第2章 給料日の絶望、市役所の慈悲
昭和45年〜47年。
【九千円の絶望】
進がようやく首が据わり、離乳食を口にするようになった頃。
その日は進の父・俊郎の給料日だった。
母・千夜子は、複数のパートタイムの仕事を終えて帰宅していた。
支払をいくつも待ってもらった。
でも、明日はいくらか払える。
千夜子は、進を膝の上に乗せて、帰らない俊郎を待っていた。
時計の針は深夜一時を回っていた。
玄関の戸が荒々しく開く。
部屋に充満したのは、安酒の鼻を突く匂いと、父の千鳥足の音だった。
「……ただいま」
父・俊郎は壁に寄りかかり、焦点の定まらない目で母・千夜子と進を見た。
そして、くしゃくしゃになった薄い封筒を、畳の上に放り出した。
進の目の前に落ちたその封筒から、母・千夜子が震える手で中身を取り出した。
「今月……家に入れる金は、九千円しかない。残りは、付き合いで使った」
九千円。
家賃を払い、進のミルクを買い、家族が死なないためだけに最低限必要な額にすら、遠く及ばない数字。
これでは、支払いに回す金は無かった。
父は、自分のプライドを守るための「付き合い」に、進の命を繋ぐはずの金を費やしたのだ。
「今月、どうするのよ」
俊郎は答えなかった。
母は絶句していた。
怒る気力さえ奪われたような、深い、深い沈黙。
外では夜の雨が静かに降り続いていた。
進は母の腕の中で、その冷え切った空気を感じていた。
【信州の空想、岡崎の現実】
その頃、進がまだ見ぬ信州の祖母・智代は、新聞の片隅に「身元不明の遺体」を探していた。
「これ、千夜子じゃないだろうか」
進の母・千夜子は、実家と音信不通になっていた。
進の祖母・智代は、震える声で娘・千夜子を心配していた。
千夜子が駆け落ちしてだいぶ経っていた。
娘の不在に怯える初老の女がそこにいた。
末娘の千冬が言う。
「お姉ちゃんはどこかで幸せになってるよ」
でも、どう慰めても、智代の心は不安と心配でいたたまれなくなっていた。
信州の家族は、まだ「進」の存在を知らなかった。
岡崎の小さなアパートに、千夜子と俊郎、そしてお腹をすかした孫がいることなど、夢にも思わなかった。
進の祖母・智代が窓の外の山々を見つめ、溜息をついた。
その頃進は、母・千夜子の涙を肌に感じていたのだった。
進は、泣かなかった。
産声さえ出せなかったあの日と同じように、ただ、この不条理な世界をじっと見据えていた。
父・俊郎の「弱さ」と、母・千夜子の「忍耐」。
そして、自分を産道から引きずり出した「鉗子」の冷たさ。
「この子は、知的障害なんかじゃない。いつか、大勢の前で言葉を操る人になる」
母が抱いたあの夢。
光り輝く舞台の上で、父よりも強く、誰よりも知的な眼差しで世界に語りかける男。
その男になるための物語は、この九千円の夜から、本当の意味で始まったのだ。
岡崎の夜は更けていった。
「戦後」が終わり、高度経済成長の影で取り残された一組の男女と、その間に生まれた一人の少年。
進の記憶は、常に雨の匂いと、安酒の匂い、そして母の乾いた手の温もりから始まる。
しかしそれは、再生へのプロローグでもあった。
「仕方ないわねぇ。ご近所さんには内緒だからね。あなたに免じて、もう少し待ってあける」
大家さんが玄関先で千夜子に小声で呟いた。
「すみません。」
千夜子が頭を下げる。
「あんたも大変ね。今月は大丈夫なの?」
大丈夫なんかじゃない。
もう、家計は火の車だった。
「あのね、内緒よ。本当に内緒だからね」
家主は、何やら封筒を取り出した。
中から、百貨店の優待券が出できた。
「これを使って良いわ。言っとくけど、これ、あなたと息子さんにあげたのよ。旦那さんにあげたんじゃないわよ」
優待券1万円分。
それをタダで下さるという家主。
千夜子は、涙が止まらなかった。
「大事なことだから、もう1回言うわ。これは、あなたと息子の進君にあげるのよ」
千夜子は、すぐに金券を5000円分、駅前のコイン商に持っていった。
すると、額面の9割で買い取ってもらえた。
「これで、電気代もガス代も水道代も払えるわ」
千夜子は、家主の優しさに、本当に胸を打たれた。




