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第3章 聖域からの呼び声と、匿名の善意

1986年〜1987年

進は、偏差値32から61まで上げて黎明大学合格。

【焦土に芽吹く決意】

 偏差値32、英語・数学0点。

 絶望的な数字を突きつけられてなお、進の心の火は消えなかった。

 むしろ、その焦土の中から新しい決意が芽吹いていた。


 進を鼓舞したのは定時制高校の教頭だった。

 教頭もまた、この定時制高校で働きながら黎明大学へと現役合格を果たした先達である。

「君は僕の後輩になる男だ」

 その言葉の裏には、生活困窮者を対象とした独自の学資貸与制度

 ――初年度の学費を卒業後の後払いで良いとする「跳ね橋」が存在した。


 しかし、進路面談の席で一人の教師は冷淡に言い放った。

「伊崎、現実を見ろ。定時制から黎明の法学部なんて、前例がない」。

 進が俯きかけたその時、横にいた別の教師が机を叩いた。

「前例がないなら、伊崎が作ればいい。私は、こいつの目に宿る光を信じますよ」。


 その一言が、静かな奇跡を呼んだ。

 普段、「冴えない」と揶揄されていた英語教師・山崎が放課後の補習を買って出たのだ。

 ジャージ姿でぼそぼそと話す山崎は、いざ教壇に立つと豹変した。

 辞書を一切開かず、難解な過去問を物語のように解体していく圧倒的な語学力。

 後に山崎が定年退職後、ニュージーランドへ移住し第二の人生を謳歌することなど、この時の進はまだ知る由もなかった。


【魂の叫びと、人としての絆】

 定時制高校4年の夏になった。

 模試の成績は少しずつ上がっていた。

 夏休みが終わる頃、3科目の総合偏差が初めて50に達した。

 早朝1時間の学習、休日の予備校自習室。

 でも、黎明大学に入れる実力には遥か及ばなかった。

 そんなとき、毎年恒例の校内生活体験発表会の時期がやってきた。

 進は、なぜか無性に出てみたくなった。

 今までの過去を語り、整理をつけ、次に進みたい。

 母子家庭の困窮、母の突然の死、叔父に捨てられた母の形見の本。

 鹿沢に救われたこと、定時制高校に入った経緯。

 そして、弁護士になりたいという切実な夢。

 それを洗いざらい全て皆の前で語り、整理をつけて次に踏み出したい。


 進が演台で熱く語った「真実」は、聴衆の心を震わせた。

 校内、県大会と勝ち進み、ついに全国大会の舞台へ。

 惜しくも優勝は逃したが、栄えある「労働大臣賞」を受賞した。


 そのニュースがラジオや新聞で報じられると、進の元に不思議な現象が起きた。

 見知らぬ人々から、次々と支援金が寄せられたのだ。

 その多くが、名前も告げぬ匿名の善意だった。


 挿入曲:海援隊『人として』

 夜の学生寮、届いた現金封筒の山を前に、進の脳裏にはこの旋律が流れていた。


「人として 人に出会い…人として 人に傷つき …それでも 人しか 愛せない」


 自分を傷つけたのも人だったが、崖っぷちの自分を掬い上げてくれたのも、また人だった。

 寄せられた支援金で、進は、中古品てはあったが、大学生活に不可欠な家電一式を揃えることができた。

 それは、見知らぬ誰かから託された「未来への期待」そのものだった。


【宿命の試験日、母の命日】

 恩師の献身と世間の善意を背負い、進は狂ったように机に向かった。

 毎週日曜日は、必ず大阪市内の予備校の自習室で勉強した。

 有料だったが、模試をバックで申し込むと月に3回まで無料で使えた。

 そこには、浪人生と思われる人達もいた。

 進は、こういう環境で学習しないと甘えてしまうと自らを鼓舞した。

 進の偏差値は秋には55になり、年末には60に到達した。

 そして最後に受けた模試では、偏差値は61に初めて黎明大学の合格可能性がB評価になった。


【祝祭の陰の予感】

 卒業を目前に控えたある日、寮の恒例行事として学年全員で映画を観に行くことになった。

 選ばれたのは、世界中で社会現象を巻き起こしていた『トップガン』だった。


 映画館の暗闇の中、寮生たちの多くはトム・クルーズ演じるアメリカ軍兵士の勇姿に酔いしれた。

 戦闘機が轟音とともに空を切り裂くスリル、美しい女性教官との恋。

 上映終了後、ロビーには興奮した仲間たちの声が響き渡った。

「最高だったな!」

「俺もあんな風に飛んでみたいぜ!」


 しかし、独り進だけは、胸のざわつきを抑えられずにいた。

 スクリーンに溢れていたのは、あまりに鮮やかで、あまりに「好戦的」な高揚感だった。

 これほどまでに軍への憧憬を煽る物語が熱狂的に受け入れられる背景には、時代の不穏なうねりがあるのではないか。


(……アメリカでは、入隊希望者が増えるだろうな。そして近いうちに、アメリカはきっと、新しい戦争を始める)


 その予感は、数年後の湾岸戦争という形で現実となるのだが、今の進にそれを口にするつもりはなかった。

 ここで「不条理」や「危機感」を語っても、祝祭に沸く仲間たちには届かない。

 正論が時として無力であることを、進はこれまでの半生で痛いほど学習していた。


 進は、熱狂の中にいる友人たちに薄く微笑みかけながら、独り静かに、夜の大阪の街へと歩き出した。


【試された1日、それから】


 運命の入試当日。

 それは母・千夜子の5回目の命日でもあった。

 会場を包む凛とした空気。

「絶対に合格する」

 進は、そう思いながら試験会場に入った。

 答案用紙が配られた。

 緊張が最高潮に達した。

 配られた問題は予想を遥かに超える難解さだった。

「全然分からない…」

 進の手応えは皆無に等しかった。

 試験終了後、彼は逃げるように校門を飛び出した。

 受験者を労うイベントにも誘われたが断った。

 そんな気分にはなれなかった。


 実は、進はもう1つ、大学を受験していた。

 本当はもっと受けたかったが我慢した。

 理由は3つあった。

 まず、受かっても黎明大学以外の大学は夜間しか経済的に通えなかった。

 それと、受験料が出せなかった。

 1つ併願先を増やせば、25,000円余分にかかる。

 これは、進にとって痛かった。

 更に、勤務先を沢山休めなかった。

 だから西畿大学2部しか受けなかった。

 もし、黎明大学が無理なら、西畿大学の2部に行く。それが、進の考えだった。


 黎明大学の試験から一日。

 併願していた西畿大学2部の合格発表に向かう。

 仕事が終わってから訪問したので、掲示板は片付けられていた。

 進は、事務局に向かった。

 事情を話すと、中に入れてくれた。

「少々お待ちください。調べますね」

 ドキドキする瞬間。

「その番号、ありました」

 自分の番号があった。

 初めての「肯定」

 心は依然として黎明大学の恐怖に怯えていた。

 だが、心が軽くはなった。

 これで行くところはある。

 それだけでも、救いだった。


 挿入曲:オフコース『思いのままに』

 暗い帰りの車窓。震える手でウォークマンの再生ボタンを押す。


 定時制だから、貧しいからと、自分の行く道を誰にも止めさせはしない。

 山崎先生の知識、教頭の期待、そして匿名の支援者たち。

 そのすべてを背負って、自分は自分だけの調べを歌いきった。

 その自負が、凍えた心に火を灯した。


【黎明の光】


 三週間後。寮のポストに重厚な封筒が届いていた。

 震える指で封を切ると、そこには本物の光が記されていた。


「黎明大学法学部 合格」


 その文字を見た瞬間、進の耳の奥であのコーラスが再び鳴り響いた。

 誰の真似でもない、自分だけの「歌」を歌い続けた少年の勝鬨。

 進の視線の先には、法曹界へと続く白亜の道が、眩いばかりに伸びていた。


【鉄板越しの告白】


「おい伊崎、合格おめでとう! 今日は俺が焼き肉をおごってやる。腹一杯食え!」

 同じ寮の同級生が、自分のことのように破顔して進の肩を叩いた。

 連れて行かれたのは、煙が立ち込める大衆的な焼き肉店だった。

 じゅうじゅうと音を立てる肉の香りが、極限の緊張の中にいた進の身体をゆっくりと解いていく。


 網の上の肉をひっくり返しながら、同級生がふと真面目な顔をして口を開いた。

「……実はさ、お前に黙ってたことがあるんだ。本当は言うつもりなかったんだけどな」


 進が箸を止めて見つめると、彼は少し照れくさそうに続けた。

「実はお前が必死に勉強してる間、俺とあと二人の寮の仲間で、近所の神社にずっと願掛けに行ってたんだよ。定期的にさ。お前が絶対に黎明に受かるようにってな」


 進は言葉を失った。

 試験前、勉強を教える引き換えに菓子やジュースをもらい、それを金に変えることばかりを考えていた自分。

 他人の好意さえも「換金対象」としてしか見られなかったほど、生活と合格に飢えていた自分。

 そんな自分の背中を、仲間たちは何も言わず、ただ静かに、祈りとともに見守ってくれていた。


「……なんだよ、それ。俺、そんなの全然知らなくて……」


 視界が急速に滲んでいく。

 鉄板の熱気のせいではない。

 自分は一人で戦っていると思っていた。

 孤独な荒野を走っていると思っていた。

 だが、振り返ればそこには、名前も出さずに祈ってくれる友がいた。

 進は、溢れ出す涙を拭おうともせず、友が焼いてくれた肉を口に運んだ。

 その味は、これまでの人生で食べたどんなものよりも温かく、そして力強かった。



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