第八章① 名古屋の残響と、寝息の共鳴
【夢の迷宮】
その夜、進は深く、底知れぬほど深い眠りに落ちた。
夢の中の進は、まだあの「派遣」という名の戦場にいた。
受話器からは絶え間なく罵声が鳴り響き、平成生まれの社員からの冷酷な叱責が、冷たい礫のように降り注ぐ。
(……まだ、終わらないのか)
重い足取りで事務所を出た進が、とぼとぼと夜道を歩いていた、その時だ。
突然、視界がパッと弾けるように明るくなった。
冷たいコンクリートの景色は消え、そこには何十年も前の、懐かしい名古屋の街並みが広がっていた。
轟音とともに、名鉄パノラマカーの真っ赤な車体が目の前を走り抜けていく。
ふと横のショーウィンドウを見ると、進は絶句した。
映っていたのは、白髪の混じった現在の自分ではなく、小学校入学前の、あの頃の小さな自分だった。
「今日は暑いね、進」
隣には、あの時と同じ、若々しい千夜子が立っていた。
【選ばれなかった者たちの啓示】
「ママ……。亡くなったはずじゃ……」
進の戸惑いを気にする風もなく、千夜子は優しい手つきで進の頭を撫でた。
「進は、大きくなったら、何になりたい?」
夢の中の自分は何と答えればいいのか分からず、言葉に詰まった。
すると千夜子が、遠くを見つめるような目で代わりに答えた。
「教える仕事が良いかな」
「……」
「進はね、凸凹だから、気を付けないといけないね」
凸凹。昼間のクリニックで聞いたような言葉に、小さな進は思わず聞き返した。
「どういうこと?」
「人にはね、向いていることと向かないことがあるの。これからは、それを選べるようになるのよ。……パパやママは、選べなかったの」
千夜子の声には、時代という抗えない荒波に飲み込まれていった者たちの、深い哀しみが宿っていた。 「選べなかったの?」
「そうよ。選べなかった。だから進は、選ばなきゃダメよ。約束してくれる?」
進が強く頷くと、千夜子は真っ直ぐに進の瞳を覗き込んだ。
その眼差しは、あの日の予言者のように鋭く、同時に慈愛に満ちていた。
「ママには見えるの。大人になった進が。でもね、全然違う進が2人いるのよ」
「えっ」
「すごく生き生きとして輝いている進と、合ってない場所で落ち込んでる進。……いい、進。合ってない場所に行っちゃダメよ!」
【暗闇の寝息】
その叫びが鼓膜を震わせた瞬間、進は跳ねるように目を覚ました。
真夜中の静寂。窓からはかすかな月光が差し込んでいる。
「……あ、あ」
まだ夢の余韻で心臓が激しく波打っている。
その静寂の中で、進はある音に気づいた。
すーっ、すーっ……。
規則正しい、穏やかな寝息。
すぐ傍らには美智子が眠っている。
だが、その寝息は美智子のものよりもずっと小さく、どこか幼い響きを持っていた。
実は、こういうことは結婚前から何度もあった。
進はいつも「古いアパートの隙間風か、自分の気のせいだ」と言い聞かせてきた。
だが、今夜のそれはあまりに鮮明だった。
「……進君、起きてるの?」
不意に、美智子が目を覚ました。
進は震える声で、彼女に問いかけた。
「美智子さん……寝息が聞こえないか。僕たちの他に、誰かいるような……」
美智子は闇の中でじっと耳を澄ました。
やがて、彼女は静かに、しかし確信を持って頷いた。 「うん……聞こえるよ。進君。ずっと前から、時々聞こえていたよ」
二人の「凸凹」を肯定してくれた、見守るようなその寝息に包まれながら、進はもう一度目を閉じた。
合っていない場所からは、もう立ち去っていい。
自分の物語の主人公として生きるための覚悟が、静かな闇の中で、ゆっくりと進の胸に満ちていった。




