第一章③ 継父木島との日々
1975年〜1980年
継父木島との生活に進は疲弊してしまう。
母・千夜子は継父木島と離婚に至る伏線となる。
【歪んだ鏡の家】
木島との三人での生活。
それは、夜の帳に消えていく母の背中を見送る日々に終止符を打ち、温かな家庭という名の港へ辿り着くための再出発であるはずだった。
しかし、その新居の扉の向こうに待っていたのは、安らぎではなく、じわじわと真綿で首を絞められるような地獄の予感であった。
木島という男は、義務教育を終えると同時に左官の世界へ身を投じた叩き上げの職人だった。
その硬い手には誇りがあったはずだが、胸の奥底には、学歴という名の拭いがたい劣等感が澱のように溜まっていた。
「中卒」というレッテルを恐れるあまり、彼は歪んだ形で自らの知性を誇示しようと躍起になった。
彼は家でニュース番組しか見なかった。
活字という、彼にとっての「読めない迷宮」を避け、流れてくる映像と音声だけで手軽に武装しようとしたのだ。
【ブラウン管越しの虚飾】
茶間に据えられたテレビ。
その青白い光に照らされながら、木島は今日も画面を凝視していた。
イラン・イスラム革命。
黒い法衣を纏った指導者ホメイニ師が民衆を熱狂させる。
木島はそれを見て、世界を理解したような傲慢な表情で頷く。
しかし、その傍らで図鑑や書物を読み耽ってきた進にとって、木島の知識はあまりに空虚で、砂上の楼閣に過ぎなかった。
木島は知らない。
なぜ近代化を急いだパフレビー国王が王座を追われたのか。
何が敬虔な民衆の怒りに火をつけたのか。
そして、千年以上も続くシーア派とスンニ派の血塗られた対立の根源を。
テレビが映し出すのは表面的な事象の断片であり、その背後に流れる歴史の重奏を、木島は読み解く術を持たなかった。
やがて時代は、アメリカ大使館人質事件から、イラン・イラク戦争という泥沼の戦乱へと突き進んでいく。
画面の中では、サダム・フセインが勇ましく兵士を鼓舞していた。
【迷い込んだ沈黙】
ある日の夕暮れ。木島は現場仕事の疲れからか、茶間の座椅子で深く首を垂れ、ウトウトと眠りに落ちていた。
時刻は午後7時半を過ぎた頃。
彼が熱心に見ていたはずのニュース番組はとうに終わり、画面には華やかな歌番組が映し出されていた。
「現在 過去 未来 あの人に逢ったなら 私はいつまでも 待ってると伝えて」
「ひとつ曲がり角 ひとつ間違えて 迷い道くねくね」
(渡辺真知子『迷い道』より)
テレビから流れる軽快なリズムと、渡辺真知子の伸びやかな歌声。
ふと目を覚ました木島は、自分が「知性の鎧」としていたニュースが終わり、流行歌が流れていることに一瞬狼狽した。
その困惑を打ち消すように、彼は再びサダム・フセインについて、聞かれもしない解説を傲慢な口調で語り始めた。
【知識の城壁と無垢なる一矢】
その時だった。
進の口から、無邪気かつ残酷な問いが漏れた。
「ねえ、お父さん。サダム・フセインとホメイニ師が、どうしてあんなに仲が悪いか知ってる? シーア派って何? スンニ派とどう違うの?」
沈黙が部屋を支配した。
木島は答えられなかった。
言葉を失い、口を半開きにしたまま凍りつく。
自分を「無能な父」と同じ種だと断じた大人たちの理不尽な論理に抗うため、ひたすら知識の城を築いてきた進にとって、それは純粋な知識の確認であり、同時に自らの存在証明でもあった。
【少年の講義と、沈黙の断罪】
木島が口ごもるのを見計らったように、進は淡々と、しかし淀みなく「講義」を始めた。
「シーア派はね、預言者ムハンマドの血を引くアリーの子孫だけを正統な指導者だと考えている人たちのことだよ。でもスンニ派は、実力や合議で選ばれた人を認めるんだ。お父さん、今のイラン・イラク戦争は、その宗教的な対立に加えて、シャットゥルアラブ川の領有権争いが絡んでいるんだよ。複雑だよね」
木島の顔が、屈辱で赤黒く染まっていく。
進はそれに気づかぬふりをして、さらに高い壁を突きつけた。
「じゃあお父さん、イランのモサデク政権がどうして倒されたか知ってる? CIAが関与した『アジャックス作戦』についても教えてくれる? あと、石油の国有化が世界経済にどんな影響を与えたと思う?」
進は、自分が図書館で貪るように読んだ知識を、一つひとつ丁寧に、そして残酷に披露してみせた。
答えを待つまでもなく、進はその背景にある国際政治の力学までを解説し終えた。
「お父さん、ニュースだけ見てても、こういう背景を知らないと本当のことは見えてこないんだね」
【歪んだ復讐劇の幕開け】
中学生にも満たない子供に、自らの知識の薄っぺらさを白日の下に晒されたことは、木島にとって言葉に尽くせぬ屈辱だった。
小学生に、公衆の面前(家庭という密室)で徹底的にバカにされたのだ。
惨めさといたたまれなさは、やがて煮えくり返るような憎悪へと変質していった。
左官の親方として現場を統率し、荒くれ者たちを黙らせてきた男のプライドは、少年の鋭すぎる一矢によって無惨に引き裂かれた。
その日から、木島の進に対する視線には、明らかな毒が混じり始めた。
自分を論理で凌駕する「生意気なガキ」を屈服させるには、腕力か、経済的な抑圧しかない。
木島はそれを本能で理解した。
それは執拗で、逃げ場のない嫌がらせという名の、陰湿な復讐劇の幕開けであった。
まさに、一つ曲がり角を間違え、二人の運命は「くねくね」と歪んだ迷い道へと引きずり込まれていったのである。
【出来事】
イラン・イスラム革命
イラン・イラク戦争




