待っていたのは、暗い食卓ではなく、満面の笑みをたたえた郁代の母であった。
彼女は娘の落胆よりも、共に大阪へ挑んだ「身内」の勝利を尊び、温かな祝宴を用意していたのだ。
いっぱい用意されたご馳走。
そこには郁代もいた。
「本当に良かったね。私、地元の私立に受かったから大丈夫」
そうかも知れない。
でも、こんな状況で、他人の幸せを純粋に祈れるのか。
進は、今まで出会った多くの人々を思い出していた。
「これ、本でも買いなさい」
差し出されたのは、決して裕福とは言えない暮らしの中から捻出された図書券だった。
他人の仕合わせを自分のことのように祝える人々の情熱。
進の目には、その紙片が黄金よりも眩しく映った。
母の遺志を抱き、進は一人、夜の高速バスに乗り込んだ。
信州の山影に別れを告げ、バスは重苦しい排気音を響かせて、光と影の渦巻く浪速へと向かった。
【首席の答辞と決意の春】
運命の扉は、大阪の地で静かに開かれた。
全寮制・夜間定時制高校の入学式。
進は、緊張で震える指先を隠しながら演台に立っていた。
入学試験でトップの成績を収めた新入生に与えられた大役、「新入生代表答辞」を読み上げるためだ。
「私たちは、それぞれに事情を抱え、この場所に集いました。しかし、夜に学ぶことは、光を諦めることではありません……」
自らが書き上げた言葉の一つひとつが、自らの退路を断つ宣誓のように、体育館の冷たい空気に溶けていく。
定時制という場所からでも、必ず法曹界への道を切り拓く。
その決意は、首席という結果以上に、進の瞳に鋭い光を宿していた。
【労働と学びの二重奏】
大阪での生活は、夜間定時制高校の宿命ともいえる、労働と学びの二重奏であった。
進は昼間、ある大学の図書館職員として働いた。
静謐な書架に囲まれ、背表紙を整理しながら「いつか自分もこの世界の住人になる」と心に誓う。
日が暮れれば、重い足取りで定時制の教室へ向かう。
定時制高校の男子寮の起床の合図は、早朝6:30に流れる、あの物悲しくもエキゾチックな旋律だった。
挿入曲:久保田早紀『異邦人』
♪子供たちが空に向かい 両手をひろげ……♪ ♪ちょっと振り向いてみただけの 異邦人♪
まだ夜の気配が残る早朝、この曲がスピーカーから流れるたび、進は自分がこの大都会で孤独な「異邦人」であることを再確認した。
信州を離れ、誰にも頼らず、学費と寮費を免除されるために必死に食らいつく日々。
【運命の邂逅】
しかし、そんな進の閉ざされた世界に、柔らかな風が吹き込んだ。
ある日の昼間、大学図書館の受付当番をしていた進のもとへ、一人の少女が書類を届けにやってきた。
「あの、大学の寮からの使いで……これ、お願いします」
それが、上林美智子との出会いだった。
彼女は大学の寮で働き、そこで発生した書類を図書館へ回す役目を担っていた。
その時は事務的なやり取りだけで終わったが、数時間後、夜の高校の教室で、進は驚きに目を見開くことになる。
「あ……さっきの……」
彼女もまた、昼間は働き、夜に学ぶ同志だったのだ。
この再会をきっかけに、二人は少しずつ言葉を交わすようになっていった。
「明日もがんばろうね」
「がんばろう」
天涯孤独な進にとって、学校で交わす美智子との会話は、明日を繋ぎ止めるための細いが決して切れない命綱だった。
【一年生という名の「奴隷」】
孤独を癒やす学校とは対照的に、男子寮は鉄の規律が支配する「軍隊」であった。
同学年の4人部屋、階ごとに学年が分かれたその建物では、上級生の言葉は絶対の法だった。
一年生は廊下で上級生に会えば、即座に足を止め、腹の底から気合を入れた挨拶を絞り出さなければならない。
朝の『異邦人』を流すのも一年生の役目だ。
掃除の放送、食事の準備、さらには出勤時間を告げる放送に至るまで、寮の時計を動かす雑務はすべて一年生の肩にのしかかっていた。
最大の地獄は、定期的に行われる「食事会」だった。
中庭にひちりんが並び、焼肉の煙が立ち込める。
しかし一年生にとって、それは親睦の場ではなかった。
ある日の会で、進はとりわけアクの強い先輩の正面に座らされた。
「おい、伊崎。俺が盛ってやったメシが食えないのか?」
大きな茶碗に山盛りにされた白米。
それを平らげるや否や、間髪入れず次の一杯が叩きつけられる。
限界をとうに超え、喉元まで米が詰まっている進に、先輩は冷酷な笑みを浮かべて「お代わり」を強要した。
進は胃の腑を裂かれるような苦しみに耐え、フラフラになりながら完食した。
完食した瞬間に込み上げたのは、達成感ではなく、人間の尊厳を削り取られた空虚な屈辱だった。
【時代の転換点】
この惨状を知った鹿沢慎之助は激怒した。
「そんな野蛮な教育があるか!」
と寮へ乗り込まんばかりの勢いだったが、進はそれを必死でなだめた。
「いいんです、おっちゃん。ここで事を荒立てたら、僕の居場所がなくなってしまう」
進は、理不尽を理不尽として飲み込み、耐えることで嵐をやり過ごそうとした。
しかし、時代は動き始めていた。
進が二年生に進級する頃、学校側により「悪習へのメス」が入り、上級生による過度な締め付けは急速に影を潜めていった。
かつての「奴隷」だった進たちは、平穏な寮生活を手に入れたのだ。
だが、食堂の片隅で進の同期たちは、皮肉な表情でこうぼやいた。
「今年の二年生はラッキーだな。それに比べて、下に入ってきた一年生は甘やかされすぎだ。俺たちの苦労は何だったんだよ」
理不尽を耐え抜いた者たちが、今度はその理不尽がなくなったことを嘆く。
進はその言葉を聞き流しながら、やはり自分はここでも「異邦人」なのだと感じていた。
誰かを苦しめることで成り立つ秩序など、守る価値はない。
進は静かに茶碗を置き、図書館での仕事へ向かうため、まだ薄暗い廊下へと足を踏み出した。
【それは青い舟】
早朝の静まり返った廊下。
まだ街が眠りの中にいる時間、進は独り、冬の冷たい空気を切り裂くように歩く。
昨日の夜、商店街で聞こえた透明感のある旋律。
進はそれを思い出していた。
挿入曲:松任谷由実『青い舟で(アルバム「Voyager」より』
寮という閉鎖された「船」の中で、ある者は過去を呪い、ある者は特権に固執する。
しかし、進だけは窓の外に広がる「永遠の万華鏡」のような変化を見つめていた。
理不尽な伝統が消え、新しい秩序が生まれる。
その波のしぶきさえも二度と同じ姿はない。
昨日までの苦しみも、今日手に入れた平穏も、すべては東へと進む星の瞬きに過ぎない。
「あなたがいてよかった」
そのフレーズが脳裏をかすめたとき、進の心に浮かんだのは、亡くなった千夜子の顔であり、信州で自分を待つ鹿沢の顔だった。
そして何より、共に夜の学び舎へと向かう美智子の横顔だった。
進は、自分たちを乗せたこの「青い星」が、正しい方角へと導かれていることを信じ、今日も図書館の重い扉を押し開けた。
【主な出来事】
豊田商事社長殺害事件
日航機墜落事故
阪神タイガース優勝




