第5章 オイルショックの予言
【血脈の交錯と「正義」の反転】
その日、進の母・千夜子は、震える手で受話器を握りしめていた。
進はその姿を、部屋の隅からじっと見つめていた。
黒い電話機から漏れ聞こえる、見知らぬ祖母や叔母の泣き声。
それは悲しい声ではなかった。
「良かった。無事でいてくれて良かった」
という喜びの涙声だった。
母・千夜子は、駆け落ち後に初めて居場所を実家に知らせたのだ。
それは、進が初めて「信州」という母の親戚を意識した瞬間だった。
千夜子の背中は、いつまでも小さく震えていた。
時を同じくして、進はもう一人の親戚に遭遇した。
それは父・俊郎の弟の慶彦だった。
慶彦は、進にとっては叔父にあたる。
今週、慶彦が、富山からやってくるというのだ。
アパートの前にそのクルマは停まった。
慶彦は、大手自動車メーカーの部長代理だという。
凄く豪奢な、革張りのシートの威厳に満ちた大型車が来るだろう。
そう父・俊郎も、母・千夜子も想像していた。
ところが、そこに停車していたのは、驚くほど小回りの利く、実用性だけを考えた大衆車だった。
一番驚いたのは、父・俊郎だった。
「慶彦、お前、稼いでいるんだから、もっといい車に乗ったらどうなんだ。こんな安っぽい車にわざわざ乗らなくても…」
車内に乗り込むなり、父は不満げに言った。
狭い後部座席で母の膝の上に座っていた進は、父の言葉に「見栄」を感じていた。
叔父は、俊郎の言葉をバッサリ切り捨てた。
「……そんなこと言ってるから、兄貴は親父から愛想を尽かされるんだよ」
叔父の声は穏やかで、それでいて毅然としていた。
「兄貴、あんたは大学の経済学部で何を学んできたんだ」
「えっ」
叔父が続ける。
「中東の情勢が怖いんだよ。石油が止まれば、この国の経済なんて一瞬で干上がる。俺たちは今、凄く危ない立場なんだよ」
「何を言ってるんだ?慶彦。お前、大会社の役職持ちじゃないか」
父・俊郎の言葉に、叔父・慶彦は呆れたように言う。
「石油が止まったら、うちの会社は終わりなんだよ。下手したら、潰れるかもしれない。」
「そんなこと、あるわけないだろ。考えすぎだ」
俊郎が、笑って言う。
慶彦は続ける。
「ビジネスマンはね、最悪の事態を常に考えて動くんだよ。まあ、兄貴は、そういうことが昔から苦手だよな。姉さんも苦労されているんじゃないですか」
叔父・慶彦の言葉に、母・千夜子は何も答えなかった。
ただ、図星だった。
千夜子は、俊郎にほんの少しでいい、こういう感覚が宿ってほしいと願わざるを得なかった。
「中東」
「イスラエル」
「石油」
進の耳に飛び込んできたそれらの言葉。
それは、進にとっては最初、何のことだか分からない言葉だった。
しかし、叔父の横顔に宿る確信に満ちた光を見たとき、進は直感した。
この叔父は、まだ誰も見ていない「冷酷な未来」を正確に射抜いている。
「……中東って、どこ?」
進の小さな問いに対し、叔父は答えなかった。
ただ、燃費の良い小さな車は、狂乱の時代の隙間を縫うように、静かに、そして確実に進んでいった。
進は、叔父の持つ「予測する力」に、言葉にならない憧憬を抱いた。
【オイルショックと崩れ去る砂の城】
昭和48年の冬。
叔父の予言は、あまりに凄まじいな形で的中した。
第四次中東戦争。
その戦火の影響は、瞬く間に海を越えた。
そして、進たちが住む岡崎の街からも色を奪い去った。
テレビの深夜放送が消え、街中のネオンが落ちる。
進が通う保育園でも、紙や洗剤が貴重品になった。
昨日までの「正義」は、一夜にして瓦礫と化した。
かつて友人のヒロシが誇っていた「排気ガスを出すかっこいい車」は、今や「ガソリンを浪費するかっこ悪い車」に落ちぶれていた。
叔父が乗っていたような「燃費の良い小さな車」こそが正解だった。
進は、手のひらを返したように変わる世間の空気を、冷ややかな目で見つめていた。
(やっぱり、みんなは何も分かっていなかったんだ)
ただ時代の雰囲気だけに流され、酔っていた大人たちの浅はかさ。
それは、インフレという名の怪物に飲み込まれていった。
アパートのラジオからは、井上陽水の『傘がない』が流れていた。
進はその歌詞を聞きながら、母・千夜子の背中に張り付く切実な絶望を感じ取っていた。
母にとっての「今日の雨」は、世界情勢などという高尚なものではなかった。
文字通り、明日食べるものがないという空腹の雨だった。
狂乱物価の波は、崖っぷちの生活を送る進の家庭を、容赦なく押し潰しにかかった。




