第七章③ オルゴールの旋律と、名前を授かった日
【止まっていた時計が動き出す】
数日後、進と美智子は街の喧騒から少し離れたビルの一角にある、メンタルクリニックのドアを叩いた。
清潔感のある待合室に一歩足を踏み入れると、そこには外界の毒気を抜くような、穏やかな空気が満ちていた。
絶え間なく流れているのは、オルゴールの音色だ。
流行歌や少し懐かしいニューミュージックの旋律が、金属的な響きを排した優しい音の粒となって、二人の肩の力を抜いていく。
「美智子さん、これを……」
進に促され、美智子は受付で渡された厚めの記入シートに向き合った。
「子供の頃の様子」
「忘れ物の頻度」
「対人関係での違和感」
美智子は、これまで「自分の至らなさ」として心の奥底に封印してきた記憶を、一つひとつ丁寧に手繰り寄せ、質問に答えた。
それは、自分の過去を「罪」ではなく「事実」として整理する、初めての作業だった。
シートを受付に提出すると、40代くらいの落ち着いた女性スタッフが、静かにそれを受け取った。
【40代の女医と、記録される独白】
「伊崎美智子さん、診察室へどうぞ」
呼ばれた先には、穏やかな眼差しを湛えた、40代くらいに見える女性医師が待っていた。
「初めまして、美智子さん。今日はよく来てくださいましたね」
診察が始まると、女医は美智子が書いたシートに目を落としながら、ゆっくりと問いを重ねた。
「お買い物の計画を立てるのが難しかったり、片付けの途中で何をしていいか分からなくなったりしますか?」
「……はい。いつも、頭の中が霧がかかったようになってしまって」
美智子の言葉に頷きながら、女医の指はリズミカルにキーボードを叩き、診察内容をパソコンのモニターに刻んでいく。
進は、その無機質な打鍵音の中に、美智子がこれまでの人生で流してきた「説明のつかない涙」が吸い込まれていくような、不思議な安堵感を感じていた。
女医はキーボードを叩く手を止め、椅子を回して美智子を真っ直ぐに見つめた。
「美智子さん。まだ今日一度お話ししただけですので、確定的な診断を下すことはできません。ですが……」
一呼吸置いて、女医は告げた。
「これまでのお話を聞く限り、発達障害の特性、その疑いが非常に強いと思われます」
その瞬間、美智子の表情がふわりと緩んだ。
「障害」という言葉が、今の彼女にとっては救済の響きを持っていた。
(私は、怠けていたんじゃなかった。努力が足りないんじゃなかった。ただ、そういう仕組みを持って生まれてきただけだったんだ)
重い荷物をようやく下ろした旅人のように、彼女の瞳に光が戻った。
「次回、さらに詳しく検査をして、これからの過ごし方を一緒に考えていきましょう。次回の予定はいかがですか?」
女医の問いに、美智子はしっかりと頷き、次回の予約を済ませて診察室を後にした。
【時代遅れの男と、新しい風】
ロビーに戻り、会計を済ませて椅子に腰を下ろした時だった。
待合室に流れていたオルゴールの曲が変わった。
挿入曲:河島英五『時代遅れ』
オルゴールには歌詞はない。けれど、進の脳裏には、かつて何度も聴いたあの不器用な男の歌が、鮮明な言葉となって浮かび上がった。
♪目立たぬように はしゃがぬように 似合わぬことは無理をせず ♪人の心を見つめ続ける 時代遅れの男になりたい
「……いい曲だね、進君」
隣で美智子が小さく微笑んだ。
進は、診断書を握りしめて立ち尽くしていた自分と、家事ができずに責められ続けてきた美智子の姿を、その旋律に重ねた。
効率や数字を求められ、歯車として完璧であることを強いられる現代。
そこに適応できず、弾き飛ばされた自分たちは、世間から見れば確かに「時代遅れ」なのかもしれない。
けれど、不器用でもいい、
目立たなくてもいい。
自分たちの特性という「盾」を正しく持ち、似合わぬ無理をせず、ただお互いの心を見つめ合って生きていく。 それは、かつての「栴檀」の呪縛からも、今の「適応障害」という重圧からも、二人を解き放つ新しい生き方の宣言のように聞こえた。
「行こうか、美智子さん」
「うん」
クリニックの自動ドアが開くと、そこには夕暮れの柔らかな光が広がっていた。
進は、美智子の手をしっかりと握った。
時代遅れの男と女は、自分たちの歩幅で、新しい明日へと歩み出した。
【深夜のスーパー、二人のパズル】
クリニックを出た後、進は仕事に急ぐ。
こんな日も仕事はする。
会社員ではないので、仕事は不定期だ。
仕事帰り、進は深夜のスーパーに立ち寄った。
蛍光灯の光が静かに反射する店内で、進の手は迷いなく「見切り品」の棚へと伸びる。
買い物は、進にとって高度なパズルのようなものだった。
美智子には、抗えない「特性」としての好き嫌いが多い。
納豆、ワサビ、マヨネーズ。もずくやキュウリ、梅干しに昆布。
さらに歯が弱いため、固いものも避けなければならない。
「これなら、柔らかく煮れば食べられるかな……」
慎重に吟味しながら、籠には半額のシールが貼られたひき肉や豆腐、そして美智子の楽しみである栄養ゼリーをいくつか入れた。
生協の宅配で届いた安い基本食材と、これら見切り品を組み合わせるのが進の腕の見せ所だった。
【台所の調和】
帰宅後、進はすぐに台所に立った。
まな板を叩くリズミカルな音とともに、安くて栄養があり、何より美智子の口に合う「美味い食事」が形作られていく。
その傍らで、進は風呂の準備をし、洗濯機を回し、時折、散らかった部屋の片付けを並行してこなしていく。
「進君、あのね、今日こんなことがあったのよ」
美智子が台所の入り口に立ち、今日あった楽しかったことを語り始める。
進は、炒め物をしながら、あるいは洗濯物を干しながら、「へえ、それは良かったね」と笑顔で返す。
進からも、仕事での出来事やニュースの話題を振ってみるが、美智子はふいっと視線を逸らしたり、返答がなかったりする。
彼女にとって、興味のない話題は脳を素通りしていく。
かつての進なら、そんな彼女の態度に寂しさを覚えたかもしれない。
しかし、今は違う。
(いいんだ。彼女が今、笑って話せている。それだけで、ここは聖域なんだ)
二人だけの、不器用で、時代遅れの、けれど確かな幸せ。
台所から漂う温かな湯気の中に、進がずっと探し求めていた「正解」が、確かに存在していた。
【台所の調和と、静かなまなざし】
台所から漂う温かな湯気の中に、進がずっと探し求めていた「正解」が、確かに存在していた。
夕食を終え、美智子が満足げに寝室へ引き上げた後、進は一人、リビングのソファでスマートフォンを開いた。
画面の中で再生されたのは、ある愛犬家が投稿しているゴールデンレトリバーの動画だった。
飼い主が話しかけても、犬は自分の気になる匂いを追いかけてどこかへ行ってしまう。
けれど、ふとした瞬間に戻ってきては、無防備な顔で飼い主の膝に頭を預ける。
その、言葉を超えた純粋なやり取りを眺めながら、進の口元に自然と笑みがこぼれた。
(……似ているな)
進は、ふと寝室の方へ視線をやった。
自分の興味があるときだけ熱心に語り、興味が逸れればふいっとどこかへ行ってしまう美智子。
世間一般の「対等な対話」という枠組みに当てはめれば、それは不成立なのかもしれない。
けれど、言葉のキャッチボールが成立することだけが、愛の証明ではない。
「期待」という重荷を下ろし、彼女の特性を丸ごと受け入れてみれば、その自由奔放で無垢な姿は、ただそこにいるだけで愛おしい、一匹の愛犬の存在に近いように思えた。
彼女は彼女のままでいい。
進は、スマートフォンの電源を切り、暗くなった画面に映る自分の穏やかな顔を見つめた。
誰かに理解されるための人生ではなく、目の前の「命」を慈しむための人生。
進は、静かに部屋の明かりを消し、深い安らぎの中で眠りについた。




