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第一章② 母・千夜子の再婚

1973年〜1975年

進を苦しめる鈴木の言葉。

進は本を読み漁る子どもに。

母・千夜子にも本をねだり、解説をするように。

千夜子は再婚を決意する。

【淵源への問い】

鈴木家で放たれた毒矢。

それは、幼い進の胸の深くに突き刺さったまま、消えない痛みとなって残っていた。

栴檀せんだんは双葉より芳し」

その言葉が意味する残酷なまでの決定論。

無能な種からは、無能な芽しか出ないという宣告。

これを、進はどうしても確かめずにはいられなかった。


彼は逃げ込むように図書館へ通い始めた。

背伸びをして開いた『平家物語』の古めかしい文体は、少年の指をすり抜けていった。

だが、子供向けの歴史漫画の中には、彼が求める「答え」が潜んでいた。


進の目を釘付けにしたのは、戦国大名・北条氏康とその嫡男、氏政の逸話である。

汁かけ飯を食べる際、一度注いだ汁の量が足りず、後から注ぎ足した息子を見て、名将・氏康は天を仰いだ。

「一度で汁の量も見極められぬ者に、国を差配する計画性などあろうはずがない。北条はわしの代で終わりだ」

そこには、鈴木が言ったのと同じ言葉が残酷に引用されていた。

『栴檀は若葉より芳し』


自分も、あの汁かけ飯の氏政と同じではないか。

父の血を継いだ僕は、もう手遅れなのだろうか。

進は、そのページを何度も、何度も、穴が開くほど読み返した。

それは読書というより、自分に下された死刑判決の正当性を確認するような、悲痛な儀式だった。


【活字の城塞】

一方で進は、本の魅力に取り憑かれていった。

遺伝についての子ども向けの本の中に、メンデルの法則の話があった。

最初は自らが父親に似た人間になるのか、知りたかった。

ただ、本を読み進めるうちに、進は新しい世界を知り、ワクワクするようになった。

最初は図書館の本で満足していた。

でも、だんだん自分の本が欲しくなった。


千夜子との生活において、進は「何も欲しがらない子」を演じていた。

しかし、本だけは例外だった。

街を歩けば、進の脳内地図には書店のある場所だけが鮮明な光を放って記録された。

千夜子は、進が立ち止まるのを恐れ、わざと本屋を避けるように遠回りをして歩いた。

だが、進はその微かな欺瞞を敏感に察知した。

そして声に出さずとも、不機嫌という名の無言の抵抗を示した。


やがて千夜子は根負けし、「誕生日に一冊、必ず本を買う」という約束を交わした。

手に入れた書物は、進にとって孤独を埋めるための煉瓦となった。

最初は歴史の深淵に潜り、やがてその興味は世界情勢、環境汚染、そして果てしない宇宙の彼方へと、SFの翼を借りて広がっていった。

ウェルズが描いた火星人の来襲、アシモフが警鐘を鳴らす地球の危機。

進はそれらの膨大な知識を自分一人に留めておくことができず、周囲に「解説」として放出し始めた。


だが、その熱量はあまりに過剰で、マニアックすぎた。

「正しいこと」への執着と、深掘りされた知識の奔流は、周囲の子供たちを、そして近隣の大人たちをも辟易させた。

進が口を開くたびに人々は静かに距離を置いた。

彼の周りには、活字で築かれた目に見えない壁がそびえ立っていった。


【真夜中の講義】

解説の行き場を失った進が最後に辿り着いたのは、夜の仕事で疲れ果てて帰宅する母の傍らだった。

個人経営の飲み屋を切り盛りする千夜子は、深夜にしか帰れない。

「寝てなさい」という言葉を振り切り、進は「1時には帰ってきて」と縋るように約束を取り付けた。


千夜子がそっと鍵を開け、真夜中の静寂の中に足を踏み入れると、寝ていたはずの進が跳ねるように起き上がる。

彼の枕元には、その夜の「講義」のために準備された数冊の本が整然と並んでいた。

当初は「早く寝なさい」とたしなめていた千夜子も、進のあまりの執念と、子供とは思えぬ知識の深さに、やがて折れるしかなかった。

「解説は30分だけよ」

それが、疲弊した母が差し出せる精一杯の愛の妥協点だった。


学校ではロッキード事件が世間を騒がせていた。

クラスメイトたちが時事ネタを揶揄するなか、進は独り、教室の片隅で自分の城を築いていた。

数少ない「聴衆」を捕まえては、彼は夢中で言葉を紡いだ。

その姿は、かつて千夜子が見た「大勢の前で語る息子」の夢の、ささやかな前兆のようでもあった。


【蜃気楼の幸福】

そんな折、千夜子の前に左官の親方である木島という男が現れた。

「結婚したら、家を買ってあげる。ずっと家にいてほしい」

その言葉は、生活のために夜の街を歩き続けてきた千夜子の乾いた心に、甘い雨のように染み込んだ。


「新しいお父さんが来ても、いいかな?」

母の問いに、進は深く頷いた。

母が夜の街に出なくて済む。

家で自分の話を、もっと長く聞いてくれるかもしれない。

今度こそ、自分たちは「普通の、幸せな家庭」という、物語の中だけに存在する場所に辿り着けるかもしれない。


二人はそう信じ、新しい生活の扉を叩いた。

だがそれが、さらなる流転の始まりであることを、まだ知る由もなかった。

【主な出来事】

ロッキード事件

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