表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/25

第二章② 母千夜子の死、叔父政夫との確執

1982年

過労で進の母・千夜子が急死。

進は、千夜子の兄である政夫に引き取られる。

政夫は、進の高校進学を認めない。

【凍てつく午後】


進が中学二年生になった立春の日。

暦の上では春が訪れるその日は、進の人生において最も冷酷な冬の始まりとなった。

二限目の休み時間。

静寂を切り裂くように教室へ駆け込んできた担任・伊勢の形相が、すべてを物語っていた。

「伊崎、いるか! 急いで病院へ行くんだ」


白い廊下を抜け、辿り着いた病室。

そこには、無数のチューブに繋がれ、肉体の檻に閉じ込められた母・千夜子の姿があった。

40ミリの脳出血。

「今夜が峠でしょう」

医師の言葉は、氷の楔となって進の胸に打ち込まれた。

まだ38歳。

若すぎる肉体は、死の縁にありながらも、医師の予想に反して三日間、微かな鼓動を繋ぎ止めた。

しかし、千夜子が二度とその瞳を開くことはなかった。


彼女が息を引き取ったとき、病院のロビーでは不吉なニュースが流れていた。

ホテルニュージャパンを焼き尽くす炎の映像。

世界は無慈悲にも動き続けていた。

母を乗せた車が自宅へと向かう道中、沈黙に耐えかねてカーステレオを入れた。

そこからは、「逆噴射」という不穏な言葉が淡々と流れていた。

進の日常もまた、取り返しのつかない速度で墜落していったのである。


【「春風夜佑信女」という遺言】


通夜の席。

進は棺の中に眠る千夜子を見つめ続けていた。

死化粧を施された母は、今にも「進、お疲れ様」と微笑みかけてきそうだった。

奇跡の到来を、神の慈悲を、進はこれ以上ないほど強く願った。

だが、線香の煙はただ虚空に消えるばかりで、奇跡は起きなかった。


葬儀の最中、進の耳に届いたのは「春風夜佑信女」という戒名だった。

「夜」の街で働きながら「信」じ抜いた息子を「たすけ」、春の風となって逝った母の、それがこの世に残した最後の名前であった。


【叩き上げの暴君】


天涯孤独となった進を引き取ったのは、隣町で工場を経営する叔父の政夫だった。

中卒から這い上がり、裸一貫で成功を掴んだ政夫は、学問を「無駄な虚飾」と断じる男だった。

「松本まで電車で通えばいい。定期代くらいは出してやる」

その言葉に進は安堵し、希望を抱いた。

しかし、それは慈悲ではなく、進を自らの支配下に置くための序曲に過ぎなかった。


進が名門・髙志高校を目指していることを知ると、政夫の本性が牙を剥いた。

「高校など行くな。時間の無駄だ。俺の工場で泥にまみれて働け。それが人生だ」

進は絶望し、担任の伊勢に縋った。

伊勢は進の才を惜しみ、政夫を説得しようと試みた。しかし叩き上げの自負に凝り固まった男の耳に、教育者の言葉は届かなかった。


【待合室の独房、あみんの調べ】


伊勢が差し出した最後の切り札は、私立・真澄ヶ丘高校の特待生枠だった。

「学費が免除される特待生なら、叔父さんも文句は言えまい。だが、学年三位以内が条件だ」

進の心に再び火が灯った。

家での勉強を禁じられた彼は、松本駅の待合室を臨時の書斎に変えた。


冬の駅舎。有線放送からは、あみんの『待つわ』が繰り返し流れていた。


♪待つわ いつまでも待つわ♪


皮肉な歌詞が、自身の境遇と重なる。冷たいベンチ、行き交う旅人の足音。

だが、そこは進にとって唯一の安息地でもあった。

車移動しかしない政夫が、この場所に現れることは万に一つもない。

進は、見つかる恐怖から解放されたその場所で、執念をペン先に込めた。


結果は、学年二位という驚異的な快挙だった。

「これなら特待生になれる」

伊勢も喜んだが、現実という名の壁はさらに高くそびえ立っていた。


【本という名の殉教】


「金の問題じゃない。高校など行かんでも生きていけるんだ!」

政夫は特待生の承諾印を、嘲笑とともに拒絶した。

そしてその夜、進の魂を粉砕する宣告を下した。 「進、部屋の隅にあるその本、全部捨てろ。目障りだ」

「……えっ」

「紙を食って生きていけるのか? こんなものは、お前の人生には要らねえんだ」


それは、夜の街で働きながら、千夜子が一つひとつ買い与えてくれた「母の化身」とも呼べる書物たちだった。

母が亡くなったときでさえ堪えた涙が、堰を切ったように溢れ出した。

明日には、これらの言葉たちが塵芥として捨てられる。

母との絆が、物理的に断ち切られようとしていた。


進は泣き腫らした目で、一冊の本だけを鞄の奥底に隠した。

『挫折で人は強くなる』

松下幸之助、大山康晴、やなせたかし。

暗闇の中で光を見つけ、絶望を力に変えてきた先人たちの物語。 進は、鞄の中のその一冊を指先でなぞった。


「そうだ。皆、いろんなことを乗り越えてきたんだ」


自分にそう言い聞かせ、彼は唇を噛んだ。

だが、窓の外には依然として、星一つ見えない信州の漆黒の夜が広がっていた。

高校進学という「夢」が、音を立てて崩れ去っていくのを、進はただ、掌の中に残った一冊の重みだけを頼りに耐え忍んでいた。


【漆黒の団欒だんらん


その日の土曜日の夕食。政夫の家の居間では、昨日『宇宙刑事ギャバン』に興じていたのと同じ家族が、テレビを取り囲んでいた。


画面の中では『クイズダービー』が佳境を迎えていた。

はらたいらが鮮やかに全問正解を決める一方で、篠沢教授がまたしても的外れな解答を出し、ポカンとした表情を晒している。

教授にすべてを賭けていた出場者が、持ち点を全没収され、天を仰いでいた。

「この教授とやら、つかえねぇな」

政夫が吐き捨てるように言うと、家族たちは

「そうだそうだ」

と追従するように頷いた。


続いて始まったのは『オレたちひょうきん族』だった。

島田紳助が流暢な喋りで笑いを取り、片岡鶴太郎が似ても似つかない近藤真彦の物真似で歌い踊る。

ビートたけしのタケちゃんマンと、明石家さんまのブラックデビルの死闘に、茶の間は爆笑に包まれていた。


しかし、進の心は氷のように冷え切っていた。

テレビから流れる笑い声が、自分を嘲笑う風の音にしか聞こえない。

エンディングに、山下達郎のメロディが流れ始めた。


「DOWN TOWNへ繰り出そう DOWN TOWNへ繰り出そう」


原曲ではなく、聴き慣れない女性歌手のカバーが、どこか現実味を欠いたまま部屋に響く。

進の意識が遠のくなか、叔母が心配そうに声をかけてきた。

「すーちゃん、今日は美味しかった? おばさんね、すーちゃんが麻婆茄子が好きだって聞いてたから作ったのよ」


進は自分が何を口に運んでいたのか、今の今まで全く気づいていなかった。

しかし、叔母の僅かな善意に抗う気力もなく、絞り出すように答えた。

「……美味しかった。ありがとう」


【暗闇の懐中電灯】


翌日、進は「学校行事がある」と嘘をつき、冷たい冬の空気の中へと逃げ出した。

独りになれる場所を見つけ、鞄から唯一守り抜いた本を――『挫折で人は強くなる』を取り出す。


震える指でページを捲った。

若き日の松下幸之助が、結核という死病に冒されながら、休む間もなく働き、病と戦い抜いた日々。

将棋の名人大山康晴が、積み上げた全タイトルを一度は失いながらも、焦土から再起を果たした不屈の記録。

そして、人生に絶望していた若き日のやなせたかしが、暗闇の中で何気なく自分の手のひらに懐中電灯を当てたとき、皮膚の下を流れる赤い血の輝きを見て『手のひらを太陽に』

の詞を紡ぎ出したエピソード。


(手のひらを太陽に透かしてみれば、真っ赤に流れる僕の血潮……)


進は自分の掌を、信州の寒空にかざしてみた。

自分の中にも、まだ熱い血が流れている。

本を捨てられ、言葉を奪われようとしても、この血の流れまでは政夫に止めることはできない。


「……もう少し、粘ってみよう」


絶望の淵で、進は自分自身にそう誓った。

捨てられる運命の書物たちが最後に残してくれたのは、明日を生きるための、微かな、しかし消えない「火」だった。

【主な出来事】

ホテルニュージャパン火災

K機長逆噴射事件

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ