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第八章② 帰還する日常、そして「タロ」との再会

【砂噛む現場の悲鳴】


窓の外では、春を予感させる柔らかな日差しが、予備校の無機質な廊下を照らしていた。

講義を終えたばかりの進は、懐かしい顔と対面していた。

数年前、必死の面持ちで教壇を見つめていた受講生の一人が、今では立派な中堅公務員となり、近況報告に訪れていたのだ。


しかし、再会の喜びも束の間、元受講生がこぼした言葉に進は息を呑んだ。

「進先生、実は……現場が、本当に苦しいんです」


かつては「安定の代名詞」だった公務員の世界。

その足元で、何かが静かに、だが決定的に崩れ始めているという。

「法律を体系的に学ばずに現場に入る子が増えています。研修は駆け足で、実務に追われ、昇進試験に向けた勉強なんて、もはや過去問を根性で暗記するだけの『お経の読経』ですよ」


元受講生は、力なく首を振った。

「意味も分からず数字や文言を丸暗記して……。辞める人はまだ多くはないですが、みんな死んだ魚のような目で、昇進試験という名の苦行に耐えています。これじゃあ、市民を守るための法律が、自分たちを縛る鎖でしかない」


進の脳裏に、これまでの歩みが去来した。

「……現場で迷える彼らを、そのままにはしておけないな」


【ネットで見つけた「相棒」】


「YouTube……か」


呟いた言葉は、期待と同時に重い課題を進に突きつけた。

いざカメラの前に座ってみると、長年培ってきた「講義のスタイル」が、画面越しではあまりに硬く、重すぎることに気づいたのだ。

疲れ果てた若手職員たちが、仕事終わりに進の真剣な顔つきで法律の講義を聞きたいだろうか。


「もっと親しみやすく、かつ本質を突く形はないものか……」


進は夜遅くまでパソコンに向かい、ヒントを探してネットの海を彷徨っていた。

すると、あるハンドメイド作家のサイトで、一つのパペットが目に留まった。

柔らかな毛並み、ふっくらとしたマズルの形、少し垂れた右耳の角度。


「……タロ?」


進の記憶が、一気に母と暮らした松本市の記憶に引き戻される。

近所の家の軒先でいつも自分を待っていた、あの雑種犬。

学校帰りに会うと、タロはいつも尻尾を振り、無条件の親愛を示してくれた。

進にとってタロは、言葉のいらない唯一の理解者だった。


進は吸い寄せられるように、そのパペットを注文した。


数日後、届いた箱を美智子と一緒に開けた。

「あら、進さん、可愛らしいじゃない。どうしたの、これ?」

美智子が微笑みながら、パペットの頭を指先で撫でた。


「タロだよ。ネットで見つけたんだ。不思議なもんだな……タロはもう、ずいぶん前にいなくなってしまったけれど。まさかこんな形で、また一緒に仕事をすることになるとは」


進はパペットを自分の手にはめ、そっと動かしてみた。

指先に伝わる柔らかな感触が、かつてタロの頭を撫でた時の温もりと重なる。


【人生の扉】


プロジェクトの準備を整え、進は書斎の窓を開けた。夕暮れの風に乗って、近隣の家からだろうか、竹内まりやさんの歌声が微かに流れてきた。


挿入曲:竹内まりや『人生の扉』


♪朝がまた来るたび ひとつ歳を重ね 気がつけば五十路を 超えた私がいる♪

♪ I say it's fine to be 60 ♪ You say it's nice to be 70


50代の終盤を迎え、適応障害という深い谷を経験した進の心に、その歌詞が静かに染み入る。

かつてのように、何百人の前で大声を張り上げるエネルギーはないかもしれない。

けれど、年齢を重ねたからこそ、失敗したからこそ、伝えられる「優しさ」がある。


「タロ。お前が語るんだ。法律は、お経じゃない。人を守るための温かい知恵なんだって」


進はパソコンのカメラの前に立ち、タロを構えた。

「さあ、出番だぞ。法律の勉強で泣かされている若手たちを、一緒に助けに行こうか」


進がタロの口をパクパクと動かすと、画面の中の小さな犬が、まるで命を吹き込まれたかのように元気に跳ねた。

人生の扉を一つ潜り抜けた男の、新しい「講義」が今、始まろうとしていた。

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