第2章 折り重なる別れの情景
【人生の扉を開けるとき】
プロジェクトの準備を整え、進は書斎の窓を開けた。
夕暮れの風に乗って、近隣の家からだろうか、竹内まりやさんの歌声が微かに流れてきた。
挿入曲:竹内まりや『人生の扉』
50代の終盤を迎え、適応障害という深い谷を経験した進の心に、その歌詞が静かに染み入る。
かつてのように、何百人の前で大声を張り上げるエネルギーはないかもしれない。
けれど、年齢を重ねたからこそ、そして数々の失敗と挫折を経験したからこそ、伝えられる「優しさ」がある。
【鳴り止まない訃報】
しかし、人生の扉を潜るたび、背後では大切な人々が一人、また一人とこの世を去っていく。
大阪の定時制高校時代、英語の基礎を叩き込んでくれた恩師・山崎先生の訃報が届いた。
山崎先生は、進が黎明大学に入学したあと定年退職して、ニュージーランドに渡った。
そこで、国際交流のNPOのスタッフとして活躍されたそうだ。
あの時、山崎先生が示してくれた道がなければ、今の自分は存在しなかった。
それを進は、痛いほど自覚していた。
進は深く頭を垂れ、感謝の念を込めて香典を送った。
悲しみは連鎖するように続く。
スマートフォンの画面に、寮時代の友人が病気で危篤であるというグループラインの通知が走った。
「仕事が終わったら……」
「週末には……」
と焦る進の思いとは裏腹に、現実は残酷だった。
多忙な業務に追われ、見舞いに行けないまま、友人は息を引き取った。
ラインには、かつての寮友たちが病室に集まり、友を励ます写真や、その後の葬儀の様子が次々とアップされていく。
画面越しの光景はどこか遠く、最後を共にする時間さえ奪われた自分の不甲斐なさが、胸を締め付けた。
【呪縛の終わり】
信州の叔父・政夫もまた、その生涯を閉じた。
知らせをくれたのは、恩人である鹿沢からの電話だった。
「……政夫さんが亡くなったよ」
受話器越しの鹿沢の声に、進は激しい葛藤に襲われた。
母の本を捨て、自分を否定し続けた男。
けれど、今の自分がこうして生きている過程の、紛れもない一部であった男。
京都からわざわざ信州まで行くべきか。
進が受話器を握りしめ沈黙していると、鹿沢が静かに言った。
「無理をすることはないよ、進。お前の代わりに、俺がしっかり見送っておくから」
その言葉に、進は憑き物が落ちたような心地になった。
許したわけではない。
けれど、かつて自分を守ってくれた鹿沢が代わりに葬儀に出てくれることで、ようやく進の中の「信州」という呪縛が、一つの終止符を打ったのだ。
【鉄瓶の音と、意外な「功績」】
葬儀からしばらく経った頃、政夫の長男であり、進にとっては従兄弟にあたる政文から、香典のお返しが届いた。
包みを開けると、中に入っていたのは上質な茶葉だった。
進は鉄瓶で湯を沸かし、丁寧に茶を淹れた。
湯呑みから立ち上がる若草のような香りを吸い込みながら、隣に座る美智子にそっと語りかける。
「これ、政夫おじさんのところから届いたんだ。……あんなに憎み合ったのに、最後はお茶一杯で終わりかと思うと、不思議なもんだね」
進が自嘲気味にそう呟くと、お茶を一口すすった美智子が、いつになく真剣な表情で顔を上げた。
「進君。私はね、あの叔父さんはある意味、進君にとって必要な人だったんだと思うのよ」
「……どういうことだい?」
「だって、あの叔父さんがあんなに意地を張って進君を追い出したから、進君は鹿沢さんのところへ行くことになったんでしょう? もしあのまま信州の家で、なんとなく高校に通わせてもらっていたら、今の進君はいないかもしれない」
美智子は茶碗を置き、真っ直ぐに進を見つめた。
「あの人がいたから、進君は定時制高校を選んで、私と出会った。それから必死に勉強して、京都に来て、私とまた出会った。そう考えると、あの叔父さんが一番の『きっかけ』を作ってくれた人なんじゃないかな」
進は言葉を失い、ゆっくりと冷めていく茶を見つめた。
負の遺産だと思っていた政夫との歳月が、美智子の言葉によって、現在の幸せへと続く一本の道として再定義されていく。
政夫の悪意や拒絶がなければ、進は「選ぶ」ことすら知らなかったかもしれない。
「……そうか。皮肉なもんだね」
進は最後の一口を飲み干した。
口の中に残るわずかな苦みは、かつての信州の夜の寒さを思い出させたが、その後の余韻は驚くほど穏やかで、温かかった。
【止まった銀輪と、冷徹な言葉】
次の日の午後、進は予備校の重要な会議に向かうため、駅のホームに立っていた。
しかし、無情なアナウンスが響く。人身事故により電車が完全にストップしたのだ。
進はすぐさま予備校に電話連絡を入れ、スマートフォンの地図を駆使して迂回ルートを探し、必死の思いで予備校へと向かった。
ようやく到着したものの、他の講師たちも同じ電車を利用していたため、出席者はまばらだった。
結局、多数の講師が大幅に遅刻したことで、まともな議論は成立せず、会議は後日やり直しとなってしまった。
帰り道、疲れ切ったある講師が苛立ちを隠さずに吐き捨てた。
「全く、予定を狂わされた。死ぬのは勝手だが、独りで誰にも迷惑をかけずに死んでほしいものだ」
その冷淡な物言いに、傍らにいた別の講師が眉をひそめた。
「……そんなことは、あまり口にしないほうがいいですよ」
進はそのやり取りを背中で聞きながら、かつて自分が事故に遭った際、担任教師に「とろっくさい」と笑われた記憶がふと蘇り、胸の奥が少しだけ冷えるのを感じた。
【九州からの報せ】
それから数日が経った頃。再び、別の路線で人身事故が発生したというニュースが流れた。今度は遥か遠く、九州での出来事だった。
予備校の講師室で、先日「迷惑だ」と毒づいていたあの講師が、真っ青な顔をして椅子に座り込んでいた。
手にはスマートフォンが握られ、その指は微かに震えている。
亡くなったのは、その講師の幼なじみだった。
かつて「独りで死ね」と言い放ったその言葉が、今、ブーメランのように彼自身の胸に突き刺さっているのが見て取れた。
他人の死を「時刻表の乱れ」としてしか捉えられなかった傲慢さが、身近な人間の死によって無惨に粉砕された瞬間だった。
進は、その講師にかける言葉を見つけられなかった。
ただ、法律という「理性」を扱う者が、他者の「生」の重みを忘れてはならないという教訓だけが、静かに室内に漂っていた。
【新しい講義の始まり】
去りゆく人々を見送りながら、進は再び、手元のパペットを見つめた。
「タロ。お前が語るんだ。法律は、お経じゃない。人を守るための温かい知恵なんだって」
進はパソコンのカメラの前に立ち、タロを構えた。 「さあ、出番だぞ。法律の勉強で泣かされている若手たちを、一緒に助けに行こうか」
進がタロの口をパクパクと動かすと、画面の中の小さな犬が、まるで命を吹き込まれたかのように元気に跳ねた。
人生の扉を一つ潜り抜けた男の、悲しみと再生を詰め込んだ新しい「講義」が、今、静かに始まろうとしていた。




