第2章 定時制高校の日々、初めての模試での絶望
【時代の沸騰】
1985年の夏から秋にかけて、大阪の空気は異常なまでに殺気立ち、そして沸騰した。
6月、寮の目と鼻の先で「豊田商事会長刺殺事件」が起きる。
白昼堂々、マスコミの眼前で繰り広げられた惨劇。
現場周辺は野次馬と警察車両で騒然とし、進は「法」が機能せぬ暴力の生々しさに身を震わせた。
追い打ちをかけるように8月、御巣鷹山に日航機が墜落した。
テレビから流れる絶望的な速報。
実は、進の高校の社会科教師がその便に乗る予定だったが、たまたま予定が変わり、間一髪で難を逃れていた。
「生と死は、紙一枚の偶然で決まる」
その理不尽なまでの現実が進の胸に突き刺さる。
そんな陰惨なニュースをかき消すように、秋の大阪は阪神タイガースの日本一への狂騒に包まれた。
道頓堀に飛び込む若者たち、鳴り止まない六甲おろし。
しかし、狂騒に沸く街の片隅で、進は新聞の片隅に踊る「外国為替」の四文字を冷徹に見つめていた。
【影を落とす「贅沢」の代償】
殺伐とした時代の空気は、寮の内部にも浸食していた。
進の寮友に、山畑という男がいた。
実家からの支援が一切ないはずの彼だったが、なぜかいつもブランド物の服をまとい、贅沢な外食を繰り返していた。
進がその資金源を訝しんで聞き出そうとしても、山畑は
「ちょっといい収入源を見つけてさ」
と薄笑いを浮かべて誤魔化すばかりだった。
ある日、進と同室の上川が、血相を変えて部屋に戻ってきた。
「通帳が……郵便局の通帳がないんだ!10万円以上入ってるんだ」
部屋からの盗難。それは寮生同士の信頼関係を根底から覆す事件だった。
舎監によって全寮生が呼び出され、密室での個別面談が行われる。
疑心暗鬼の霧が廊下に立ち込める中、翌日、山畑が忽然と姿を消した。
三日後。
舎監と寮の幹事から、山畑の自主退学と即時の退寮が淡々と告げられた。
明確な理由は伏せられたが、誰もがその沈黙の意味を悟っていた。
後日、上川が声を潜めて進に明かした。
「伊崎、これだけの話だぞ。……預金、全額返ってきたんだ。山畑の親父さんが払ってくれたらしい」
郵便局のATMの防犯カメラ。
そこに映っていた息子の姿を見たとき、山畑の両親は崩れ落ちるように泣き崩れたという。
「あいつの親、ずっと頭を下げてたよ……」
その言葉を聴きながら、進は暗澹たる思いになった。
一瞬の贅沢という「毒」のために、家族の心まで破壊してしまった山畑。
進は自らの財布にある「1円の重み」を改めて噛み締め、決して道を踏み外さないことを自分に誓った。
【執念の錬金術】
進は、なけなしの全財産をドル預金へと投じた。
為替の変動をチェスの盤面のように注視する日々。
進は、大きな賭けはしなかった。
2円以上の円高になったら預金する。
2円以上の円安になったらおろす。
それがマイルールだった。
数字は少しずつ、着実に増えていた。
ただ、数字が30万円を超えた頃、事件が起きた。
世界を揺るがす「プラザ合意」が発表されたのだ。
急激な円高の奔流。
進は、たまたま奇跡的な直感で、直前に資金を定期預金へと移していた。
九死に一生を得たのだ。
しかし、大金を注ぎ込んだ同室の大村は失意のどん底へ突き落とされた。
進の執念は為替だけに留まらなかった。
彼は毎週、寮の各部屋を回り、一本30円の空瓶を回収する。
毎週1000円のノルマ。
試験前には勉強を教える代わりに得た菓子やジュースを他人に売る、徹底した換金生活。
進はついに、受験料と入学金の目処を立てた。 ただ、初年度の学費を払うには、もう少しだけ、この泥を啜るような努力を続けなければならなかった。
【突きつけられた「0」の烙印】
資金は揃いつつあった。
あとは学力だ。
しかし、定時制高校の寮から大学の図書館勤務へと通い、労働に追われた日々の代償はあまりに大きかった。
4年制である定時制高校の3年目。
大学受験を見据えて初めて受けた1月の模試の結果を手に、進は凍りついた。
「偏差値32。英語・数学、0点」
愕然とした。頭を殴られたような衝撃だった。
瓶を拾い、小銭を稼いできたこの3年間は、知性を退化させるための時間だったのか。
「定時制高校進学」という決断の重さが、母を亡くしたあの日以上の暗い影となってのしかかる。
【夜の静寂と、微かな福音】
深夜の寮。
消灯後の暗がりのなかで、進はただ天井を見つめていた。
昼間の図書館勤務で使い果たした体は鉛のように重く、心は模試の結果という冷徹な数字に切り刻まれている。
挿入曲:レベッカ『Maybe Tomorrow』
寮の誰かが小さく鳴らしていたのか、それとも自分の記憶が再生した幻聴か。
NOKKOの切なくも力強い歌声が、進の鼓膜を震わせた。
♪汗にまみれてただがむしゃらで 夢はまた遠い1日だった♪
♪だけど明日はきっといいこと あると信じてたいの Maybe Tomorrow♪
ひとりぼっちで歩き始めたあの日から、もう振り返ることはできない。
灰色の日常に行き詰まっても、あきらめることだけは許されなかった。
「……0点なら、あとは上がるだけだ」
夜に吸い込まれそうになる心を、歌詞の一節が繋ぎ止める。
偏差値32。
それは現在地であって、目的地ではない。
進は暗闇の中で、静かに、しかし固く拳を握りしめた。
明日もまた、瓶を貰い、そして参考書を開く。
その先にしか、光はないのだと自分に言い聞かせながら。




