第一章① 湖畔の邂逅と、降りしきる不条理
1966年〜1973年。
元公務員試験対策講座専任講師YouTuber伊崎進の泣き笑いの半生をつづる大河小説。
いよいよスタートです。
【湖畔の邂逅と不協和音】
1966年、諏訪湖の静謐な湖畔。
長野県岡谷市の冷涼な風の中で、荒川俊郎と伊崎千夜子は出会った。
俊郎の実家は、東京の代々木に構える広大な邸宅だった。
何不自由のない少年期。
しかし小学校の頃、太平洋戦争の火蓋が切られ、彼の青春は戦後の混乱とともにあった。
復興の足音に合わせるように、東京の難関私立四年制大学を卒業。
重役である父・利蔵の強力なコネクションにより、大手精密機器製造販売企業に籍を置いた。
しかし、エリートの道は瞬く間に暗転した。
営業職として放り出された俊郎は、対人関係と数字の重圧に屈し、心身を摩耗させていく。
当時はまだ「適応障害」という言葉はなく、下された診断は「重度のノイローゼ」。
組織の歯車になれなかった彼は、職とともに最初の妻をも失った。
「仕事の出来ない男とは暮らせない」
その断絶を埋めるかのように現れたのが、初婚の千夜子だった。
一方、千夜子の背景もまた、時代の波に翻弄されていた。
実家はかつてこそ豊かだったが、実母が新興宗教にのめり込み、家財を散財。
7人きょうだいの4女(6番目)として生まれた彼女に、裕福な記憶は残っていない。
15歳の時に父・治郎輔を亡くすと、中卒で岡谷の製糸工場に身を投じた。
やがて時代の花形が絹から機械へ移ると、工場は精密機器工場へと変貌した。
千夜子は慣れ親しんだ糸を捨て、一から技術を覚え直す過酷な転職を経験する。
俊郎の語る都会の冗談と、寄る辺ない優しさに、彼女は微かな希望を託し、二人は結ばれた。
【嵐の夜の産声】
1967年、愛知県岡崎市。
生活は困窮を極めていた。
労働を拒む俊郎に代わり、千夜子が家計を一手に背負う中、新しい命が宿る。
6月の初夏、激しい雷鳴と雨が進の誕生を予告していた。
分娩室の千夜子を襲ったのは、何十時間にも及ぶ凄惨な難産だった。
胎児の頭が骨盤に引っかかり、進の心音は刻一刻と弱まっていく。
医師の顔に緊張が走り、ついに巨大な金属のへらのような「鉗子」が取り出された。
強引に引きずり出された進の頭は歪み、産声は弱々しかった。
「……鉗子分娩を実施しました。知的障害の覚悟をしておいてください」
医師の冷徹な宣告。
しかしその夜、病室で疲弊しきった千夜子は不思議な夢を見る。
そこは、目が眩むほど明るい光に包まれた舞台だった。
大勢の聴衆を前に、堂々と熱弁を振るう成人した息子の姿。
その声は力強く、迷いがない。
「ああ、よかった。産んでよかった」
目覚めた彼女の胸には、根拠のない、しかし揺るぎない「直意」が宿っていた。
幸いにも、進に障害は見つからなかった。
街の電光掲示板には、吉田茂氏の国葬のニュースが流れていた。
【降りしきる雨と「傘がない」】
1972年。保育園に通う進は、早くも周囲との「ズレ」を露呈させていた。
世はスーパーカーブーム。
友人のヒロシが「カウンタックの排気ガスがかっこいい」とはしゃぐ傍らで、進はただ「煙がいっぱい出て、なんでかっこいいの?」と問うた。
その理屈っぽさは「うるさい奴」として忌避され、進の周りから友人が消えていった。
1973年、オイルショックが日本を塗り替えた。
「排気ガスを出さない車が正しい」
と世論が手のひらを返したとき、幼い進が感じたのは世界の不確かさへの冷めた確信だった。
挿入曲:井上陽水『傘がない』
街角から流れる重いマイナーコード。
♪行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ♪
♪傘がない♪
ニュースでは世界が揺れ、正義が入れ替わる。
けれど、7歳の進にとっては、社会の変節よりも「自分を理解してくれる存在がいない」という、独りきりで雨の中に立たされているような孤独こそが、世界のすべてだった。
【深夜の逃航】
そんな哲学的な思索を断ち切るように、1973年の深夜、進は大型トラックの助手席へと放り込まれた。
借金取りの執拗な足音から逃れるため、一家は住み慣れた土地を捨て、闇に紛れて名古屋へと向かう。
父・俊郎が握るハンドルの横で、進は重く垂れ込めた窓の外を見つめていた。
カーステレオから流れるのは、母が愛した田端義夫の『帰り船』。
バタやんの湿り気を帯びた節回しが、エンジンの振動に混ざり合う。
トラックが夜のバイパスを走るたび、これまでの生活が遠ざかっていく。
やがて流れてきた『ふるさとの燈台』のメロディが、進の耳にこびりついた。
♪さざなみは さざなみは 舟を揺するよ♪
揺れる車体は、文字通り進の日常の崩壊を揺さぶっていた。
どこへ着くかもわからない不安を乗せたトラックは、夜の闇を切り裂きながら、見知らぬ街へと突き進んでいった。
【毒を盛る家】
1974年。名古屋での潜伏生活も、俊郎の放蕩により破綻を迎える。
「パパと別れても、いいかな?」 喫茶店で越路吹雪の『サン・トワ・マミー』が流れる中、進は千夜子の問いに小さく頷いた。
離婚後のある日、母の元同僚である鈴木という女性の家を訪ねた。
彼女は岡谷の工場時代、共に新しい仕事を覚え直した仲だったが、名古屋で裕福な家庭に嫁いでいた。
立派な門構えの邸宅。しかし、その内側は冷え切っていた。
鈴木は、裕福な実家に生まれながら「女に学問は不要」と進学を断たれた過去を持ち、現在は夫との家庭内別居を世間体だけで維持していた。
「進、ママ、郵便局に行ってくるけど、少しだけ待ってて」
千夜子が席を外した刹那、応接間の豪華な調度品が、進にとって圧迫感のある怪物に変わった。鈴木が進をじっと見つめ、氷のような微笑を浮かべた。
「……進君、栴檀は双葉より芳し、という言葉を知ってる? 良い香りがする木は、芽が出たときからもう良い香りがするものなの」
進が首を傾げると、彼女は声を低くして続けた。
「でも君は、パパにそっくり。ママには少しも似ていない。お味噌汁を飲むとき、一度で味が決まらないで何度も何度も汁を足した、昔のお殿様の話があるのよ。北条氏政というんだけどね、その人は結局、お城を潰してしまったわ。君もパパと同じようになる。仕事のできない、ダメな大人になるのよ」
進の小さな胸に、冷たい針が刺さる。
鈴木の瞳には、自由と息子を手に入れた千夜子への、暗く澱んだ嫉妬が燃えていた。
そこへ千夜子が戻ってきた。進の青ざめた顔を見て、彼女は鈴木を問い詰めた。
「鈴木さん、この子に何を言ったの?」
「本当のことを教えてあげただけよ。あんな無能な男の血を引いているんですもの。千夜子さん、あなただけが頑張っても、この子の未来はもう決まっているのよ」
千夜子は激しい怒りとともに、その場で絶縁を突きつけた。
進を連れて飛び出した夕暮れの道。
母は進の手を強く握りしめた。
母だけはあの「熱弁を振るう息子」の夢を捨てていなかった。
しかし、進の心に刻まれた「栴檀」と「北条氏政」の呪いは、彼を「父とは違う自分」へと駆り立てる、消えない火種となったのである。
挿入曲:ペドロ&カプリシャス『ジョニーへの伝言』
街に流れる歌声が、去りゆく者と残される者の哀愁を響かせていた。
「ジョニーが来たなら伝えてよ 二時間待ってたと」
それは、かつての家族という形への決別と、母子二人で歩み出す未知なる旅路の始まりを象徴していた。
【主な出来事】
吉田茂氏国葬
オイルショック




