第1章 帰還する日常、そして「タロ」との再会
【砂噛む現場の悲鳴】
窓の外では、春を予感させる柔らかな日差しが、予備校の無機質な廊下を照らしていた。
講義を終えたばかりの進は、懐かしい顔と対面していた。
数年前、必死の面持ちで教壇を見つめていた受講生の一人が、今では立派な中堅公務員となり、近況報告に訪れていたのだ。
しかし、再会の喜びも束の間、元受講生がこぼした言葉に進は息を呑んだ。
「進先生、実は……現場が、本当に苦しいんです」
かつては「安定の代名詞」だった公務員の世界。
その足元で、何かが静かに、だが決定的に崩れ始めているという。
「法律を体系的に学ばずに現場に入る子が増えています。研修は駆け足で、実務に追われ、昇進試験に向けた勉強なんて、もはや過去問を根性で暗記するだけの『お経の読経』ですよ」
元受講生は、力なく首を振った。
「意味も分からず数字や文言を丸暗記して……。辞める人はまだ多くはないですが、みんな死んだ魚のような目で、昇進試験という名の苦行に耐えています。これじゃあ、市民を守るための法律が、自分たちを縛る鎖でしかない」
進の脳裏に、これまでの歩みが去来した。
「……現場で迷える彼らを、そのままにはしておけないな」
【画面越しの壁――孤独な試行錯誤】
「YouTube……か」
呟いた言葉は、期待と同時に重い課題を進に突きつけた。
進には長年、数百人の受講生を前に、その場の空気を支配し、熱量で圧倒してきた自負がある。
しかし、いざ書斎のデスクにカメラを据え、一人で座ってみると、その培ってきたはずの「講義のスタイル」が、画面の中ではあまりに硬く、そして異様に重すぎることに気づかされた。
進は、試しに数分間、カメラに向かって行政法の解説を録画してみた。
「……本日のテーマは、行政手続法における不利益処分の……」
再生ボタンを押すと、画面に映し出されたのは、眉間に深い皺を刻み、険しい表情で法理を説く初老の男だった。
背景の書棚は威圧感を放ち、声のトーンはまるで法廷の陳述のように単調で冷たい。
「これではダメだ。重すぎる」
進は頭を抱えた。
適応障害を経験し、現場の過酷さを誰よりも知る進だからこそ、わかることがあった。
疲れ果てて帰宅し、ようやくスマートフォンの画面を開いた若手職員たちが、自分のような「真剣すぎる顔つき」の男から、説教じみた法律の講義を聞きたいはずがない。
「もっと親しみやすく、かつ本質を突く形はないものか……。彼らの心の『隙間』に、すっと入り込めるような……」
進は夜遅くまでパソコンに向かい、ヒントを探してネットの海を彷徨っていた。
成功しているクリエイターたちの動画を片端から分析し、光の当て方、編集のテンポ、語り口を研究した。
しかし、どれも今の自分のキャラクターには合わない。
若者の真似をしても、それは単なる「痛々しい年配者」の滑稽な姿に成り下がるだけだ。
匿名性を保ちつつ、温かみがあり、かつ権威を消し去る手法。
模索は数週間に及んだ。
出口のない迷宮を歩いているような感覚。
だが、その彷徨の果てに、進はある運命的な出会いを果たすことになる。
それは、ネットショッピングの画面をスクロールしていた時のことだ。
ある玩具メーカーのパペットが、進の指を止めた。
「……タロ?」
画面の中にいたのは、かつて近所で可愛がっていた、あの人懐っこい飼い犬にそっくりな犬のパペットだった。
進の胸の奥で、止まっていた歯車が静かに、しかし力強く動き始めた。
【消えた足跡と、永遠の面影】
柔らかな毛並み、ふっくらとしたマズルの形、少し垂れた右耳の角度。
「……タロだ。間違いなくタロ!」
進の記憶が、一気に母と暮らした松本市の光景に引き戻される。
松本での孤独な少年時代、タロは進にとって唯一の、言葉のいらない親友だった。
近所の家の軒先で、鎖が擦れる音とともに進を迎えてくれるあの茶色の背中。
学校でいじめられ、言葉の棘を全身に浴びて帰る日も、タロだけは何も言わずにただ尻尾を振り、濡れた鼻先を進の手に押し当ててくれた。
その無条件の肯定が、進の壊れそうな心をどれほど繋ぎ止めたか知れない。
しかし、別れは唐突に訪れた。
大阪の定時制高校へ進学し、寮生活という戦場に身を投じた進は、二年の月日を経てようやく松本の地を再訪した。
真っ先に向かったのは、あの軒先だった。
「タロ!」
声を張り上げた進を待っていたのは、静まり返った空き地と、土に半分埋もれた古い犬小屋だけだった。
「タロはね、去年、病気で死んじゃったんだよ」
飼い主の言葉に、進はその場に崩れ落ちた。
自分だけが新しい世界へ進み、タロを置いていってしまった。
最後を看取ることも、礼を言うこともできなかった。
進にとって、タロの死は「帰るべき場所」が完全に失われたことを意味していた。
【再会という名の決意】
進は吸い寄せられるように、画面の中のパペットを注文した。
数日後、届いた箱を美智子と一緒に開けた。
「あら、進さん、可愛らしいじゃない。どうしたの、これ?」
美智子が微笑みながら、パペットの頭を指先で撫でた。
「タロだよ。ネットで見つけたんだ。不思議なもんだな……タロはもう、ずいぶん前にいなくなってしまったけれど。まさかこんな形で、また一緒に仕事をすることになるとは」
進はパペットを自分の手にはめ、そっと動かしてみた。
指先に伝わる柔らかな感触が、かつてタロの頭を撫でた時の温もりと重なる。
パペットの瞳には、かつてのタロと同じ、慈愛に満ちた光が宿っているように見えた。
「タロ、お前なら若手職員たちの不安も、優しく聞いてくれるだろう?」
自分が直接語るのではなく、タロを通して法を説く。
それは、かつて自分を救ってくれた「言葉を超えた優しさ」を、現代の若者たちへ還元する作業に他ならなかった。
進は確信した。この小さな「相棒」こそが、自分の凸凹を埋め、多くの人を救う鍵になるのだと。




