表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
4/47

第3章 五百円の許し

【無戸籍の影と五百円の洗礼】


 進は3歳になった。

 ある日、進は母・千夜子の手に引かれ、岡崎市役所の重厚な石造りの玄関をくぐった。

 夏の日差しがアスファルトを焼き、陽炎の向こうでセミの声が歪んでいた。

 母の掌はいつもより湿り、微かに震えていた。

挿絵(By みてみん)

「子供が生まれましたので、届け出に来ました」

 千夜子が言う。

「おめでとうございます。いつお生まれになりましたか」

 受付の職員が浮かべた事務的な笑顔。

「3年前です」

「えっ」

 場の空気が凍りついた。

「あの、もう一度お聞きしますが…お生まれになったのは3年前でよろしいでしょうか」

 千夜子が答える。

「そうです。この子ですから」


「少々お待ちください」

 戸惑う職員。

 しばらくして奥から、年配の職員が現れた。

 その職員は、かなりこわばった表情で千夜子に声をかけた。

「こちらでお話しをお聞きしましょう」

 職員のなみなみならぬ雰囲気。

 それを、進は決して見逃さなかった。


 進は別室の相談コーナーに座らされた。

 そこには手垢で汚れた『ぐりとぐら』の絵本が置かれていた。

 ただ、進の興味を惹いたのは物語ではない。

 磨りガラスの向こう側に映る影の動きだった。

 母が何度も、何度も腰を折り、深く頭を下げている。

 その影は、進の瞳に強く焼き付けられた。


(ママは、僕のために謝っている)


 進は幼心に理解した。

 自分はこの3年間、この国においては「存在しない人」だったのだ。

 父・俊郎との夜逃げ、名門の家柄からの失踪、そして嵐の夜の凄惨な難産。

 それらの濁流に呑まれ、母・千夜子は生きるのに必死だった。

 だから、進が生まれたことを「届け出」することすら忘れていた。

 いつかしないといけないことは、理解していた。

 しかし、日々の生活に追われ、それどころではなかっのだ。


 どのくらい経ったのだろう。

 部屋のドアが開いた。

 職員と一緒に、母・千夜子が立っていた。

 職員が言った。

「しっかり、幸せになるんですよ」

 千夜子は、頭を下げ続けた。


 帰り道。

 母・千夜子は進に話しかけた。

「ママ、悪いことしてしまったの」

「悪いことって?」

 進が尋ねた。

「進が生まれたことをね、役所に言ってなかったの」

「それって、良くないの?」

「絶対にダメ。ママ、たぶんバツを受けるわ」

 進はよく分からなかった。

 ただ、母・千夜子の悲しそうな横顔が辛かった。


 数日後、郵便受けに届いた一通の封書。

 そこには「秩序罰」「過料」という、聞き慣れない言葉が躍っていた。

 母・千夜子はその封筒を開けた。

 中から1枚の紙が出てきた。

「右の者、秩序罰(過料)に処す」

 千夜子は、震える指でその文字をなぞり、息を飲んだ。


「右の者、秩序罰(過料)に処す。金 五百円也……」


「500円?」

 やむを得ない事情が考慮されたのだ。

 千夜子の払うべき過料は、500円で済んだのだ。

 当時の過料の最低額、それが500円だった。

 千夜子には刑罰も無かった。

 500円払えば、全て終わり。

 かつて父・俊郎が酒代で給料を半分以上を散財し、家計を絶望の底に突き落とした、あの「9000円」の記憶が思い出された。

 やりくりしないといけなかった日々。

 でも今回は、500円。

 それはあまりにもささやかな、慈悲のような額だった。

 あの年配の職員は、丁寧に千夜子の話を聞いてくれていた。

 確かに、一見その態度は武骨だった。

 でも、内心ではやむを得ない事情があると判断してくれたのだ。

 法律は、母・千夜子の苦難に配慮して、ほんの少しだけ憐れみをかけてくれたのだ。

 進が初めて、法律を肌で感じた時間だった。


「進、これでようやく、あなたは『この世界の人』になれたのよ」


 母の涙が進の頬に落ちた。

 この出来事がやがて、進の法律や政治・経済への関心に繋がっていく。

 進も母・千夜子も、この時は、全くそんなことは予想もしなかった。


【孤独な武器の錬成】


 進は、一人で図鑑を眺めていることが多い子どもだった。

 母・千夜子は、進の中にある子どもらしくない特異性に早くから気づいていた。


 進は、とにかく理屈っぽかった。

 そして、絵本が好きだった。

 毎日、本ばかり読んでいる子ども。


 進は、アリの観察、クモの巣の観察が好きだった。

 空を眺めて、雲の動きを観察もしていた。

「夕焼けが綺麗だから、明日は晴れだね」

 そんなことを言うようになった。

「ツバメが低いところを飛んでるから、雨が降るよ」

 進は、そんな話もするようになった。

 昭和45年も暮れゆこうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ