表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/25

第八章① 名古屋の残響と、寝息の共鳴

【夢の迷宮】


その夜、進は深く、底知れぬほど深い眠りに落ちた。

夢の中の進は、まだあの「派遣」という名の戦場にいた。

受話器からは絶え間なく罵声が鳴り響き、平成生まれの社員からの冷酷な叱責が、冷たいつぶてのように降り注ぐ。

(……まだ、終わらないのか)

重い足取りで事務所を出た進が、とぼとぼと夜道を歩いていた、その時だ。


突然、視界がパッと弾けるように明るくなった。

冷たいコンクリートの景色は消え、そこには何十年も前の、懐かしい名古屋の街並みが広がっていた。

轟音とともに、名鉄パノラマカーの真っ赤な車体が目の前を走り抜けていく。

ふと横のショーウィンドウを見ると、進は絶句した。

映っていたのは、白髪の混じった現在の自分ではなく、小学校入学前の、あの頃の小さな自分だった。


「今日は暑いね、進」


隣には、あの時と同じ、若々しい千夜子が立っていた。


【選ばれなかった者たちの啓示】


「ママ……。亡くなったはずじゃ……」

進の戸惑いを気にする風もなく、千夜子は優しい手つきで進の頭を撫でた。

「進は、大きくなったら、何になりたい?」

夢の中の自分は何と答えればいいのか分からず、言葉に詰まった。

すると千夜子が、遠くを見つめるような目で代わりに答えた。


「教える仕事が良いかな」

「……」

「進はね、凸凹でこぼこだから、気を付けないといけないね」


凸凹。昼間のクリニックで聞いたような言葉に、小さな進は思わず聞き返した。

「どういうこと?」


「人にはね、向いていることと向かないことがあるの。これからは、それを選べるようになるのよ。……パパやママは、選べなかったの」

千夜子の声には、時代という抗えない荒波に飲み込まれていった者たちの、深い哀しみが宿っていた。 「選べなかったの?」

「そうよ。選べなかった。だから進は、選ばなきゃダメよ。約束してくれる?」


進が強く頷くと、千夜子は真っ直ぐに進の瞳を覗き込んだ。

その眼差しは、あの日の予言者のように鋭く、同時に慈愛に満ちていた。

「ママには見えるの。大人になった進が。でもね、全然違う進が2人いるのよ」

「えっ」

「すごく生き生きとして輝いている進と、合ってない場所で落ち込んでる進。……いい、進。合ってない場所に行っちゃダメよ!」


【暗闇の寝息】


その叫びが鼓膜を震わせた瞬間、進は跳ねるように目を覚ました。

真夜中の静寂。窓からはかすかな月光が差し込んでいる。


「……あ、あ」


まだ夢の余韻で心臓が激しく波打っている。

その静寂の中で、進はある音に気づいた。

すーっ、すーっ……。

規則正しい、穏やかな寝息。

すぐ傍らには美智子が眠っている。

だが、その寝息は美智子のものよりもずっと小さく、どこか幼い響きを持っていた。


実は、こういうことは結婚前から何度もあった。

進はいつも「古いアパートの隙間風か、自分の気のせいだ」と言い聞かせてきた。

だが、今夜のそれはあまりに鮮明だった。


「……進君、起きてるの?」


不意に、美智子が目を覚ました。

進は震える声で、彼女に問いかけた。

「美智子さん……寝息が聞こえないか。僕たちの他に、誰かいるような……」


美智子は闇の中でじっと耳を澄ました。

やがて、彼女は静かに、しかし確信を持って頷いた。 「うん……聞こえるよ。進君。ずっと前から、時々聞こえていたよ」


二人の「凸凹」を肯定してくれた、見守るようなその寝息に包まれながら、進はもう一度目を閉じた。

合っていない場所からは、もう立ち去っていい。

自分の物語の主人公として生きるための覚悟が、静かな闇の中で、ゆっくりと進の胸に満ちていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ