第4章 クモの巣とスーパーカー、そして大岡越前
【クモの巣の街と、拒絶される真実】
昭和45年。
進は、保育園という小さな社会に放り込まれた。
そこで進は、自分と他者との間にある決定的な「断絶」を思い知る。
実は、以前から周囲は薄々気付いていた。
でも、進がハッキリ自覚したのは、この時が初めてだった。
他の子供たちは、色とりどりの遊具に興じ、砂場で泥団子を作っていた。
しかし進はただ一人、フェンスの隅でアリの行列を見つめていた。
アリが触覚を触れ合わせ、情報を伝達する法則。
それを確かめることが、進にとっての一番の関心事だった。
ある日、母に連れられて歩いた商店街で、進は街灯の隙間に張られたクモの巣を見つけた。
それは、夕日に照らされて銀色に輝く、精緻なトラップだった。
「……ママ。商店街って、クモの巣みたいだね」
進がそう告げた時、母の顔に困惑が走った。
進の脳内では、既に独自の理論が高速で回転していた。
「商店街は、ママの財布の中身を食べちゃうんでしょ? クモの巣みたいに、通りかかった人を捕まえて、サイフの中身を空っぽにするんだ」
母は苦笑し「交換」について説明した。
「あのね、進。商店街はクモの巣とは違うのよ」
「どうして」
「商店街はね、お金と欲しいものを交換するの。お店の人が得して終わりじゃないの」
進はふ~んと言って聞いている。
納得していないみたいだった。
「でも、商店街のお店って、クモの巣みたいに、できるだけいっぱいお客さんのサイフの中身が欲しいんでしょ」
「そうだけど…」
「だったらクモの巣だよ。待ち伏せして、食べちゃう。いっぱいお金を使わせたら勝ちだよね」
進の問いは、商業というシステムの根源的な強欲さを突いていた。
母はそれ以上答えなかった。
進は、大人が「綺麗事」という名の薄い膜で世界を覆い隠そうとしていることを知っていた。
進にとって、世界は生き残りを賭けた戦いに見えていた。
母・千夜子は、進の成長ぶりに喜びながらも、その早熟さと独特な発想に戸惑っていた。
【スーパーカー・ブームの冷笑】
その頃、世の中は熱狂の渦中にあった。
ランボルギーニ・カウンタック、フェラーリ、ポルシェ。
少年たちは空想のサーキットを駆け抜け、色鮮やかなメンコを叩きつけては、その異国の金属塊に己の夢を投影していた。
「見てよ進! カウンタックだよ。排気ガスをいっぱい出して走るんだ、かっこいいだろ!」
友人のヒロシが自慢げに突き出してきたメンコ。
そこには、進の目から見れば要らないクルマが描かれていた。
ランボルギーニ・カウンタック。
進にはそれが、到底この日本の、岡崎の街にはには相応しくないシロモノだった。
「……なんで、煙がいっぱい出るとかっこいいの?」
進の声は、熱狂に水を差す氷水のように冷たかった。
ヒロシの興奮が、理屈という名のメスで解体されていく。
「だって、すごいスピードが出るんだぜ!」
「ケムリがいっぱいだと、カッコいい理由だよ。ちゃんと教えてよ」
ヒロシは、そんなこと、どうでも良かった。
皆がカッコいいと言っている。
だからカッコいいのだ。
それで何が悪いのか。
進が続けて言う。
「そんな車、この街の細い道で走れるの? 」
ヒロシは黙っている。
「町中で、スピードを出したら捕まっちゃうよ。それに二人しか乗れないじゃん。つまんない車」
進にとって、それは単なる「事実」の羅列だった。
道具には目的がある。
目的を果たせない道具は、進にとって価値がないものだった。
それなのに、値段が高いクルマなんて、分けが分からなかった。
「お前とは遊ばない!」
顔を真っ赤にして走り去るヒロシの背中を見送りながら、進は不思議な孤独を感じていた。
「僕、おかしいこと言った?」
保育園の先生が、進に「ヒロシ君に謝りなさい」と言った。
進は絶対に嫌だと言う。
「どこがどう間違っているの?」
「ケムリをいっぱい出すクルマがなんでカッコいいの。教えて」
先生は答えられなかった。
「なら、謝らなくていいよね」
先生はただ黙っていた。
進の周囲からは、一人、また一人と友人が消えていった。
「理屈っぽくて可愛くない」
「あいつと話すと楽しくなくなる」
大人たちの社交辞令も、子供たちの「ごっこ遊び」も、進の前ではつまらない正体を露呈した。
どうしても、ごっこ遊びをしたいという友に、進は
「大岡越前ごっこならやってもいい」
と話した。
砂場を綺麗に均す。
均すときは皆、大岡越前のテーマをハミングする。
そこにむしろを敷く。
じゃんけんで勝つと代官になれる。
負けると裁かれる側だ。
ミカン箱に座る代官役の子が、「おもてをあげい」と言う。
「そのほう、そうい(相違)ないか」
「めっそうもございません、おだいかん(代官)さま」
対話が続く。
「そのほう、しちゅうひきまわし(市中引き回し)。うちくび、ごくもん」
「おぶぎょうさま」
「ひったてい」
「おぶぎょうさま、おゆるしを」
それが大岡越前ごっこだった。
意外にも、乗ってくれる友達は何人かいた。
この様子を目にした保育園の先生は目を丸くし、進の不思議なキャラクターに戸惑うのだった。




