第1章 産声なき誕生と母の背中
【産声なき誕生】
昭和42年6月2日。
愛知県岡崎市の湿った空気の中で、進は生まれた。
予定日を過ぎても一向に生まれなかったのは、これから待ち受ける過酷な運命を、胎内で予感していたからかもしれない。
激しい雷鳴が轟き、叩きつけるような雨が降る夜だった。
分娩室は、戦場のようだった。
母・千夜子は小柄な体だが、進の頭はあまりに大きく、産道に固く挟まったまま動かなくなった。
「心音が弱まっている!」
医師の叫び声が響く。
進は、出口のない暗闇の中で、命が消えかかる危機にあった。
冷たく光る金属の感触が進の頭を捉えた。
「鉗子」と呼ばれる巨大なヘラだ。
無理やり引きずり出される苦痛。
何度も、何度も。
ようやく引っ張り出された進の頭は、激しい吸引と圧力で歪み、血と傷にまみれていた。
最初、進は声を出さなかった。
肺に空気が入る感覚すら拒絶するようだった。
わずかな空白の時間。
その後で聞こえてきたのは、今にも消え入りそうな弱々しい泣き声だった。
「……知的障害の覚悟はしておいてください」
廊下で待つ父・俊郎に突きつけられた医師の冷徹な宣告。
進は、誕生の瞬間から、もう「絶望」の烙印を押された存在かに思えた。
だが、意識を失いかけた母は夢を見た。
夢の中で進は、光輝く舞台の上で、何千人という聴衆を前に何かを話していた。
堂々と、熱く語りかける成人した進の姿。
父に似た面影を持ちながら、その瞳には、力強い光が宿っていた。
母・千夜子は、この直感を信じた。
血だらけの赤ん坊を抱き、母は確信した。
「この子は、いつか言葉で世界を動かす人になる」
進という名は、
「どんな困難があっても前へ進み続けるように」
と願いを込めて名付けられた。
母・千夜子が退院し、仕事に戻ってしばらくした頃。
折しも、街の電波は戦後日本の大物政治家・吉田茂の国葬を伝えていた。
一つの時代が終わり、進という一人の男の、泥くさい戦いが始まった。
【諏訪湖の影と代々木の残照】
進が物心つく頃、進の家庭は常に貧しかった。
父・俊郎は、進の目には、そこに居ながらにして別の場所を見ている幽霊のように映った。
父が時折語る「東京・代々木の邸宅」の話や「名門大学」の思い出。
しかしそれは、岡崎の安アパートの湿った壁にはあまりに不釣り合いだった。
俊郎はもともと、華やかなエリート街道を歩んでいた。
重役の祖父・利蔵のもと、何不自由なく育った父。
しかし、その繊細すぎる神経は、冷徹な数字が支配する大手精密機器メーカーの営業職という現場で、ズタズタに引き裂かれた。
「重度のノイローゼ」。
今で言う適応障害。
父は都会の喧騒から逃れるように信州・岡谷へと赴任し、そこで母・千夜子と出会った。
母・千夜子もまた、深い孤独の中にいた。
信州の地主であった千夜子の父・治郎蔵の没落と、働かず、宗教に逃避する千夜子の母・智代。
選べない運命に疲弊していた千夜子と俊郎が、諏訪湖のほとりで惹かれ合ったのは必然だった。
しかし、その情愛の代償は大きかった。
父は東京に残した妻と二人の息子を捨て、母とともに「夜逃げ」を選んだ。
祖父・利蔵から突きつけられた絶縁状。
「二度と荒川の敷居を跨ぐな」
父・俊郎は進という新しい命が誕生した頃には、「エリート」としての全財産と、家系というメリットをすべて失ったのである。
進が岡崎の汚れた畳の上で這いずり回っている時、父はいつも窓の外を見ていた。
「今日の天竜川は流れが速い」
「諏訪湖ではそろそろ御神渡りが始まる頃だ」
父には時々、幻が見えるようだ。
ここは愛知県の岡崎。
進の目の前にあるのは、八丁味噌の匂いと、矢作川の濁った流れだけだ。
父の精神は、夜になると、常にあの静かな湖畔へと回帰していた。
現実に適応できない父は、次第に労働を拒むようになっていった。
【泥濘を這う母の背中】
追憶の中に閉じこもる進の父・俊郎。
一方で、進を育てるために進の母・千夜子は、身を削って働いた。
産後の肥立ちも悪く、鉗子分娩の傷跡が痛む体で、千夜子はパートの仕事を掛け持ちした。
進にとっての「家庭」とは、母・千夜子の不在と、父の虚ろな背中だった。
そんな進を救ったのは、隣の部屋に住む初老の「おばちゃん」だった。
元保母だという彼女は、母が働きに出ている間、進を自分の孫のように慈しんだ。
なぜ彼女がそれほどまでに親切だったのか、どこから生活費を得ていたのか、進は今でも知らない。
ただ、彼女が差し出す温かいミルクの味と、廊下で交わされる優しい言葉だけが、進にとっての数少ない安らぎだった。
父も、重い腰を上げて仕事を始めることはあった。
しかし、かつて「代々木のエリート」であった父にとって、岡崎の工事現場や工場での労働は、腹立たしい苦痛でしかなかった。
「汗が目に入って痛い」
「現場の言葉遣いが下品だ」
進は、帰宅した父が並べる言い訳を、幼いながらに冷めた目で見つめていた。
数日働いては辞める。
その繰り返し。
母の顔から次第に笑みが消え、代わりに深い隈と、鉄のような決意が刻まれていくのを進は見ていた。




